「弟子達の足を洗われたキリスト」
聖書:ヨハネによる福音書1章1節~20節
牧師:佐藤勝徳
キリスト(メシヤ)が、いつ受難の時を迎えるのか、その事を預言したのがBC6世紀に活躍した預言者ダニエルです。彼はメシヤの受難の時を終末の70週の預言の中で次のように教えています。「その六十二週の後、油そそがれた者(メシヤ)は断たれる」と。62週はダニエル書では7週の後にくる62週だと教えていますので、70週の中の69週目になります。69週の後のユダヤの過ぎ越し祭の時に、キリストが十字架で死ぬ時として神が定められていたことをヨハネは教えています。69週は「1日を1年とする」という聖書的預言解釈の原則で計算しますと、483年になります。70週のスタートは旧約聖書のダニエル書とエズラ記よりペルシャのアルタシャスタ王の命令が出たBC458年だと計算ができます。BC458より483年が経つとAD25年となります。キリストが十字架で死なれたのは33歳のAD27年ですので、ダニエルの「69週の後」メシヤが受難するという預言が成就しました。ハレルヤ!です。キリストはダニエルが預言する「受難」の時が近づいたことを知られ、弟子達を更に深く愛されました。その深い愛の表現として、夕食の席から立ちあがり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にされ、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い手ぬぐいで拭かれたのです。当時のユダヤでは「足を洗う」のは僕や奴隷の仕事でしたので、キリストが身を低くして、ご自分を奴隷の位置、僕の位置において「弟子達」の足を洗われ始めた事に弟子達は驚き、畏怖の念を持ちました。弟子のペテロの番に来た時、彼は次のように言いました。「主よ、あなたが、私の足を洗われるのですか」と。キリストは次のように返答されました。「わたしがしている事は、今はあなたに分からないが、後で分かるようになる」と。それに対してペテロは「決して足をお洗いにならないでください」と返答したのです。しかし、キリストは「もし、私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません」と言われました。それを聞いたペテロは「主よ、私の足だけでなく手も頭も洗って下さい」と慌てて返事し、キリストが足を洗って下さるのを受け入れました。キリストは、ご自身を裏切る弟子のユダを含め12人の弟子達の足を洗われた後に、非常に重要な事を教えられました。「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」と。
以上のキリストの弟子たちの洗足の出来事は、何を教えているのでしょうか。それは第1に、キリストの愛は謙遜の内に表現されたと言う事です。キリストはご自分を弟子たちに対して奴隷の位置において、裏切り者のユダを含め、弟子たちをご自分よりまさる尊い存在として尊ばれたのです。キリストは全知全能の創造主の神です。そのお方が、小さな小さな人間となって救いの御業をなされた事、また、罪びとの弟子達の足を洗われた事は、キリストが如何に謙遜なお方であるかを教えています。キリストは次のように言われました。「わたしは心優しく、へりくだっている」と。キリストが、イスラエルの民と全人類の罪の赦しの為に、ご自身の命を十字架で代価として流された事は、イスラエルの民と全人類の1人1人の価値はキリストの血、キリストの命、キリストご自身と等しい事を教えています。キリストは、どれほど愛と正義に満ち、罪とは無縁のお方であっても、罪を犯す私達罪びとを上から目線で見られる事は一切ないお方なのです。パウロがその事を教えています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。・・それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」と。キリストは地上のご生涯で、出会う人々に対して、ご自分を上にするという傲慢な心は一度もお持ちになりませんでした。徹底して身を低くし、僕の心、奴隷の心を持ってお仕えになったのです。驚くべきことです。キリストは弟子たちの足を洗われた事を良き模範として弟子たちに示され、彼らも、キリストの如く自分を低くして統べての人を自分にまさる尊い存在として喜び尊ぶことを教えられたのです。
第2番目に重要な事は、弟子たちにご自身がしたように「互いに足を洗い合う事」を命令された事です。その霊的意味は「聖霊によって日々罪を互いに赦し合い慰め合う事」を意味している事です。ヨハネによる福音書では「水」を聖霊の象徴として教えています。キリストを信じると、その人は罪が赦されると共に、神の命の水である聖霊がその人の心に与えられます。キリストを信じた人が、全ての隣人を自分より尊い存在として上に見て、キリストのように僕の心、奴隷の心をもって喜び受け入れる時に、命の水である聖霊により、他者の自分に対するどんな罪もキリストが赦されるように赦すことが可能となるのです。それが「互いに足を洗い合う事」なのです。あなたも、隣人の足を洗う人となる為に、是非、謙遜なキリストをご自分の救い主として信じ、神の聖霊を心に宿す人となられますようにお祈りします。
「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ書3章13節)