「ヘブル書のキリスト⑤」
ヘブル人への手紙 2章:1節~18節
牧師:佐藤勝徳
2:1 ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。 2:2 もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、 2:3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、 2:4 そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。 2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 2:6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。 2:7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、 2:8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。 2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」 2:13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。 2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 2:16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。 2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
へブル人への手紙の著者は、初代教会時代の迫害下にある、ユダヤ人キリスト者をキリスト正しく信じる信仰に導く事によって、厳しい迫害の苦しみを忍耐し、信仰を捨てないで、いのちを保ち神の祝福の約束を受ける事を願ってヘブル書を書きました。以下が、ヘブル書を書いた著者の動機を教えている聖句です。 ◆「6:12 その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。」 ◆「10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」
◆「10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
キリストを信じる者に与えられている神の約束の事をヘブル書9章15節では「永遠の資産」と呼んでいます。ペテロは、それが天にある事を教えています。 ◆「Ⅰペテ 1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」 では、天に蓄えられている朽ちない、汚れない消えない永遠の資産とは何でしょうか。財産と聞くと、普通はこの地上の朽ち、汚れたり、消えゆくお金や土地や家建物など、物質的なものを考えます。次に、物質的なものでなく、精神的な財産があります。友だち、様々な体験、物を見事に作り出す技術や知恵、様々な文化なども大事な財産、宝だと考える人がいます。では、キリストを信じるユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンに約束されている、天にある朽ちない、汚れない、消えない永遠の財産、永遠の資産とは何でしょうか。その答えは、ヘブル書12章にあります。ヘブル書12章では、迫害されて殉教で命をなくしたり、その他の事で死んでいくユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが近づいてる天にある資産、財産の明細目録が教えられています。 ◆「ヘブル12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。 12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、 12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」 1、天にある霊的財産(資産)とは 第1に、シオンの山とか生ける神の都と呼ばれている「天のエルサレム」です。
異邦人クリスチャンには「天のエルサレム」と聞いてもピンとこなかったかもしれませんが、キリストを信じるのユダヤ人達は、ピンと来たと思います。信仰あるユダヤ人にとっては、地上のエルサレムは、シオンの山と呼ばれた山に建設されたイスラエルの都であり、その神殿には、創造主の偉大なる神が臨在されていた聖なる都でした。その、都は、アブラハム契約に従って、世界の人々に神の祝福をもたらしていく都、神の似姿を回復した素晴らしい人物を生み出し、その人物を世界に満たすという神のビジョン実現の為の都として、神に特別に選ばれた都でした。その、地上のエルサレムは、実は天にあるエルサレムのひな型として、造られていたのです。それを、ヘブル書の著者が明らかにしました。信仰あるユダヤ人にとっては、地上のエルサレムは財産でしたが、それは朽ちて行くものだと知っていました。しかし、天には朽ちない永遠の都エルサレムを神が既に設計され建設されていたことを知らされて喜んだのです。旧約時代のアブラハムやイサクやヤコブは、天にある永遠の都がエルサレムと名付けられることを知りませんでしたが、神が天に永遠の都を準備して待ってくださっている事を知っていました。「ヘブル11:9 信仰によって、彼(アブラハム)は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・・11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです」。天にある永遠の都であるエルサレムは、永遠に朽ちない汚れない消えない偉大な価値がある永遠の財産の一つです。アブラハムやイサクやヤコブには財産がありましたが、定住の為に立派な家を建てる事をしませんでした。その理由は、カナンの先住民から尋ねられた時、「自分たちが目指しているのは、創造主の神がご準備して下さっている天にある都」だと証をして、創造主の愛を伝えていたのです。
