「アブラハムの如く祝福されよう」
聖書:創世記24章1節
牧師:佐藤勝徳

「創 24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」

聖書は、神さまが140歳という年を重ね、老人になっていたアブラハムを「あらゆる面で祝福しておられた」という事を教えています。神さまは、アブラハムの心や霊の霊的祝福だけでなく、健康的にも経済的物質的に肉体的にも大変祝福されていました。①アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでおり(創13:2)、妻サラを葬る畑地を相場の何十倍である銀400シェケルで購入し(創世記23:6)、息子イサクの嫁探しのために遣わした僕にあらゆる貴重な品々を持たせた事などが、アブラハムが経済的物質的に祝福されていたことを教えています。「創24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った」。②アブラハムは100歳でイサクを生んだのですが、それは神の奇跡によりました。イサクを生む前の彼の体は死んだと同様であり、大変老衰し弱り果てていたのです。「ヘブル11:2 ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです」。アブラハムは子種を宿す力を失っていましたが、神さまが彼に子種を宿す体力を復活させ、イサクを生むようにされました。その体力はその後も維持され、妻サラの亡き後、ケトラと結婚し6人男の子を生み、さらにそばめ達からも子どもを複数生んだ事は、彼が肉体的に祝福されていたことを教えています。(創世記25:1~6)。③アブラハムは息子イサクの為に嫁を探しに親族の地へ僕を遣わすときに、彼は約束の土地を子孫に与えるという神の約束を口にしています。「創24:7私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい」。アブラハムは神さまが与えて下さった約束信じる信仰がゆるぎないものとなっていたのです。アブラハムはその信仰からくる喜びと平安と希望に満ちあふれていたのです。アブラハムは、神が子孫の増大、約束の土地の付与、祝福の民となるという、神が恵みによって自分と結んで下さった「アブラハム契約」という無条件契約を堅く信じ切っており、その信仰はゆるぎないものにしていました。せっかく与えられた息子イサクを、神さまからモリヤの山でささげなさいという命令を受けた時に、一時的には悩みましたが、最後は従いました。彼は、たとえイサクを殺して神様に献げても、神は約束を守るお方だと堅く信じていたので、その信仰により彼に「復活信仰」が宿りました。へブル書が次のように教えています。「ヘブル1:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです」。 アブラハムは神から約束をうけた人物が約束の成就を受けずに死んだときは、その人を必ず甦らせて約束を成就して下さる信じたのです。アブラハムには、奇跡によるイサク誕生の経験と、「イサクを献げなさい」と言う神の命令により、「神は無から有を呼び出し、死人を甦らせる事が出来る全能のお方」だという、神の愛と全能の力を信じ切る信仰が宿ったのです。人間の心に平安とか喜びとか、意欲とか、愛とか、神のみ心に叶った義に生きる勇気に満ちる秘訣は「神の愛と約束と全能の力」を信じ切る信仰からくることを聖書は教えています。神の愛と約束と全能の力を信じ切る信仰が心に不動のものとして宿る事が霊的祝福です。神さまは、アブラハムを経済的に、物質的に、肉体的に、霊的に祝福されましたが、今日、キリストを信じる全てのキリスト者が、アブラハムの如くにあらゆる面で祝福された人となる事を熱く願っておられます。その事がヨハネ第三の手紙2節で教えられています。「Ⅲヨハ2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

教会の指導者となっていた弟子のヨハネは、キリスト者の魂が幸いである事、全ての点で幸いである事、健康の上で幸いである事が、神のみ心だと理解をしていましたので、彼は「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」と祝福のメッセージを初代教会のキリスト者に伝えました。

神さまは、全てのキリスト者がアブラハムの如くにあらゆる面で祝福される事を強く、熱く願っておられます。それは全てのキリスト者がアブラハムの霊的子孫だからです。パウロは、キリストを信じて罪赦され「義」とされたキリスト者」は、アブラハムの「信仰によって義とされた」と言う「信仰義認」を継承しています。霊的にアブラハムの子孫として召されているという事は、「アブラハム契約」の条項の内、「世界を祝福する」と言う約束を受け継いだことを意味しています。私たちキリスト者は世界の人々に、家族の人々に、職場の人々に、地域の人々に、神の祝福を注ぐために、「世界の相続人」となっているのです。パウロが次のように教えています。「ロマ4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためである」と。私たちが相続している世界に神さまの祝福を注いでいくために、神さまは私たちをアブラハムの如くにあらゆる面で祝福を与えようとされているのです。その為に、キリストを信じる信仰によって罪が永遠に赦され「永遠の義人」とされ、神さまとの親しい愛の交わりの中におかれ、神さまから聖霊のお力で喜んで命を神と人の為に献げる愛の人となる道が開かれたのです。キリストが十字架で命を献げて下さったその愛に答えて、命がけで神にお仕えし、愛に生きるキリスト者はアブラハムの如くあらゆる面で祝福を受けるのです。十字架にかかり三日目にご復活をされたキリストを心から自分の救い主だと信じる時に、その人は全ての罪が赦され「永遠に義人と認められる」だけでなく、この地上でアブラハムの如くあらゆる面で神の祝福を受ける可能性を秘めた者とされるのです。

三浦綾子さんが書かれた塩狩峠の中で、暴走する列車を止める為に、自らを列車の下敷きにして殉死し、多くの乗客を助けた主人公である「長野青年」のモデルとなったのが、クリスチャンの長野政雄でした。長野政雄はいつも「遺書」を携帯していた言われます。その遺書には「苦楽生死均しく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ」と書いていました。神さまに死に至るまで忠実に愛に生きるキリス者は地上においても、死後の天上においても「あらゆる面」で神の祝福に与るのです。あなたもキリストを信じて、そのようなキリスト者の仲間入りをしませんか。「黙示2:10死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」