「真の葡萄の木であるキリスト」
聖書:ヨハネ15章1節~6節
牧師:佐 藤 勝 徳
キリストはご自身を象徴的に「真の葡萄の木」だ言われ、ご自身をイスラエルと世界の「救い生」として遣わされた「天の父なる神」を象徴的に「農夫」だと教えられました。農夫は英訳では葡萄園の園丁を意味する”the vine dresser”と訳されています。古代のイスラエルの葡萄栽培は、主に葡萄酒を造る事を目的に栽培されていました。キリストがカナの結婚式で「水を良質の葡萄酒」に変えられて祝福されたように、良質の葡萄酒は「神の祝福の象徴」となっています。「天の父なる神」は平和な愛の葡萄園の農夫としてイスラエルと全人類を愛されています。愛に満ちた葡萄園の農夫である「父なる神」は私たちの健康と平和と幸福を願い、「真の葡萄の木」であるキリストを「救い主」として、イスラエルと全人類に遣わされました。では、何故キリストは「真の」という形容語を付け加えて「真の葡萄の木」と言われたのでしょうか。それは「イスラエル民族」と関係しています。「天の父なる神」は、イスラエル民族が「良質の葡萄の実」を結ぶ葡萄の木のように世界に神の祝福をもたらす民となる事を願って選ばれました。それ故に、聖書はイスラエルを葡萄の木に例えています。しかし、イスラエルは神に反逆し、神が愛をもって遣わされた全ての預言者を迫害し、多くの「預言者を殺した」のです。殉教者ステパノが使徒行伝7章でイスラエルの指導者に向かって次のように語っています。「大祭司は、『そのとおりか』と尋ねた。そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください・・・。かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。」ステパノが語るようにイスラエルの民が、神に逆らう民族となったことを預言者エレミヤが「質の悪い雑種の葡萄を結ぶ木」に例えて教えています。「わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか」。その「質の悪い雑種の葡萄」の事をイザヤは「酸い葡萄に」例えました。 「天の父なる神」の御心とご計画は、葡萄の木で例えられているイスラエル民族を通して、世界に経済的にも健康的に霊的にも全ての面で祝福を十分にもたらす事でした。確かに、これまでの人類史の中で、イスラエルを通して多くの祝福が世界にもたらされてきました。キリストはイスラエル民族を通して世界に遣わされました。聖書66巻の全てを神が霊感の書としてイスラエルの人を通して人類に与えられました。ノーベル受賞者がこれまでの800人(2021年迄)の20%(160人)がユダヤ人なのです。神はユダヤ人を通して様々な分野で祝福がもたらされてきました。しかし、そうした祝福だけではまだまだ不十分なのです。神は、キリストを信じてキリストの枝となるイスラエル民族全体を通して世界を十分に祝福する事を御心とされています。キリストは「真の葡萄の木」として、十字架でイスラエルと全人類の罪を背負って身代わりの刑罰を受け、三日目にご復活をされて天の父なる神の右の座に着かれました。しかし、現在において、そのキリストを信じてキリストの枝になっているイスラエルの人々は人口の2%にとどまっています。では、いつ、イスラエルの全ての人が「真の葡萄の木」であるキリストを信じて、民族として世界に十分に神の祝福を注ぐ民となるのでしょうか。それは、この世界の終わりにキリストが地上に再臨される時です。イスラエル民族が声をそろえて復活のキリストに向かって「主の名によって来られる方に祝福あれ」と叫ぶ時です。キリストは次のように約束されました。「あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」と。つまり、イスラエル民族が一つになってそのように叫ぶ時に、王の王としてキリストはご再臨されてイスラル民族に必ずお会いされるという事です。キリストは地上に再臨されてイスラエル民族を絶滅させようとする反キリストの「世界連合軍」を悉く滅ぼされます。そして、二度と戦争のない平和な世界をこの地上に実現されます。その時に、神のご計画通りに、真の葡萄の木であるキリストを信じてキリストの枝となったイスラエル民族は世界に神の祝福を十分に注ぐ民となるのです。その王国は「メシヤ的王国」呼ばれ、1000年続く事を黙示録は教えています。終末の様相をていしている現在の世界情勢はその日が近いことを教えています。その日が、この地上に実現するまでは、キリストを信じた全ての人がキリストの枝となり、葡萄の実に例えられている「御霊の実」を豊かに結びます! キリストが弟子たちに次のように約束されました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」。私たち異邦人も世界を祝福する者となる為に、先ず、キリストを自分の救い主として信じて「キリストの枝」となる必要があります。そうするとキリストがその人の心の中に住んで下さり、日々の生活の全ての事で天の父なる神に喜ばれるように、導きの御声をかけられます。その御声に聞き従う事がキリストの枝としてキリストにとどまっている事になります。キリストに日々とどまる人には命の御霊が樹液のように働き、御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実を豊かに結ばせ、自分の家庭や職場や地域社会の人々に、更に世界の人々に神の豊かな祝福をもたらすのです!!驚くべき恵みです。アメージンググレイスです。
記録映画で知った事ですが、聖マリヤ学院の校長をされていたマザーテレサは、神の導きの御声に従いカルカッタで貧しい人々の為に生涯を捧げられました。彼女は早朝に起きて神の御前に静まる時を持たれていました。又、何かあると、キリストに静かに祈りの中で悩みを打ち明け、キリストの導きの御声に聞き従う事を常とされていました。それ故に、真の葡萄の木であるキリストの枝として多くの良き祝福の実を結び、カルカッタの貧し人々と世界に神の多くの祝福をもたらしました。彼女のその偉大な祝福の生涯の故にインドは彼女を「国葬」によって最後を見送り、葬りました。今、誰にも「真の葡萄の木」であるキリストの枝となるチャンスが与えられています。また、誰にも「真の葡萄の木」であるキリストにとどまり、御霊の実を豊かに結び、良質の葡萄酒のように近隣の人々と世界に、神の祝福をもたらすチャンスが与えられているのです。あなたが、この地上の旅路を終えるまでがそのチャンスの期間です。マザーテレサは「私たちは、大きいことはできません。小さなことを大きな愛をもって行うだけです。」と言いました。大きな愛とはキリストが御霊によって結ばせてくださる、長所短所のあるがままの隣人を愛する「神の無条件の愛(無償の愛)」の事です。あなたも「今日」という日のうちにキリストを救い主として信じて偉大なる「真の葡萄の木である」キリストの枝となり、「大きな愛」で日々の生活の中で隣人の祝福の為に、マザーテレサのように小さな事を行う人になって下さい。お祈りしています。