「ローマ兵に槍で突き刺されたキリスト」
聖書:ヨハネによる福音書19章17節~37節
牧師:佐 藤 勝 徳

 ヨハネ19章17節~38節に十字架で処刑されたキリストの受難が記録されていますが、3回も「聖書が成就するためであった」とヨハネは書いています。それ以外に37節ではキリストがローマの兵隊に槍で突き刺された事を「聖書の別のところ」に預言されている事であったと教えています。キリストの十字架の受難の時に起きた4回の出来事が旧約聖書によってあらかじめ預言されていた出来事だという事は、キリストは間違いなく旧約聖書が預言している「メシヤ(救い主)」だという事を私たちに教えていいます。

≪4回の出来事≫

①キリストの着物

ローマ兵は、キリストの着ておられた上着を四等分にして分け合いました。下着は縫い目無しで織られた貴重なものでしたので分け合う事をせずに、くじ引きで一人のローマ兵のものとなりました。その出来事をヨハネは「聖書が成就するためであった」と教えています。その預言は旧約聖書の詩篇22篇18節で、「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」と預言されていました。詩篇ではキリストの着物を分けあい、くじ引きにし、十字架に釘付けしたローマの兵隊の事を「犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。」と教えています。聖書では「犬」は異邦人を指しています。聖書の預言通りに、目の前のキリストの苦しみに何の憐れみの情を示さない、冷酷で貪欲な悪者である異邦人のローマ兵たちによってキリストの上着は4つに分けられ、下着はくじ引きにされたのです。

②キリストの苦しい渇き

キリストは息を引き取られる直前に「わたしは渇く」と言われましたが、その後に、ローマの兵たちがキリストに「酸い葡萄酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、イエスの口元に差し出しました。キリストはそれを飲まれたのです。その「渇く」と言われた受難のキリストにローマの兵隊が「酸い葡萄酒」を飲ませる事が、詩篇69篇21節で「彼らは、私が渇いたときには酢を飲ませました」と預言されていましたので、ヨハネはその出来事を聖書の預言の成就だと教えました。

③キリストの骨は折られなかった

  キリストが十字架におかかりになった日は金曜日でした。金曜日の夕方からユダヤ人にとって大切な「安息日」が始まります。安息日はモーセの十戒の中で第4番目の戒めとして、神さまから奴隷も家畜も含めてすべて労働をストップして十分に休むことが命じられていました。その聖なる安息日に、エルサレムのどくろの地と呼ばれるゴルゴダに罪人が十字架上で苦しんでいる状態のままである事は、安息日が汚されるとユダヤ人は思い、ピラトに十字架上の罪人のすねを折って死を早めて、十字架から降ろすように懇願しました。ピラトはその願いを受け入れて兵隊たちにすねを折らせました。ローマ兵は二人の罪人のすねを折った後に、キリストのすねを折ろうとしたのですが、キリストはすでに死んでおられたので、キリストのすねを折る事をしませんでした。ヨハネはその事は、詩篇34篇20節の「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。彼の骨は一つも砕かれない」という預言の成就だったと教えています。

④ローマの兵隊が槍でキリストを突き刺した

普通、十字架にかけられた罪人は、何時間も何日も苦しみながら死んでいきますが、キリストはたった6時間で死なれました。キリストは朝の9時に十字架にかかり、昼の3時に死なれました。キリストがあまりにも早く死んだので、ローマの兵隊はキリストのすねを折りませんでしたが、キリストの死を確実にするために、キリストのわき腹を槍で突き刺しました。ローマの兵隊がキリストを槍で突き刺すという出来事も、旧約聖書のゼカリヤ書12章10節で預言されている事をヨハネは取り上げました。ゼカリヤ12章10節には、、終末のイスラエルの人々が、ローマの兵隊がキリストを十字架で突き刺した罪は、先祖と自分たちの罪として深く嘆き悔い改める事が次のように預言されています。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」と。

以上のキリストの十字架の4回の出来事はヨハネが教えるように全て千年ほど前に旧約聖書に預言されていたのです。それは、キリストは間違いなく、あなたや私の罪の赦しの為に身代わりの刑罰を父なる神より受けて死なれた救い主だという事を教えています。

≪キリストはご自分から十字架を負われた≫

ヨハネ19章17節に「自分から十字架を負って」と、ありますように、キリストは旧約聖書の預言の成就の為にご自分から十字架を負われたのです。キリストは最後に「わたしは渇く」と言われた後に「完了した」と言われました。それは、永遠の肉体の渇きという苦しみと、神の愛の交わり失うという永遠の心の渇きという苦しみから、罪びとの私たちを解放する為の救いの御業が完了したことを意味しています。キリストは罪びとの私たちに代わって十字架で肉体と心の二つの永遠の渇きである地獄の苦しみの刑罰を父なる神より受け、全人類の罪人の救いの御業を完了されました。その後に、ご自分の力で頭をたれてご自分の肉体の命を取り去りました。又、ご自分のお力でご自分の霊を父なる神に渡されました。キリストの死は、十字架で苦しんだからその苦しみのゆえに死んだのでなく、救いの御業が死ぬ前に完了したので、ご自分で死なれたのです。それをヨハネは「イエスは、・・頭をたれて、霊をお渡しになった」と教えています。ヨハネはキリストから「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(ヨハネ10章18節)と教えられていました。キリストはその通りにご自分に与えられた権威として、ご自分の全能の力で命を捨てられたのです。それは、キリストが天地万物を創造された全知全能の神である事を教えています。キリストの死は人類が罪に堕落した結果としての堕落の死(苦しんだ結果の死)ではなかったのです。

あなたを永遠の肉体の渇きと、永遠の心の渇きという永遠の火の池の苦しみから永遠にあなたを解放して下さる為に、キリストはご自分から十字架で渇くという地獄の苦しみを身代わりに受け、命を捨てられました。あなたの罪が神さまによって永遠に赦され、永遠の義人として永遠の平和と喜びの中を歩まれる道はただ一つです。あなたの罪を背負って罪とされたキリストをあなたが信じる事です。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリ 5章21節)

※「この方にあって」は、キリストを信じる事を意味しています。