「救いの門であり良き羊飼いであるキリスト」
聖書:ヨハネによる福音書10章1節~14節
牧師:佐藤勝徳
キリストは、ご自身の事を「羊の門」だと言われました。それは、キリストが罪びとの私たちが罪が赦され永遠の命を得て救われて天の御国へ導かれる為の「救いの門」「天の御国の門」だという事を教えられています。又、キリストは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われました。キリストはなぜそのように、ご自分の事を言われたのでしょうか。聖書は国の指導者たちを「羊飼い」として例えています。昔、ユダヤでは律法学者達、パリサイ人達、祭司達、大祭司が、国の宗教的、政治的指導者達で、彼らによって「サンヒドリン」と呼ばれる71人で構成される「最高議会」がありました。彼らは、羊であるユダヤの民の羊飼いとして、物質的にも、経済的にも、精神的にも神の祝福に与れるように、ユダヤの民を愛もって世話をする必要がありました。ところが当時の彼らは、私利私欲に囚われて良き羊飼いとして愛をもってユダヤの民を導く事をしていなかったのです。その彼らを先ずバプテスマのヨハネが厳しく批判しました。「ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ(祭司階級の人々)が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。『まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。』・・」と。キリストも次のように厳しく批判されました。「マタ 23:25 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。」と。当時の指導者たちが私利私欲に囚われていた為に、羊であるユダヤの民をご覧になってキリストは深く同情されたのです。「群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」と。本来、国の指導者というのは、羊である国民がまず精神的に豊かになるように心が愛と正義に満ちる人となるように教え、指導し、訓練するための対策を計画する必要があります。次に羊である国民の肉体的健康の為に色々な計画や対策を立てる必要があります。また、同時に、経済的に満たされる為の計画や対策を立てる必要があります。そうした、福祉対策や計画を実行する事が、羊飼いとして羊である国民のお世話をしている事になります。当時、ユダヤの国の指導者たちは、私利私欲に囚われてそれができていなかったのでユダヤの多くの国民は、精神的にも、健康的にも、経済的にも苦しい、貧しい倒れた状態に置かれていました。キリストは、そのユダヤの民に向かって「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、宣言されたのです。その宣言によって、キリストはご自身の事を当時のユダヤの民を精神的にも、健康的にも、経済的に豊かにする為に、愛をもって、命を捨ててまでも、無私無欲でお世話をする真の指導者だと教えられました。キリストは、既にその事実を多くの奇跡と神の御言葉を語る事によって証明されてきました。水を葡萄酒に変えた奇跡、5つのパンと二匹の魚で5千人以上の人のお腹を満たされた奇跡、死にかけていた役人の息子を癒した奇跡、38年間も歩けなかった人や生まれつき盲人の癒し、結婚に5度失敗し男と同棲をしていたサマリヤの女性を救いに導き、姦淫の女性に罪の赦しの恵みを与えられました。それらの出来事はキリストが「良い羊飼いである」ことを証明しているのです。そのキリストが良い羊飼いとして「いのちを捨てる」と未来形で約束されましたが、それは、やがてすべてのユダヤの民の罪と全人類の罪の赦しの為に、十字架で身代わりの刑罰を父なる神からお受けになる事を意味していました。キリストはその事を次のようにも教えられています。「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」と。キリストは十字架でご自分のいのちをユダヤ人と全人類の罪の赦しの為に死なれる事を、父なる神より与えられた権威によるもので「誰かから命を取られる事ではない」と教えられました。キリストは過ぎ越し祭の時に十字架で命を捨てる事は、神の権威によるもので、誰も止める事が出来ない救いの御業だったのです。サタンは、キリストに殺意を持っていたパリサイ人たちを使って、キリストが決められた時以外に死ぬように命を何ども奪おうとし、キリストの死が救いの業でなくなるように仕掛けてきましたが、悉く失敗しました。キリストが定められた時に十字架で命を捨てる事を人間はもちろん悪魔さえ止める事が出来ませんでした。それは、ユダヤの過ぎ越し祭の時に十字架で死ぬことが神の権威によるものであったからです。 キリストは多くの奇跡と十字架の死と復活により、ご自身が「良き羊飼いである」ことを証明されました。更に、キリストがご自身を「良き羊飼いである」と宣言された事はもう一つの意味がありました。それはご自身を創造主が人となった「救い主」だという事を教える為でした。旧約聖書では良き羊飼いは「創造主の神」を意味していました。昔、ユダヤの王であったダビデが詩篇23篇で創造主の神を良き羊飼いとして賛美しています。「詩23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」と。
キリストは創造主の神が人となられた救い主であり、信じる者に対して「良き羊飼い」として、精神的に、健康的に、経済的に、全ての面で幸福になれるように最善の計画と最善の対策をもって、良きお世話をして下さるのです。あなたも、あなたの罪の赦しの為に十字架で死なれたキリストをご自分の「救い主」として信じれば、天におられる復活したキリストが責任をもって、生涯にわたってあなたが幸せになるために無私無欲をもって、優しく、時に厳しく愛のお世話をして下さりながら、お導き下さるのです。キリストほど素晴らしい愛と謙遜と正義と知恵と力に満ちた良き羊飼いはいません。キリストは文字通りイスラエルと全人類の為の比類なき「良き羊飼い」なのです。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(新約聖書/Ⅰペテロ2章25節)