「キリストから友と呼ばれる秘訣」
聖書:ヨハネ15:7~17
牧師:佐藤勝徳
結婚式で讃美歌312番「慈しみ深き友なるイエス」がよく歌われますが、その慈しみ深いキリストは、私たち罪びとをすでに「友」として愛して下さっていますが、その私たちが実質的にキリストの友と呼ばれる秘訣がヨハネ15章7節から7節で教えられています。それは二つあります。一つは、キリストのように愛に生きる事です。創造主の天の父なる神様と全ての隣人を愛する愛をもって生きる人を、キリストは親しく「友」と呼んで下さるのです。使徒パウロは「愛がなければ全てが空しい」と教えましたが、パウロは愛に生きた使徒でしたので、キリストから「わたしの友」と呼ばれたでしょう。殉教者ステパノは、ユダヤ人から石で打たれて死にましたが、その時彼は、キリストのように「「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と赦しを祈りつつ息を引き取りました。その殉教者ステパノの霊を復活のキリストは御座よりお立ちになって迎えられたことを聖書は教えています。キリストは、弟子たちに「人が友の為に命を捨てるという愛にまさる大きな愛は誰ももっていない」と教えられました。その大いなる犠牲の愛をもって愛の人生を生きる人を「わたしの友」と呼びますと弟子たちに教えられました。その犠牲の愛は隣人をあるがままで愛し、隣人の祝福と幸福を願う「無条件の愛」であり、愛の行為に対してその隣人から「報い」を求めない「無償の愛」を意味しています。もし、罪びとのあなたが慈しみ深いキリストから「あなたは私の友です」と呼ばれたいのなら、これまでの自己中心的な生き方、欲望が中心の生き方、「無条件の愛」と「無償の愛」を無視してきた神に敵対する罪深い生き方を心から悔い改める事が必要となります。あなたは誰から「あなたは私の友です」と呼ばれたいでしょうか。慈しみ深いキリストからでしょうか。もし、あなたが求めるなら、キリストはあなたをご自身のような愛に生きる人に聖霊によって可能として下さるのです。キリストの弟子たちは聖霊の注ぎを受けてから、キリストのように愛に生きる事を喜びとし、実際にそのように生きたのです。聖霊の「霊」と電気の「電」は、共に「雨」を冠としています。雨は神の恵みを象徴的に表しています。電気は、物理的な動力と熱と光をもたらし、電気機器を通して多くの恩恵を人類に与えています。そのように聖霊の霊は、神の人格的な力と熱と光である「喜びと平安と愛の力」を人の心にもたらし、キリストのように愛に生きる人にし、世界に神の祝福をもたらすのです。聖霊の力でキリストの如くに「愛の人」として生きる時に、キリストからその人は「あなたは私の友」ですと呼ばれるのです。
二つ目は、日々聖書を学び、聖書を通してキリストとの交わりの中に生きる事です。キリストは約3年の公生涯の中で、12人の弟子たちと寝食を共にしながら、親しい交わりを持ちつつ、伝えなければならない父なる神の御心を聖書によって全て教えられましたので、弟子達の事を「わたしの友」だと呼ばれました。キリストから「友」と呼ばれる秘訣は、聖書を通して知らなければならない父なる神の御心である真理や正しい価値観を全てキリストと共有する人となる事です。私たちが、慈しみ深いキリストから「あなたは私の友です」と呼ばれたいのならば、聖書66巻を通して父なる神が、キリストにより聖霊によって諭して下さる真理や正しい価値観を一つでも多く身に着ける努力をする事です。私たちの教会ではその為に「対話的聖書通読」による聖書の学びを推奨しています。聖書は、人間の知恵だけでは悟る事が出来ない神の霊感の書です。聖書を正しく悟るには、先ず、キリストを自分の救い主と信じて永遠に罪が赦され「永遠の義人」と認めてもらう事です。それが、キリストから「友」と呼ばれる為の第1歩でもあります。次に、聖書66巻を日々僅かずつでも良いので「キリストと対話しながら読む」という「対話的聖書通読」を身に着ける事です。読んでいる聖書の言葉に感動すれば、その感動を愛に満ちたキリストに伝え、気づいたことや疑問があればそれをキリストに申し上げる事です。そしてキリストの応答を待つことです。その「対話的聖書通読」の中で、キリストは真理の御霊によって聖書の正しい意味を理解させてくださるのです。応答はすぐの時もありますが、多くは後に色々な方法を通してなされます。信じて下さい。あなたが、キリストと対話しながら聖書を読み、聖書の教える真理と価値観を様々な躓きを乗り越えてしっかりと受け止める人となる時に、キリストはあなたを「私の友」と呼んでくださるのです。
キリストから「あなたは私の友です」と呼ばれる人には、大きな特権が与えられます。第1は「実を結ぶ人生」を生きるという事です。ここでの実を結ぶというのは、御霊の実という人格の実の事ではなく、キリストを信じて「永遠の滅びから永遠の命へ」救われる人の事を意味しています。つまり福音の宣教者として遣わされ、宣教の実が与えられ事を意味しています。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためである」とキリストは約束されました。第2に、その人の祈りの生活が祝福される事です。その人が、キリストの名によって祈りに全知全能の父なる神がお答えくださり、自分だけでなく多くの人々に神の祝福をもたらす特権に与るのです。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とキリストは約束されました。
2015年8月1日に昇天された愛知県新城教会の滝本明牧師が、以前当教会の旧会堂でクリスマス伝道集会のご奉仕をして下さったことがあります。その時に、平成の天皇陛下ご夫妻と親しくなり、よく食事会にご家族で招かれたと証をされていました。多くの日本人にとって「天皇陛下ご夫妻」と親しくなり、食事を共にするという親しいお交わりができる事はこの上ない特権だと思います。しかし、それ以上の特権は天地万物を創造された全知全能の神であり、王の王、主の主であられる偉大なるイエス、キリストから罪びとの私たちが「あなたは私の友です」と呼ばれて、親しいお交わりの中に生かされる事ではないでしょうか。その道が、あなたの為に開かれているのです。キリストはあなたを「わたしの友です」とお呼びになりたい為に、十字架であなたの人生において犯す全ての罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになり、三日目にご復活をされたのです。そして、あなたを「私の友です」とお呼びになりたい為に、あなたが愛の人なるように聖霊を注ごうとされているのです。また、あなたを「わたしの友です」と呼びになりたい為に、あなたが神の霊感の書である聖書66巻をご自身と対話しながら日々読む人となる事を願って聖書翻訳を進めてこられました。是非、マイ聖書で、日々キリストとの生きた親しい交わりの中に生きて下さい。お祈りしています。