「キリストの権威と力のあることば」
聖書:ヨハネ18章1節~14節
牧師:佐藤勝徳
ヨハネ18章1節~14節は、ケデロンの谷の向こう側にあるゲッセマネの園におられたキリストが、裏切り者のユダの先導により、ローマの兵隊やユダヤの指導者に仕える役人達によって捕縛された事が記されています。ケデロンの谷の向こう側にはエルサレムの東にあるオリーブ山がります。オリーブ山は終末時代のキリストに関する預言が何度も語られている重要な場所です。そのオリーブ山にゲッセマネの園があり、キリストの大変大切な祈りの場となっていました。キリストが十字架に死に三日目に甦り、40日間弟子たちに顕れてから天に昇って行かれた場所がオリーブ山でした(使徒1:10~12)。又、キリストが地上に再臨されてお立ちになるのもオリーブ山だと預言されています(ゼカ14:4)。更に、オリーブ山のあった東側から、メシヤ的王国のエルサレム神殿に、再臨のキリストが神の栄光の光に包まれて入場される事も預言されています(エゼ43:1~7)。その神殿に1000年間キリストはお住いになり、イスラエルと世界を愛と正義によって統治をされ、世界を戦争が一切ない平和な世界とされます。又、自然界もエデンの園のように美しい自然界にされる事も預言されています。(イザ2:1~3、65:17~25)。ヨハネはゲッセマネの園で捕縛され、十字架に死に三日目に甦られたキリストが、メシヤ的王国の王としてオリーブ山にお立ちになる事を知っていましたので、その時の事を思い巡らし「ケデロンの谷の向こう側」を深い感動をもって書き記したのです。
さて、キリストが捕縛された時は夜でしたので、松明のなどの灯だけでは彼らはキリストの顔を判別できませんでした。そこで、キリストの方から進み出て「誰を探しているのか」と尋ねられました。彼らは「ナザレのイエスだ」と答えると、キリストは「それはわたしです」と言われました。すると、不思議な事に彼らは後ずさりをして地に倒れてしまったのです。キリストの「わたしです」という言葉は、ギリシャ語では「エゴーエイミ」と言う言葉が使用されています。エゴーも「私」エイミーも「私」という意味ですので、私が二度強調されている事になります。それは旧約聖書の出エジプト記3章14節で教えられている神の名「わたしはある」を意味して使用されたのです。(出エジプト記3:14)
キリストは約3300年前、イスラエルをエジプトから解放したモーセに顕れた創造主の神であり、ご自身の言葉には神の権威と力がある事を教える為に「わたしです」と言われ、頑丈なローマの兵達一隊と下役人たちを全てを地になぎ倒されました。聖書は、創造主であるキリストの言葉には愛と正義の権威と力があり、その言葉が万物を創造した事、万物を保持し、万物を統治されている事を教えています。(創世記1:3~、へブル1:3)。人となられたキリストはその権威と力のある言葉で、多くの病を癒され、多くの奇跡の御業をなされたのです。ローマの百人隊長が僕の病気の癒しを求め、キリストの言葉には病を癒す愛に満ちた神の権威と力があると信じて「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と懇願しました。キリストは、その彼に「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われました。その時に僕は癒されたとマタイは記録しています(マタイ8章)。私たちの罪の赦しの為に、十字架で身代わりの刑罰をお受けになり、三日目にご復活をされ、今も天において生きておられるキリストの言葉には、病を癒す愛に満ちた創造主の権威と力があるのです。また、ご自身を信じる人々の罪を赦し、永遠の救いに導く権威と力があるのです。同時に、キリストの言葉は創造主の神さまに逆らい続ける人々を裁き滅ぼす権威と力があるのです。その真理を、ご自分を捕まえる為に来た頑丈なローマの兵隊達などを「わたしです」という言葉でなぎ倒された事で示されました。もし、キリストを信じて罪が赦されなければその人は、死んだ時、キリストの権威と力ある言葉で、その人の霊は裁かれハデスという地球の真ん中にある苦しみの世界に落とされます。それだけではありません。次に、天の白い御座に着座されているキリストの御前にその人の霊は「ハデス」から呼び戻され、復活した元の肉体と一つになって、ゲヘナと呼ばれる「火の池」に投じられ、永遠に苦しみ続けるのです。黙示録20章で教えられています。
キリストの権威と力のある言葉は、頑丈なローマの兵隊たちを後退させ、なぎ倒しました。その言葉でキリスト「万物」を創造されました。その言葉で万物を保持し、統治されています。その言葉で、キリストは全ての病を癒し、多くの奇跡の御業をなされました。その神の偉大な権威と力のある言葉をお持ちのキリストが、信じる人の心の中に永遠に住んで下さり、信じる人の信仰の祈りに答え、今でも、その権威と力のある言葉によって助け祝福しようと、いつも心を燃やされているのです。父なる神とキリストの愛と全能の力と権威に満ちた言葉を信じて、大胆に祈りをささげましょう。 子どもを産むことができない体であったハンナが、子ども求めて必死に祈った祈りに神は答えて男の子を授けられた事が旧約聖書に記録されています。(Ⅰサム1:6~20)。その男の子はイスラエルの預言者となったサムエルでした。キリストは「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と約束されました。(マタイ7:7・8)
皆さん、権威と力に満ちた言葉をお持ちのキリストの祈りに対する応答の約束を信じて大胆に必要について祈り求めましょう。
ゲッセマネの園でキリストが捕縛された時の出来事は、ヨハネ10章18節で教えられた通り、キリストは十字架にかけられたのではなく、ご自分から積極的に十字架におかかりになった事を教えています。キリストは、ご自分から積極的に十字架におかかりになり、あなたの祈りにお答えくださる為に、あなたの罪、私の罪、全人類の罪を既に取り除かれたのです。信じましょう!
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネによる福音書10章18節)
「キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(ペロの第1の手紙2章24節)