「神様に対話的な平和の祈りを献げる道」
聖書:ヨハネによる福音書17章1節~11節
牧師:佐藤勝徳

キリストの弟子たちの為の長い祈りを捧げる時「目を天に向けて」祈られました。聖書は鳥たちが飛んでいる大空を第1の天、無数の星が存在する宇宙空間を第2の天、宇宙空間を超えた天を第3の天だと教えています。キリストは第1の天の大空を仰ぎ見ながら、第3の天におられる父なる神に祈りを献げられました。この祈りの姿勢は人間としての模範を示しています。ギリシャ語で人間は「アンスローポス」と言いますが、その意味は「上を見る者」です。人間は、創造主の神によって、愛に満ちあふれた創造主を仰ぎ見て生きるようにそれぞれの母の胎内で創造されたと聖書は教えています。

私は、少年時代はある新興宗教の教えを信じていました。その時、その仏教の教祖の祈りの姿に感動していました。ある事情でその新興宗教を止めた時、一切れのパンとスープという貧しい食事を前にして、創造主の天の父なる神に祈っているご老人の祈りの写真を見て感動しました。私の祈りは大変貧しい祈りですが、それでも、キリストを救い主として信じ、創造主に出会ってから約55年間毎日祈る事が許されました。今も、天の父なる神を喜び賛美しながら毎日祈りの時を持たせて頂いています。最初の祈りは、洗礼を受けて間もない頃、教会の早天祈祷会に参加した19歳時でした。母教会の先生が「佐藤君も祈って下さい」と言われました。それまで祈った事がない私でしたが「天の父なる神様、何も分からない者ですが宜しくお願いします」と祈った事を覚えています。今から思うとその短い小さい私の祈りを「天の父なる神」はどれほど感動をもってお聞きなった事かと思います。その祈りは、天におられる生ける父なる神との対話の祈りになっていました。それは、仏教でいう「念仏」や「お題目」を唱える事とは全く違っていたのです。その体験から聖書の教える「祈り」は、創造主の天の父なる神との「対話」だという事を知ったのです。その事を知った私は祈る事を喜びとするようになり、誰から教えられる事もなく、祈りの場所を求めて朝に昼に夜に祈りを献げるようになりました。会社のトイレ、車のガレージ、神社の裏、誰もいない教会の伝道所など、一人になれる場所を求めてよく祈るようになったのです。不思議としか言いようがありません。それは、私がキリストを信じた時に「永遠の命」を与えられていた事を意味していました。キリストは、祈りの最初に次のように父なる神に語っておられます。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」。以上の最初の祈りでキリストは重要な4つの真理を父なる神に向かって語っておられます。第1番目の真理は、「父よ、時が来ました」という真理です。「時が来ました」というのは、ヨハネ13章1節で教えられているように「この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時」の事を意味しています。つまり、ユダヤ人と全人類の罪の赦しの為に、十字架で身代わりの刑罰をお受けになる時の事を意味しています。第2番目の真理は、父なる神の栄光を現すために、子なる神としてのご自身の栄光を現して下さいと言う祈りです。それは、十字架で死ぬ事と死後三日目に御自身の全能の力によって甦る事を意味しています。第3番目の真理は、キリストが全ての人を支配する権威を父なる神より与えられた事です。キリストは、十字架に死に三日目に甦って天に帰られました。その時に父なる神より聖霊をお受けになり万物の王の王、主の主として即位されました。しかし、父なる神は十字架で死ぬ前にキリストに万物を支配する権威を与えておられたのです。第4番目の真理は、父なる神よりキリストを信じるように導かれた全ての人に永遠の命を与えるという事です。信じる者にキリストが与えて下さる永遠の命を、キリストは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と定義して教えられました。永遠の命は「神の聖なる命」の事ですので、それは人格的な「対話を喜ぶ命」です。それ故に、その人格的な神の永遠の命に与る事は、同時に、唯一の真の神である父なる神と、子なる神であるイエス・キリストとの平和な対話の中に導かれる事を意味しています。父なる神と子なる神イエス・キリストとの平和な対話の中に生かすのが「永遠の命」なのです。私たちが、父なる神とイエス・キリストとの対話の中に生かされている事は、父なる神と主イエスキリストを体験的に知っている事を意味しています。それを、キリストは「永遠の命」だと定義されたのです。永遠の命は父なる神とイエス・キリストとの対話なの中に導き、神を体験させる創造主の人格的な聖なる命なのです。

キリストは、十字架でユダヤ人と全人類の罪の赦しのため身代わりの刑罰をお受けになり、死んで三日目に甦られましたので、父なる神のお働きにより、キリストを信じる全ての人に永遠の命を与え、父なる神と子なる神の愛と喜びと平安と力を体験させ、対話としての祈りの生活へと導かれます。永遠の命により祈りの中で偉大なる神との生きた対話ができる人がキリストの弟子なのです。復活をされたキリストは、天にお帰りになる前に弟子たちに次のように命じられました。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と。キリストは、あなたが「永遠の命に与り、神との生きた対話ができるご自身の弟子となる事を願って、あなたの一生涯の全ての罪が赦される為に十字架で身代わりの刑罰をお受けになり、三日目に甦られ天に帰られ、今も、天において、あなたが弟子となる事を願ってとりなしの祈りを献げておられます。罪びとの私たちが、天地万物を愛もって創造された偉大なる神と平和な対話の祈りができる事に勝って幸いな「対話」はありません。あなたがキリストを信じて永遠の命に与り、天地万物を創造された偉大なる全知全能の神様と生きた対話としての平和な祈りをお献げになるキリストの弟子となられるようにお祈りしています。キリストの父なる神は、永遠の命により献げられるあなたの平和の祈りに答えて、あなたとあなたの家庭、あなたの職場、あなたの地域社会を祝福されるのです。イタリヤのアッシジのフランチェスコの祈りは、どれほど多くの人を平和に導いたことでしょうか。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、                   
 
誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、 悲しみあるところに喜びを。

(アッシジのフランチェスコの平和の祈り)