第2は無数のみ使い達の祝会です。 地上で罪びとの一人が罪を悔い改めて神に立ち帰れば大喜びする、愛と善意と正義に満ちた無数の善天使達、又、キリストを信じる者の守護天使となっている天使たち、幼子の守護天使となっている天使達との永遠の喜び交わりが天では待っているのです。私たちは、この地上で、守護天使たちが毎日毎日どのようにして私たちを色々な危険から守っているのか分かりませんが、天に行けばその全容が知らされ、彼らの守りに深く感動して喜ぶのです。私は小学生2年の時に、大阪の淀川の河川敷にあった米軍の爆撃で出来ていた「爆弾池」でおぼれました。深く沈み闇が私を覆い、死ぬと思いました。しかし、底の近くに一本の草があったのか私はそれを思いっきり握りぐいと下にやると、スート上に浮かんで行き、命拾いをしました。今から、振り返ると、天使が私に一本の草を握らせてくれたと感謝しています。この世界は、悪魔と悪霊共と人間の罪による様々な災いが満ちています。幼子やキリスト者は、そのような多くの災いから守られて日々生かされています。天に行くと、その守護天使たちがどのように私たちを守って下さったか、その全容を知らされるのです。そうです、ユダヤ人キリスト者、異邦人キリスト者には、無数の守護天使達と愛の交わりの喜びが永遠に続くという霊的財産が天にあるのです。
第3は、天に登録されている長子たちの教会です。
先に天に召された全てのキリスト者の交わりを「天に登録されている長子たちの教会」と呼んでいます。ユダヤ人は神の前では異邦人に対して「長子」と呼ばれています。それは、ユダヤ人は異邦人との比較では2倍の恵みを受けているからです。
◆「イザ 40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」(他、61:7) 聖書は、ユダヤ人の長子は他の兄弟よりも2倍の祝福を受ける事を教えています。イザヤは、ユダヤ人を異邦人との比較で2倍の恵みを受ける民族だと教えていますので、ユダヤ人は異邦人に対して「長子(兄)」に当たる兄弟だと言えるのです。デンマークは、ユダヤ人市民を移送しようとするナチス政権に積極的に抵抗した唯一の被占領国でした(ネットのホロコースト百科辞典より)。そのデンマークの教会の牧師たちはユダヤ人を自分達の「お兄さん」と呼び、礼拝メッセージで教会に集う信徒に向かって、ある日曜日の礼拝で「お兄さんであるユダヤ人をナチの迫害から守りましょう」と伝えました。その結果、沢山のユダヤ人の命が守られたのです。(メシヤニックジュウの牧師の講演より/日時不明/講演会場:大阪符寝屋川市にある日之出キリスト教会)。その長子であるユダヤ人によって教会はスタートしたので、キリストの教会は異邦人キリスト者も含めて「長子の教会」と呼ばれています。2000年前にペンテコステの時に誕生した教会に属する全てのキリスト者で構成されいてる教会が天には存在し、その教会に属する全ての聖徒達との愛の交わりの喜びが永遠に続くという霊的財産が全てのキリスト者の為に天あるのです。
第4は、「万民の審判者なる神」呼ばれている父なる神です。 本来、私たちは誰も父なる神に直接に近づいて愛のお交わりはできません。パウロが次のように教えています。
◆「Ⅰテモ 6:16 死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」 以上の偉大なる天の父なる神が万民の審判者として、罪びとの世界に対して厳しくかかわっておられますが、私たちキリスト者その罪に厳格な父なる神さまと永遠に罪赦され義人とされた者として、何の遠慮もなく愛のお交わりが永遠に許されるのです。それが、キリストを信じるユダヤ人キリスト者、異邦人キリスト者の霊的財産なのです。昔、ユダヤ人は、荒野の40年の旅を終えて約束の地に導かれ、12部族の約束の地が分配されました。その時、レビ人だけは約束の地を相続することが出来ませんでした。そのレビ人が相続したのは「神さま」であったのです。神さまが彼らの相続地ととなられたのです。 ◆「10:9 それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、【主】が彼について言われたように、【主】が彼の相続地である──・・」
◆「申8:1 レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは【主】への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。 18:2 彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、【主】ご自身が、彼らの相続地である。」。
