「生まれつき盲人を癒されたキリスト」
聖書:ヨハネ9章1節~14節
牧師:佐藤勝徳
ある時、エルサレムの都の道端で物乞いをしていた生まれつき盲人をキリストが癒されたのですが、その奇跡の出来事は弟子たちの「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」という質問をきっかけになされた出来事でした。なぜ、弟子たちはそのような質問をしたのでしょうか。それは、おそらく当時の聖書学者やパリサイ人と呼ばれる指導者達から、「人が生まれつき盲人なのは、本人か両親の罪による」と因果応報の宗教的観念で教えられていたからだと思います。聖書のヨブ記に書かれている事ですが、昔、信仰深いヨブが1日にして10人の子どもと全財産を失い、自らは厳しい病に悩まされるという災難に遭いました。その時、3人の友人は因果応報のという宗教的観念でその苦難の原因がヨブの罪にあると、ヨブに悔い改めを迫ったのです。しかしそれは、間違っていましたので、彼らは神の怒りを買いました。現代においても因果応報という宗教的観念で人の苦難や試練を批判的に見つめている人が多いと思います。その為、日本ではある病気を「天刑病だ」と言って差別したり、「業が深いからだ」と批判したりしてきたのではないでしょうか。 キリストが十字架にかけられ苦難の内に死んだのも、キリストが「神を冒涜する罪」を犯したからだと、当時の殆どのユダヤ人の考えでした。キリストは、弟子たちの質問に対して「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」と返答されましたが、そのキリストの返答は、人の苦難の原因がその人の罪や問題だと断じる「因果応報」の宗教的観念で批判したり、考えたりする人達への痛烈な一撃となっています。では、この世界で苦難はどうして起きているのでしょうか。その問いは、本来、謙遜と愛と正義に満ちた善意その者のお方である全知全能の創造主の神のみに向けるべき質問です。わたしは神学生の時に、厳しい苦難を体験した「ヨブ記」を必死に学びましたが、驚いた事に、ヨブの苦難の原因は罪の為でもなく、「愛の訓練」でもなかったのです。ヨブの苦難の原因の神の答えは「人間には分からない」という事でした。その事から、人間が遭遇する苦難を人間が勝手に考えて答えを出すのでなく、徹底して絶対者の神に聞く謙遜が必要だという事を知ったのです。苦難の原因は個々人によって異なり、又、個々の出来事によって異なります。それをご存知なのは天地万物を創造された全知全能の神のみなのです。しかし、いずれにしても、全ての苦難の背後に神の愛と善意が働いている事を聖書は教えています。
写真のピュリッツア賞受賞で有名になったベトナム戦争で大やけどをして九死に一生を得た、キム・フックさんが、朝日新聞(’22、9,8)で自分の心の苦しみからの解放について次のように語っておられます。「戦争を起こした人たちや、自分をプロバガンダに使うベトナム政府の役人などすべてに対して恨みや苦い気持ちに包まれ、心はどろどろのコーヒーでいっぱいのような状態でした。‥」。記者が、それが変わったのは何がきっかけでしたかと尋ねると、「‘82年に図書館で新約聖書に出会ったことです。最初は聖書の「汝の敵を愛せよ」の言葉をちっとも理解できなかった。やけどの痕に苦しみ政府に振り回されつらい思いをしている私には、「敵を愛す」なんてとても出来ないと思いました。でも、副牧師をしていた親類に疑問をぶつけ、クリスチャンとして教会に通い『なぜ私がこんな目に』と自問するのをやめるにつれ。心が救われてきました。」とフックさんは返答されました。彼女は、苦難の原因を知らないままですが、キリストを信じてから自分の苦難の背後に創造主の神の愛の御手がある事を知って、全ては善だと信じる信仰に導かれました。彼女は苦難の原因ではなく、彼女を幸福にする為だったという苦難の目的を知ったのです。その結果、彼女は苦難の原因については神に委ね、いつも最高裁善のみをなされている神を賛美する信仰の道を歩まれるようになったのです。その信仰からくる喜びの笑顔が写真で良く表現されています。
キリストは生まれつき盲人の苦難の原因の答えを求めた弟子たちの質問に対して、「両親の罪の為でなく、本人の罪の為でもなく、ただ神の御業が現れる為だ」と苦難の原因が罪でない事と同時に苦難の目的を教えられたのです。それが、神が人となれた全知全能の創造主であるキリストの返答でした。そこで、キリストはその神の御業が現れる為に、その盲人に唾で造った泥を塗り、エルサレムの南方にあった人工の「シロアムの池」に行って洗うように命じられました。盲人がシロアムの池で目を洗うと、なんとその目が見えるようになったのです。シロアムの意味は「遣わされた者」という意味ですが、その奇跡により、キリストは正に神から遣わされた「神の愛の御業」を行う「メシヤ(救い主)」だという事を教えられました。又、その事をキリストは十字架で全人類の罪を取り除くという救いの御業で証明されました。
目を癒された盲人は、後に、キリストを自分の救い主として信じ、いのちの水である聖霊の注ぎを受け、世界を祝福するユダヤ人となりました。
復活し天におられるキリストは、天の父なる神に遣わされた「救い主」として、今でも生きて働いて「神の愛の御業」をなさっているのです。あなたも、キリストによって神の愛の御業を行っていただき、世界を祝福する人となった盲人やキム・フックさんのように、キリストを「自分の救い主」だと信じる信仰をお持ちになりませんか。お祈りしています。