「神殿を三日で建てるキリスト」
ヨハネによる福音書2章13節~22節
牧師:佐藤勝徳
キリストは、ガリラヤのカナの婚礼で「水を葡萄酒に変える」という奇跡をなされた後、過ぎ越しの祭りの祝いにイスラエルの都エルサレムに上られました。その時に、キリストが父の家と呼ばれたエルサレム神殿が純粋な祈りの場でなく、お金もうけが中心の商売人の家にされている事に激しい怒りを覚えられたのです。キリストと聞くと柔和で「怒りを持たれないお方」かのように思われがちですが、実は、罪に対しては忍耐の末でありますが悔い改めない者には「激しい怒り」を持たれるお方であることを聖書は教えています。ユダヤの過ぎ越しの祭り(ペサハ)は、特にイスラエルの先祖が昔400年間奴隷として苦しめられていたエジプトから解放された事を記念してお祝いされる大変重要な春のお祭りでした。約3500年昔、世界を祝福する民となる事を願って苦しみのエジプトから解放して下さった創造主の神の愛に、イスラルの民は純粋な心で感謝と祈りを献げる事が求められていたのです。しかし、キリストがエルサレム神殿に行くと、犠牲用の動物や鳥を売っている人達や神殿用のお金に両替する商人の心にはその敬虔な心が一切見られず、ただお金儲けの為に犠牲の動物や鳥を売ったり、両替の商売をしていました。
神を冒涜するその不敬虔な心にキリストは激しく怒りを覚えられ、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、又、鳩を売る者を叱責されました。「それをここから持って行け!わたしの父の家を商売の家としてはならない!!」と。 キリストが問題にされたのは、「商売そのもの」でなく、昔、深い愛をもって苦しみの奴隷の地エジプトから解放された「父なる神」に、純粋な心で感謝と祈りを献げる敬虔な心が商人達に見当たらない事でした。そのキリストの激しい剣幕に、金銭欲の奴隷になっていたユダヤ人達は、そのキリストに腹を立てて「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるんだ」と詰め寄ったのです。ユダヤ人たちが問題にしたのはキリストがエルサレム神殿を「わたしの父の家」と呼んだ事です。つまりキリストが父なる神に対して「子なる神」だと言っている事を問題にしたのです。ユダヤ人たちはキリストが「子なる神」だという「しるし」を見せてみろ、と詰め寄ったのです。するとキリストは次のように返答をされました。「この神殿を壊してみなさい。私は、三日でそれを建てよう」と。それを聞いたユダヤ人達はあきれ顔で怒りを込めて「この神殿は建てるのに四十六年もかかったんだ。あなたはそれを、三日で建てるというのか!!」と言い返しました。キリスト時代のエルサレム神殿は「ヘロデ王」が46年かけて改築したもので「ヘロデ神殿」とも呼ばれていました。弟子のペテロ達も、キリストが「三日で建てる」と言った言葉を傍で聞いていましたが、なぜそのように言われたか理解ができませんでした。しかし、キリストが人類の全ての罪を背負って十字架で身代わりの刑罰を受けて死に、人類の全ての罪を取り除くという救いの御業をなされた後に、三日目に「ご復活」をされた時、初めてキリストが「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と断言された真意を悟ったのです。この神殿とは「ご自分の体の事」であり、三日で建てるとは「死んで三日目にご自身の死んだ体を復活させる事」だったと分かったのです。キリストの復活はご自身が「全能の子なる神」である事を証明しました。キリストはその宣言通りに、父なる神の力でなく、死んで霊だけで存在されていたご自分の全能の力でご自分の死体を三日目に復活させられたのです。私たち人類が犯す全ての罪は聖なる神の御前では全て「死罪」に値します。死罪に値する罪が神によって赦され、永遠の刑罰から解放される為には、子なる神が人となられた罪なきお方、キリストが身代わりの刑罰を、神の御心に従って受ける以外に道はありません。キリストのご復活は、キリストの十字架の死が「人類の罪の赦しの為の死であった事」を証明したのです。キリストは、あなたが全生涯で犯す全ての罪が赦される為に、十字架で父なる神より身代わりの刑罰を受けて死なれ葬られたのです。又、それを証明するためにキリストは三日目にご復活をされたのです。あなたがキリストの十字架の死とご復活を、自分の罪が赦され、永遠の苦しみの刑罰からの解放の為であったと正しく理解して信じる時、あなたは実際に罪が赦され、永遠の刑罰から解放され、永遠の命が与えられ、永遠の喜びと平安と至福の続く神の御国へ導かれるのです。