どんな霊的財産に優って罪に厳格な万民の審判者なる父なる神との生きた直接的な遠慮のない最も親しい親子としての愛の交わりは全てのキリスト者の為に天にある大いなる霊的財産です。万民の審判者なる神が全てのキリスト者の相続財産なのです。 第5は、全うされた義人たちの霊です。 全うされた義人たちの霊と言うのは「旧約時代の全ての聖徒達」の事です。旧約時代の聖徒達は、神が約束された事を信じるという「信仰によって罪が赦され義とされた聖徒達」でした。しかし、旧約時代には、まだ、人類の罪が取り除かれておらず、覆われただけでした。モーセ律法の動物犠牲の贖罪は、罪を取り除くことが出来ず覆うだけでした。 ◆「ヘブ 10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません」 しかし、罪が完全に取り除かれるという完全な清めは、イエス・キリストによって十字架の苦しみによって実現しました。「それまでの旧約時代の聖徒達の罪は取り除かれず覆われただけでしたので、彼らは死んだ後、天に御国へ行けず、ヘブル語でシェオール、ギリシャ語で「ハデス」、日本語訳では「陰府」と呼ばれる場所にあった安らぎの場所「アブラハムの懐」とか「パラダイス」と呼ばれた地球の真ん中に導かれていました。しかし、キリストが十字架で彼らの全ての罪を取り除き、かられも罪から完全に清められました。その結果、キリストが復活して天に昇って行かれる時、彼らも一緒に天に導かれていったのです。キリストによって天に導かれた旧約時代の聖徒達の事をヘブル書の著者は「全うされた義人の霊」と呼んだのです。詳しい事はイザヤ書53章とエペソ書4章等で教えられています。私たちキリスト者は死んで天の御国へ行けば、アベル、エノク、アブラハム、イサク、ヤコブ、サラ、等数多くの旧約時代の聖徒達との交わりに導かれ、旧約時代の聖徒達の信仰の歩みを詳しく聞いたりしながら、愛の交わりを十分に楽しむ事ができるのです。それも素晴らしい霊的財産です。
第6は、新しい契約の仲介者イエスです。 ヘブル書の著者は、イエス・キリストを「新しい契約の仲介者」と呼んでいます。新しい契約と言うのは、預言者エレミヤを通して、神さまがイスラエル民族と締結された契約です。その契約内容の詳細はエレミヤ書31章に啓示されています。それによれば、新しい契約は、モーセ契約とは異なると、先ず断りがされています。モーセ契約は神の律法を守れば祝福する。違反すれば呪うという、祝福を受ける為には「律法を守り行う」という、条件を満たすことが求められました。それ故に、モーセ律法に基づく「モーセ契約」は「条件的契約」と言われています。エレミヤを通して結ばれた「新しい契約」はそのような「条件契約」ではなく、律法を守るという行いがなくても祝福を受ける「無条件契約」だと宣言されました。その上で、契約の条項が2つ結ばれました。それは第1に、神の律法を心に刻印して、自然と神の御心に叶った生き方をさせるという事です。第2は、永遠の罪の赦しです。 ◆「31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ── 31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」 キリストは、十字架にかかられる前の夜に、聖餐式を制定されました。その時、杯を取って「ルカ22:20この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました。キリストは、エレミヤを通して神が結ばれた新しい契約が、自分が十字架で流す、ユダヤ人と異邦人の全ての者の罪を取り除く血によって成就する事を教えられたのです。それ故に、ヘブル書の著者は、キリストを新しい契約が成就するための、父なる神と全ての罪びとの仲介の役割を果たした「仲介者」だと、教えたのです。同じことを、パウロは第1テモテ書2章で教えています。 ◆「Ⅰテモ 2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」私たちが、天に導かれた時、新しい契約の成就の為の唯一の仲介者イエス様をみて、その御体に残っている十字架の苦難の痕を見て、その犠牲の愛の大きさに改めて涙して感謝を捧げるののです。唯一の仲介者ナザレのイエス・キリストとの深い愛の交わりの喜びが永遠に続く事が天にある霊的財産なのです。
第7は、「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの十字架の血です。
アベルの血は、兄カインに殺された時に流した血です。それによってアベルは死にました。そのアベルの流した血とキリストの十字架の血が比較されており、キリストの十字架の注ぎの血は、アベルの血にすぐれているとヘブル書の著者は教えています。ヘブル書の著者は、キリストはみ使い優っているとか、モーセに優っているとか、モーセ律法に基づく大祭司よりも勝っているメルキゼデクの位に等しい大祭司とか、色々と比較してキリストの偉大さを教えています。彼のキリストを論じる為の一つの手法となっています。そのように、キリストが十字架で流された、罪びとを清める為の注ぎの血は、アベルの血よりも優れているというのです。アベルの血は、誰かの為に犠牲となって流した血ではありません。兄カインによって殺された時に流された血です。その事件があった時、神様は兄カインに次のように言われました。
◆「創 4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。 4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。 4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ」。
