「天の神さまが人となられた」
聖書:ヨハネによる福音書 1章14節
牧師:佐藤勝徳

「ヨハ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」

2000年昔に、キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになった歴史的出来事を、ヨハネは神学的に短く表現しました。それが「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」という表現です。

通常「ことば」というのは、人の思いの中にある目に見えない考えや意見を誰かに伝える手段の事を言います。では、キリストが「ことば」と言われるのどういう意味でしょうか。それは目に見えない創造主の父なる神さまを、目に見えるように私たちに知らせ伝えて下さったお方だという意味です。ヨハネはそれを次のように教えています。「ヨハ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と。では、「ことば」であるキリストはどのようにして誰もが見た事がない父なる神を説きあかしてこられたのでしょうか。第1に、独り子として、永遠の昔においては父なる神さまの懐に憩われながら、天地万物を創造されたことで、創造主の父なる神さまの目に見えない愛と知恵と力を人類に示されました。ヨハネ伝1:1~3の「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と言うみ言葉は、神さまの独り子であるキリストが天地万物の創造を通して父なる神さまの愛と知恵と力を示された「ことば」だと明確に教えています。そのお方を旧約聖書は「天の神」だと表現しています。キリストは父なる神と共に宇宙空間を超えた天におられて、その天から父なる神の御心とご計画とご設計に従って天地万物を創造された天の神さまなのです。第2に、天の神さまである「ことば」の独り子の神さまキリストは、イスラエルの歴史に直接的にしばしば現れて、イスラエルと人類に対する父なる神さまの御心を示されました。ヨハネが次のように教えています。「ヨハ1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。ご自分の国とかご自分の民と言うのは、キリストを否定して十字架につけたイスラエル民族の事を意味しています。イスラエルは全世界に神の祝福を注ぐ民として特別に神に選ばれ、ことばである御子なるキリストが直接臨み、アブラハムやイサクやヤコブやモーセやダビデや預言者たちに父なる神さまの愛と正義と知恵と力と御心を示されてきました。へブル書ではその事を次のように教えています。「ヘブル1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」と。第3に、ことばである御子なるキリストは、2000年昔に、聖霊によって乙女マリヤの胎内に宿り、ユダヤのベツレヘムにお生まれになって人となって地上で住まわれ、父なる神の命令と指示により、多くの病人を奇跡で癒し、様々な奇跡の御業をなされて、父なる神の愛と憐れみと恵みと力をイスラエルの人々と人類に示されました。それが、独り子の神さまとして栄光でした。その栄光は「恵みとまこと」に満ちていたのです。目に見えない、まだ誰も見た事がない父なる神さまの愛と正義をイスラエルと人類に示された「ことば」であるキリストは「恵みとまことに満ちておられた」とヨハネは証言しています。キリストの弟子であったヨハネは、そのイエス・キリストの十字架の死と復活までのご生涯の目撃者として「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と証言しています。では、何故、独り子である御子なる神は、人となってイスラエルと全人類に父なる神を啓示する必要があったのでしょうか。それは、十字架で全人類の罪を背負って身代わりに刑罰を受け、罪の赦しの恵みをイスラエルと全人類にもたらすためには、罪なき人でなければならなかったからです。世界には罪のない人は存在しません。どんなに立派な人でも、思いにおいて言葉において行いにおいて永遠の刑罰を受けなければならない罪を多く犯しているのです。世界には罪なき人がいないので、御子なるキリストが人となって思いにおいて、ことばにおいて、行いにおいて罪のない生涯を歩まれたのです。その事をヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と表現して教えています。

