「姦淫の女性を赦されたキリスト」
聖書:ヨハネによる福音書8章1節~11節
牧師:佐 藤 勝 徳
キリストはエルサレム神殿の庭で、姦淫の罪を犯した女性に向かって「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と優しくも厳粛にお語りになりました。それは当時のイスラエルの社会の中では決してあり得ない事でした。結婚していて夫と暮らしながら他の男性と性関係を持つ女性の姦淫は決して許されない罪でした。神のモーセ律法では「姦通した男も女も必ず殺されなければならない」と、厳しく教えられていたからでした。ではなぜ、キリストは創造主のモーセ律法とは異なって、姦淫の女性を「わたしも罪に定めない」と優しくお語りになったのでしょうか。「わたしも」という事はキリスト以外に彼女の姦淫の罪を赦した人たちがいた事を教えています。それは当時のユダヤの宗教的、政治的指導者であった律法学者やパリサイ人達でした。律法学者とは今日的に言えば「聖書学者」です。パリサイ人とは非常のまじめな超正統派のユダヤ教徒たちです。律法学者もパリサイ人たちも一般の民衆から尊敬を受けていました。その彼らが、姦淫の女性を赦すという事は絶対に無い事でしたが、キリストの御前では不思議に赦したのです。なぜでしょうか。当時、彼らはキリストが安息日に病人を癒すという奇跡を行っていた事により殺意を持っていました。また、多くの群衆がキリストの下に集まっていたので、大変強い妬みを抱いていたのです。妬みという邪悪な感情は「殺意」を生み出します。その殺意をむき出しにすれば、民衆から尊敬を失いますので、非常に悪賢い方法でキリストを殺そうとしたのです。それは当時、ユダヤ社会を支配していたローマの手によって殺すという方法でした。そこで、彼らは「姦淫の現場」で捕らえられた女性をキリストの下に引き出して、「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」と。もしキリストが「赦せ」と言えばモーセ律法に反しますので、モーセ律法に反するような者が神を名乗り救い主を名乗るのは「神への冒涜罪」で、ローマに訴えて殺すことができます。逆に「姦淫は死罪に値する。石打ちにせよ」言えばローマの兵隊によって捕縛され、殺されます。それは、ユダヤの支配者であるローマは死刑の権限をイスラエルからはく奪し、ローマだけがその権限を持っていた事によります。彼らはキリストをその罠にかけようとして、キリストの下に姦淫の女性を引き出したのです。キリストは黙っておられ、地面に何かを書かれました。聖書はそれが何かは明らかにしていません。彼らはキリストが返答に困ったのだろうと思い、さらに強く、「どうなんですか」と詰め寄りました。その彼らにキリストは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と。つまり、「あなた方の内に姦淫の罪を犯していない者がおれば、石を投げて殺して良い」と言われたのです。姦淫の罪というのは、女性だけで犯す罪ではありません。その女性と姦淫の罪を犯している男性がいるはずです。キリストは、姦淫の女性を引き出した聖書学者やパリサイ人たちが姦淫の罪や石打の刑に相当する罪を犯している事をご存知であったのです。その、キリストの問い返しに対して、年長者から順番に一人去り二人去って行き、最後にはキリストとその女性以外誰もいなくなったのです。そこで、キリストはその女性に「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」と尋ねました「婦人よ」という呼びかけの言葉はギリシャ語で「グーナイ」で、深い尊敬用語です。そのグーナイをキリストは母マリヤへの呼びかけに何度か使用されているのです。女性は「誰もいません」と返答したのです。その彼女に向かってキリストは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」とお語りになったのです。キリストが全人類の罪の為に身代わりに刑罰を受け、全ての罪を取り除く為に十字架で死なれる前は「旧約時代」でした。旧約時代において、罪が赦される道は、罪を心から悔い改める者を神は赦して下さるという、神の赦しの愛を信じる信仰によりました。キリストは、彼女は自分の姦淫の罪を深く悔い改め、神の赦しの愛を信じる信仰があるとお認めになったのでしょう。それ故に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と優しくも厳粛にお語りになりました。そのキリストの赦しの言葉に、姦淫の女性は深く慰められ、罪赦された平安を持ったことでしょう。罪を犯している罪びとには本来、人を裁く資格はありません。人の罪を裁いたり、赦したりする権限は創造主の聖なる神のみにあります。その聖なる創造主の神が人となられたキリストなのです。キリストは神の絶対権威をもって姦淫の女性に「わたしも罪に定めない」と優しく宣言されました。現在、キリストからその宣言を受ける人はどのような人でしょうか。それは、「わたしが受けなければならない罪の刑罰を、キリストが2000年前に十字架で身代わりに受けて下さった」というその事実を信じて罪の赦しを受け取る人です。その人にキリストは姦淫の女性に宣言されたように「わたしはあなたを罪に定めない」と優しく力強く宣言し、永遠に赦して下さるのです。そのキリストの優しい力強い宣言をあなたがお受けになりますようにお祈りします。キリストから罪の赦しを受けた人は、その人も自分に対する罪を犯す人たちを赦す力が与えられるのです。
2021年の春、大阪の食い道楽の街、大阪道頓堀でかに料理専門店「かに源」を経営する武田源(げん)さん(大阪純福音教会員)は、店の大事な看板が壊されてしまいました。監視カメラには、深夜、泥酔した男二人が面白半分で看板を破壊する姿が映っていました。しかし、その映像がテレビで度々流れて注目されたこの一件は、武田さんが「罪人を赦(ゆる)すのが神の愛」とテレビインタビューで明言してさらに周囲を驚かせました。武田さんは当初怒り心頭でしたが、後に赦しが迫ってきたのです。それは聖書に描かれた姦淫の女性をキリストが赦した場面でした。その迫りにより、自分も多くの罪をキリストによって赦されてきたから、自分も看板を壊した人達を赦さなければと、赦す決断したというのです。(クリスチャン新聞2021年11月21日号より/オンライン版)