神さまは、アベルの血を擬人化して、アベルの血がご自身に向かって叫んでいると言われました。アベルの血は何を神に向かって叫んだのでしょうか。それは、自分を殺した兄カインへのアベルの呪う叫びです。その叫びを聞かれた神さまは。実際にカインを呪い、裁きをなさいました。アベルの血の呪いの叫びは、正当なものとして神様はお聞きなって、カインを呪って裁かれたのです。この世界には、アベルのように不当に殺された人の血が沢山流され、その血の呪いを求める叫びは神さまに届いているのです。それは、正当なものとして神様はお聞きになっているのです。しかし、キリストの十字架の血は、ご自分を実際に十字架につけた当時のユダヤ人や異邦人ピラトたちを、呪う叫びの血でなく、赦しを叫び求めている血です。また、どんな恐ろしい殺人の罪を犯し殺された人たちの血がご自身に向かって呪いを叫び求めていても、その殺人者が十字架の罪の贖い御業を信じるならば、呪いを求める血の叫びから解放して下さるように神に向かって叫んでいる血なのです。父なる神は、呪いを叫び求める正当叫びよりも、キリストの赦しを求める十字架の注ぎの血の叫びをお聞きになるのです。それ故に、キリストの十字架の注ぎの血は、アベルの血に優る血だとヘブル書の著者は教えています。私たちが天に御国へ導かれると、、とりなしをされているキリストが、アベルの血に優る、注ぎかけの十字架の血が携えておられるのを見るのです。私たちは、その聖なる尊い血を見ながら、自分が永遠に罪の赦しの中に置かれている事をいつも喜び賛美するのです。そのキリストの十字架の血こそが、天にある私たちは受け継ぐべき霊的財産なのです。 ヘブル書の著者は、厳しい迫害によって殉教の死を遂げるかもしれない恐れの中にある、ユダヤ人聖徒たちが、信仰を失わないで、死後の希望をもって、殉教者の道を歩む事を願って、キリスト者に約束されている天において受け継ぐべき霊的財産を詳しく論じたのです。試練や苦難を耐えて忍ぶ秘訣は、その先にある祝福に満ちた希望に目を留める事にありますので、ヘブル書の著者は、ユダヤ人キリスト者に与えられている希望について語り、苦難の中にある彼らを励ましたのです。
2、聖とする方も聖とされる者も元は一つとは さて、2:11に「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」と教えられていますが、「聖とする方」と言うのは「イエス・キリスト」の事です。「聖とされる者たち」といのは、ユダヤ人キリスト者及び異邦人キリスト者の事です。先ず、ユダヤ人キリスト者とイエス・キリストとの関係について学びましょう。
①キリストとユダヤ人キリスト者との関係 マタイによる福音書1章で、イエス・キリストの系図が教えられていますが、キリストの事がアブラハムの子と呼ばれています。キリストは聖霊によって母マリヤに受胎されました。その結果、母マリヤからも夫ヨセフからも罪の性質をもっている細胞を受け継ぐことはありませんでした。しかし、聖霊によって宿った胎児のキリストが成長するには母マリヤの母胎の血が不可欠です。その為に母マリヤが受け継いできたアブラハムの血によって胎児のキリストは成長し誕生されたのです。しかし、キリスト以外のユダヤ人は、両親から罪の性質をもった細胞を受け継ぎ、それぞれの母の母胎のアブラハムの血によって成長し誕生をしました。彼らは、罪の性質を遺伝によって受け継ぎ、古い人として誕生したので、多くの罪を犯す存在となりました。彼らは聖とする方であるキリストの十字架罪なきの血によって清められて聖とされなければならないものです。聖とする方も、聖とされる者たちも元は一つと言うのは、同じアブラハムの血によって誕生し存在しているいう事です。それ故に、キリストは、ユダヤ人には特別な親近感をお持ちなのです。それが次のように教えられています。 1)キリストはユダヤ人を「私の兄弟」と呼ばれている ◆「2:11それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。・・」 以上のみ言葉で、主であるキリストは、ユダヤ人を「兄弟と呼ぶ事を恥とされなかった」と教えられています。この兄弟と言うのは同じアブラハムの血で存在しているという血統的な意味でのユダヤ人の事です。どんなに恐ろしい罪を犯すユダヤ人であっても、どんなに悲しい欠点を持っていても血統的な意味で彼らを「兄弟」と呼ぶ事をキリストは恥とされず、大いに喜んでおられるのです。「恥とされず」と言うのは、大いに喜んでいるという事です。イスラエルのガザ地区への攻撃によって広がるパレスチナの人々は地獄のような苦しみを負っています。その事が偏向報道も重なって、ユダヤ人が世界から厳しい批判にさらされています。それでも、そのような、イスラエルをキリストは特別に「我が兄弟」と呼ばれている事を私たちは忘れないようにしましょう。それは、もちろん、イスラエルを批判してはいけないという意味ではありません。イスラエルに深刻な問題があっても、もしそれが偏向報道によるものでなく事実であっても、キリストも厳しくイスラエルに臨まれながらも、心は「我が兄弟」として愛されているのです。 2)御名を告げる ◆「2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。・・・」 キリストは我が兄弟と呼ぶユダヤ人に、「憐れみ深い」という父なる神の尊い御名を教え諭して救いに導こうと、いつも心を燃やされているのです。私たちも、ユダヤ人がイエス様の「御名を告げる」お働きによって救われるように祈りましょう。
2、ユダヤ人キリスト者の会衆と共に礼拝するキリスト ◆「教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」 引用されているこのみ言葉の「教会」と訳されているギリシャ語訳は「エクレシア」です。旧約聖書には「教会」の事は一切啓示されていいませんので「教会」と訳するのでなく、他の翻訳のように「会衆」とか「集会」と訳すのが正しいのです。キリストは、御自身を信じたユダヤ人キリスト者の会衆と共に、「憐れみ深い」と父なる神を賛美する事を、何よりも喜びとされているので。