恵みと言うのは、聖なる神さまから受けるに値しない罪びとの私たちが、幸福に生きる為に受ける神さまからの善きもの、善き出来事を意味しています。その神さまの「恵み」という言葉が聖書には満ち溢れています。401回も使用されています。神さまはご自身の事を恵み豊かな神だと教えておられます。「民 14:18 『【主】は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す』・・」。恵みは神の性質、神の名を表す代表的な言葉なのです。キリストのご生涯は父なる神さまの恵み深さを啓示するための生涯でしたので、ヨハネは「恵みに満ちていた」と教えています。キリストの恵みの奇跡の御業な中で最大の奇跡の御業は「十字架であなたやわたしの罪を背負って身代わりの刑罰を受けて死に、葬られ、三日目に甦られた」事です。私たちの心には良心があります。私たちは良心を通して罪は裁かれるべきものだという正義の声をいつも聞かされています。では、だれが人の罪を裁く権威と資格があるのでしょうか。妬みや憎しみや怒りや無情や悪意や侮辱など、心の邪悪な罪は誰が裁くのでしょうか。また、嘘をついたり、言葉で人を傷つけたり、陰口、悪口、不平不満文句など、口の罪は誰が裁くのでしょうか。その他、人の目に分からずに盗んだり、人を傷つけたり、殺したり、意地悪をしたりする罪は誰が裁くのでしょうか。それは全てをご存知の全知全能の創造主の神さま以外にありません。聖書は次のように教えています。「ヘブル 4:13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されてす。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

あなたは一生涯において犯す全ての罪が赦されなければ全知全能の聖なる創造主の神さまによって裁かれ、火の池に投じられて永遠に苦しみ続けなければなりません。しかし、全知全能の聖なる創造主の神さまは、罪を忌み嫌い裁かれる正義のお方ですが、同時に、罪びとのあなたやわたしや誰もが滅びる事を願われない愛に満ちた慈悲深いお方です。そこで、私たち罪びとの全ての罪が赦されて、永遠の火の池で永遠に苦しまないように、永遠の平安と喜びの中に生きるように願って、ご自分の独り子であるキリストを遣わされました。父なる神は、そのキリストに私たちの全ての罪を十字架で負わせて、私たち罪びとに代わって裁かれたのです。神さまが人として遣わされた御子なるキリストが自分に代わって十字架で刑罰をお受け下さったという真理を認めて信じる人は、永遠の火の池に投じられ永遠に苦しみ続けるという滅びから救われ、また、永遠の命に与るのです。それが、「ことば」である御子なる天の神さまであるキリストが人となられた重要な目的であったのです。永遠の命というのは初めも終わりもない神さまの命の事です。神さまの命は愛に満ちた命、罪を忌み嫌う正義の命、聖なる命です。十字架のキリストを私の救い主だと信じる人にはその神の命である「永遠の命」が与えられ、この地上においても、やがて導かれる神の御国においても、その命によって神さまと人を愛し永遠に幸福に生きる事が出来るようにされるのです。「ヨハ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

最後に奈良にあるNPO法人「みぎわ」の代表者「松原宏樹さんの証をご紹介したいと思います。松原宏樹さんは元牧師でしたが、今は見捨てられた障害児の子どもたちの為に、温かい家庭で育てくれる養子縁組をして下さる方を斡旋するという事業に取り組んでおられます。その松原さんの証を短くご紹介します。「恵満ちゃんは病院に置き去りにされていた。病室の奥で、新生児用の産着がパツンパツンになるほど長期間置かれていた。両親は迎えに来る意思はないと聞かされた。医師もどう成長するか分からないほど重度の障害を負って黙って寝ている赤ちゃんに松原さんは「お家に帰ろう」と呼びかけた。「何もしてあげられないかもしれない、失敗するかもしれないけれど、お父さんになってあげられる。失敗して非難されても、何もせず非難されないよりずっと価値がある。お父さんになってあげようと。そう思いました」。私は、この松原さんの証を読んだ時に、なんと優しいお方だろうと涙ぐみました、同時に父なる神と御子なるキリストの優しさに触れ、涙ぐんだのです。父なる神の優しさ、天の神さまが人となったキリストの優しさはどんな人間の優しさとも比較できないほど、深く、広いものです。父なる神とキリストの愛の深さと優しさにあなたの目が開かれて、神さまに愛されている喜びが満ちあふれますようにお祈りします。