「道であり、真理であり、命であるキリスト」
聖書:ヨハネによる福音書14章1節~7節
牧師:佐 藤 勝 徳
キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である」と弟子たちに言われました。なんとすごい事を言われたでしょうか。私は、10代の時に牧師が、「以上のようなことを言えるのは、大嘘つきか、気が狂っているか、本物か三つに一つです。あなたはどう思いますか」と問いました。その牧師の問いをこのメッセージをお読みの皆様にも問いたいと思います。
さてヨハネによる福音書ではキリストは天地万物を創造された神の独り子だと教えています。その証拠に、キリストは「カナの婚礼」において水を葡萄酒に変え、「死にかかっている役員の子ども」を遠くから言葉だけで癒され、夫を5人も代え6人目の男と同棲している「サマリヤの女性」を救い、ベテスダの池の傍で「38年間も病気で歩けなかった人」を癒し、「姦淫の女性」を赦され、「5つのパンと2匹の魚」で5000人以上のお腹を満たし、「嵐のガリラヤ湖」を歩き、命令一つで静め、「生まれつき盲人」の目を癒し、「死んで4日も経ち腐っていたラザロ」を生き返らせました。そうした奇跡以外にも多くの証言があります。キリストより早く生まれたバプテスマのヨハネが「わたしより前にいた」と、キリストは永遠の昔からいた「神」だと証言しました。又、全人類の罪を取り除く「神の小羊」だとも証言しました。キリストもご自身の事をイスラエルの先祖である「アブラハム(BC2000年頃)が生まれる前よりある者だ」と、ご自身の事を永遠の昔から存在している先在の神であると教えられました。又、父なる神と一つであり、全ての言動は父なる神の命令によっている事を繰りかえし断言されました。又、ご自身の事を「世の光」であり、永遠の命を与える「いのちのパン」であり、信じる者には腹の底から「命の水である聖霊」を川のように流れさせると約束し、又、「救いの門」であり、「良き羊飼い」だと教えられました。そのキリストが、弟子たちの足を洗われた後、最後の晩餐の席で、ご自身が十字架で死ぬ時が目の前に来ている事を弟子たちに教えられ、裏切り者のユダ以外の他の11人の弟子達もご自身を裏切る事を伝えられました。それを聞いた弟子たちの心は不安と恐れで心が騒ぎました。その弟子達に向かってキリストは「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と約束されました。裏切る弟子たちの罪が赦さる為にも、キリストはやがて人類の罪を取り除く為に十字架にかかり三日目にご復活をされます。それは天の父なる神の家に、キリストの花嫁の立場にある弟子達と共に住むための新居を備える為だと教えられたのです。キリスト在世時代のユダヤでは、花婿が父の家に花嫁との新居を造り、その完成を見届けた父親が息子に「花嫁を迎えに行きなさい」とGOサインを出します。そのGOサインによって花婿は花嫁を迎えに行き新居に共に住んだと言われています。キリストはそのユダヤの婚礼の習慣に従うかのように、花嫁なる弟子達を迎える為に天の父の家に新居を備え、父のGOサインが出れば迎えるというのです。もちろん、その約束はその後、キリストを信じる全ての人への約束となっています。天の父の家には、キリストを信じる全ての人が住む事ができる十分なスペースがあるのです。キリストが十字架で命を犠牲にしてまでも、導こうとされた「天の父の家」は地上にはないどれほど素晴らしい栄光に輝いた喜びが満ち溢れている場所でしょうか。
そのような約束をされた後に、キリストは「わたしは道であり、真理であり、命なのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはできません」と教えられました。キリストは、罪びとの私たちが天の父のみもとへ行くための唯一の道です。キリストは、罪びとのわたしたちが天において父なる神と真理の交わりができる唯一の真理のお方です。キリストは、罪びとの私たちが天において父なる神といのちの交流ができる唯一のいのちのお方なのです。
私たち日本人は「道」という言葉が好きだと思います。茶道、華道、剣道、弓道、柔道など「道」という言葉でそれぞれの道を極める為の努力を教えています。しかし、天におられるキリストの父なる神との愛の交流の道は、人間の努力や難行苦行、修練で見極めて身に着ける事が出来るものではないのです。それが可能なのはキリストお一人なのです。そのキリストを信じる時に、キリストが私たちの道となり、真理となり、命となって下さって、天において父なる神との愛の交流が可能となるのです。人間にとって最高最善の幸福は天の父なる神との愛の交流に生きる事です。その為に、キリストは十字架で全人類の罪を取り除き、復活して天に昇り、父なる神の家に新居を構えて下さったのです。あとは、父なる神のGOサインを待たれているのです。父なる神のGOサインがあれば喜び勇んでキリストを信じる全ての人を迎えに来てくださり、父の家に導かれるのです。それまでの間、私たちは、信じる者にキリストが遣わして下さっている聖霊によって、この地上でも道であり、真理であり、命であるキリストによって父なる神との生きた交わりを可能にして下さっているのです。キリストにより、聖霊による父なる神との命の交流は、私たちに喜びと平安が与えられ、同時に隣人を愛し、隣人を赦し、義に生きる力をもたらすのです。その事を体験したお一人が映画「瞬きの詩人」の主人公「水野源三さん」でした。水野源三さんは、長野県埴科郡坂城町で、1937年に生まれ、1984年、47才で天に召されました。9才のと き、赤痢の高熱で全身マヒの体となり、言葉を話すことも出来なくなり、絶望的な日々を送っていました。しかし、12才のとき、初めて聖書に触れ、キリストを信じて13才で洗礼を受けクリスチャンになり、神の愛を信じる深い喜びと希望の日々がやってきました。母の手助けで、五十音図を瞬きで指定する方法で、多くの詩歌を作りましたので瞬きの詩人とも言われています。その信仰からくる喜びにより「神のいのちあふれる」詩歌を沢山作るようになりました。水野源三さんの詩をじっくりと味わってみてください。あなたも、道であり、真理であり、命であるキリストを信じて天の父なる神との愛の交流の中に生かされませんか。お祈りしています。