3、ユダヤ人の民族的改心とメシヤ的王国が必ず成就する事を信じるキリスト
◆「2:13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。 2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。」 キリストは、アブラハム契約、土地の契約、ダビデ契約、新しい契約に基づいて、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、ゼカリヤなどの預言者が預言する、ユダヤ人の民族的改心とメシヤ的王国の実現し、そのメシヤ的王国で神が特別に賜った子たちであるユダヤ人キリスト者と共に、世界をイエス・キリストのような人物で満たすという神のビジョンを実現されていくのです。
◆「ゼカ12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
5、詩篇22篇はメシヤ預言である 以上に引用された詩篇22篇はメシヤ預言となっています。有名な「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う十字架のキリストの叫びが22:1で預言されています。又、十字架上のキリストへのユダヤ人指導者や群衆の罵りの言葉も預言されています。 ◆「詩22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。 22:8 「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」その他、十字架上の苦しみとろ―マの兵体たちが着物をくじ引きする事も預言されています。詩22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。 22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。 22:16 犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。 22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。 22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」

キリストはご自分を十字架につけ、苦しみを負わせたユダヤ人に、なお、神の憐れみ深いという御名を知らせ、彼らを罪の赦しときよめに導き、救われたユダヤ人の会衆と一緒になって父なる神の愛を、賛美しましょう」と預言されています。キリストは、どんなに恐ろしい罪を犯していても「我が兄弟」と呼ぶユダヤ人が救われて、一緒に父なる神の愛を賛美する事を、強くお求めになっている事が分かります。
6、異邦人キリスト者とキリストとの関係 キリストはユダヤ人を含め、すべての罪びとが、十字架で罪を取り除いて下さったご自身によって、父なる神の憐れみ深さという、神の御名を諭されて、父なる神に愛されている喜びが心に泉の如く湧き起こり、その喜びをもったユダヤ人と神を賛美とし、礼拝を共にささげる事を強く願っておられます。ユダヤ人キリスト者は、アブラハムの血によって血肉を持ちました。キリストも母マリヤによってアブラハムの血によってユダヤ人としての血肉を持ちましたので、キリストはそのユダヤ人を「我が兄弟」として特別に親密な思いをお持ちなのです。 では、異邦人キリスト者である私たちとキリストの関係はどのような関係でしょうか。キリストは聖霊によって母マリヤが身ごもった誕生されました。私たち異邦人も、聖霊によってキリストを信じて神の子とされました。私たちは霊的にはキリストとは「聖霊によって存在した」と言う事において「元は一つ」の関係の中に置かれているのです。ユダヤ人は血統的にはキリストと元は一つですが、異邦人キリスト者の私たちは霊的にはキリストと元は一つなのです。キリストはユダヤ人を血統的に「我が兄弟」と呼ばれていますが、異邦人キリスト者の私たちには「霊的な我が兄弟」と呼ばれやはり特別な親密な思いをもっておられます。そのような、私たちの祈りに対して、父なる神は立ち上がって喜んで耳を傾けて喜んで応答しようと立ち構えておられます。ステパノが石で打たれて殉教しようとする時、彼は、天におられるキリストを見ることが許されました。その、キリストは立ち上がっておられたのです。それは、やがて殉教するステパノの霊を歓迎されるお姿であったのです。 ◆「使 7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、 7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 キリストは元は一つである私たちが、父なる神は必ずお答えくださると信じて祈り祈りに対して、いつも身を乗りだしてお聞きになっているのです。神のビジョン達成の為に、祈るキリスト者の祈りを父なる神は大歓迎でお聞きになっているのです。キリストは、私たち異邦人キリスト者に対しても「神が私に賜った子たち」と呼んでいます。つまり、イエス・キリストを信じている異邦人の私たちも、ユダヤ人キリスト者と同様に、父なる神の子として、キリストが大事に大事に所有されているのです。その理由は、キリストの所有とされたユダヤ人と同様に、この世界に、神の似姿を回復したイエス・キリストのような人物をキリストが地上に満たすという、その神のビジョンの実現に用いて下さる為です。
