「平安を与えて下さる復活のキリスト」(唯一の救いの道)
聖書:ヨハネ20:19~31
牧師:佐藤勝徳

明けましておめでとうございます。キリストはご自身の事を唯一の救いの道だと教えられましたが、キリストが唯一の救いの道である理由は第1に、キリストは神の御子で万物を創造主された神さまですが、聖霊によって乙女マリヤに宿り、人として原罪と言う罪の性質がないお方として誕生されたからです。人の罪が赦される為に、人の身代わりとして刑罰を受ける事が出来るのは、原罪と呼ばれる罪の性質がない人でなければなりません。私たち罪びとは原罪のゆえに自然と妬んだり恨んだり憎んだり、貪欲な邪悪な感情をもってしまいます。キリストは一切そのような邪悪な感情を持たれた事はなかったのです。十字架上でもそうでした。自分を十字架につけた人の為に「父よ。彼らをお赦しください」と祈られたのです。 第2に、キリストは罪を一切犯さない人生を歩まれたからです。キリストが罪を犯されなかったのは原罪が無かったからだけというのではありません。キリストは悪魔の強烈な誘惑を受けられ、神の命令に逆らうという不従順の罪を犯す危険はあったのです。キリストも悪魔の誘惑により罪を犯す可能性は十分にあったのですが、一切罪を犯されなかったのです。弟子たちが、キリストの生涯には罪がなかったと繰り返し証言しています。「Ⅰペテ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」。創造主の神さまに不従順の罪をおかさなかったのはキリストただお一人です。 第3に、キリストは全人類の代表者としてお生まれになったからです。罪を犯している全人類に代わって十字架で刑罰受け、全人類の罪を取り除くことが出来るのは、全人類の代表者であるキリストただお一人です。最初のアダムは全人類の代表者として創造されたのですが、そのアダムはキリストのひな型であったとパウロはローマ書5章で教えています。アダムの原型であるキリストの事を、パウロは全人類の人類代表者最後のアダムだと教えています。「Ⅰコリ15:45 聖書に『最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました・・」。 第4に、十字架に死んで葬られ、三日目に甦り、ご自身が一切罪を犯さなかった事を証明されたからです。復活したキリストは弟子たちに顕れて、十字架で傷ついた手とわき腹をお見せになってご自身の肉体の復活を証明されました。キリストの復活はキリストには罪がなかったことを証明したのです。「使2:26b さらに私の肉体も望みの中に安らう。 2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」。 第5に、キリストは復活後40日してから天に昇られ、天において父なる神から聖霊を受け、全人類の王の王として天において就任されたお方だからです。旧約時代イスラエルの国では王として就任する時に、彼の頭に油が注がれました。油は、神の霊である「聖霊」を象徴しています。キリストは油が象徴する聖霊の注ぎを受けられたのです。それにより、キリストは全人類の唯一の王の王、主の主となられました。「使2:23神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです・・『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』・・」。以上の五つの理由の故に、キリストは全人類の唯一の救い主だと聖書は断言しています。「使4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。では、聖書が教える最も重要な救いとは何でしょうか。それは一人一人が背負っている「罪の重荷」からの解放です。人は、誰もが多くの罪を犯しています。その全ての罪が赦されなければ罪を徹底して忌み嫌われる聖なるキリストの父なる神によって怒りを受けて、火の池に投じられて永遠に苦しまなければならないのです。人は誰もが罪の重荷を背負っているのです。人は罪を指摘する良心の働きの故にその重荷がある事を知っているのです。人は良心の鋭い指摘により心の奥深いところに、罪の意識と共に罪の記憶が残されます。時が過ぎ、意識することなく時間が過ぎて行っても、何かのきっかけで、罪の記憶が意識の表面に顕れて良心の呵責に苦しむことがあります。良心により心に刻まれた罪の記憶や罪の意識というのは、私たちを孤独や、空しさや、恐れや不安などに追いやります。生きる気力をも奪います。自信を奪います。心を闇にします。正直さを奪います。人は名誉欲とか承認の欲求のゆえに罪を隠そうとするのです。人は表面的には楽しそうにしていますが、罪の記憶と罪の意識が心の奥深いところにある為に、心底人生を楽しめないのです。人の心は、良心の存在のゆえに、全ての罪が赦されて取り除かれなければ、本当の平安、本当の幸福、本当の喜びを体験する事はないのです。罪の記憶と罪意識は、私たちの人生に深刻な分断をもたらしているのです。その最も悲しい深刻な分断は、罪を忌み嫌われる聖なるかみさまとの分断です。アダムとエバが罪を犯したときに、彼らがとった行動は、神さまからの逃避だったのです。そこで、逃避する彼らに神さまの方から近づかれて、愛の交わりの回復を図られました。「創3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」と。「あなたはどこにいるのか」という、と問いかけは実は現在も全ての人々に響いている創造主の愛に満ちあふれた御声なのです。「あなたはどこにいますか」という神さまの問いかけは、「さあ私との永遠の愛の交わりの中に戻りませんか」という、愛の優しき呼びかけなのです。キリストの十字架の死と復活の出来事はその呼びかけなのです。罪に堕落した人間は、罪を忌み嫌われる聖なる神さまに自分から近づく事はありません。キリストを裏切って良心の呵責に苦しんで一つの部屋に戸を閉じて閉じこもっていた10人の弟子たちのところに、復活のキリストの方から来てくださって、愛に満ちあふれた笑顔とらんらんと輝く瞳と、優しき声で「平安あれ」と呼びかけられました。その愛の呼びかけで、彼らの心を支配していた良心の呵責による心の痛みと、ユダヤ人の指導者たちの迫害を恐れる恐れと不安で満ちていた心は、瞬間的にキリストの平安に満ちあふれたのです。それ故に、熱い熱い愛情に満ち溢れた復活のキリストを見て、大喜びする事が出来たのです。唯一の救い主である復活のキリストは、今も、罪の重荷やその他さまざまな恐れと心配と不安で苦しむ人々に「聖霊」によって臨んで下さり、「平安あれ」と呼びかけ、良心の呵責、罪の重荷から解放するお働きをされているのです。
広島の呉で小児科の医師をされている「藤井圭子さん」は、尼さんにまでになった熱心な仏教徒でした。しかし、結婚したご主人との関係がうまくいかず悩む日々を歩んでおられました。その時に、自宅のすぐ隣に教会が建ち、お義理で誘われ献堂式出席をしました。お義理で出席をした集会で初めてキリストの十字架の死と復活の出来事を聞かれました。しかし、クリスチャンになるつもりはさらさらありませんので、キリストを信じる人は手を挙げてくださいと招きを受けましたが、すぐに帰ろうとしました。その時に、心に迫るものがありました。「今キリストを信じて手をあげなければ、あなたは永遠に救われませんよ」という迫りでした。
その迫りを受けて思わず手を挙げたのです。すると、これまで体験した事がない平安が心を支配し、良心の呵責や様々な不安や恐れがなくなり、自分が救われた事を実感されたのです。弟子たちに「平安あれ」と臨まれた復活のキリストが、藤井圭子さんに「聖霊」によって「平安あれ」と臨まれ、キリストの平安で満たされたのです。新しい年、唯一の救い主である復活のキリストがあなたにも臨んで下さり、罪の重荷から解放して平安で満たして下さるようにお祈りします。