「喜びの新しい契約」
聖書:エレミヤ31章31節~34節
牧師:佐藤勝徳

人間はなぜ妬み、恨み、殺人、盗み、嘘、好色、姦淫、不倫などの様々な罪を犯すのでしょうか。その原因は、アダムが罪を犯して堕落した時に、(聖書はギリシャ語で単数形で表現)と呼ばれる、悪の力がこの世界に入り込んだことにあるのです。パウロが次のように教えています。「ローマ5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、・・」と。その罪は、引力の法則のように、いつも常に何かあると働くので「罪の法則」と聖書は呼んでいます。その罪の法則の悪の力は、人間の肉体と心に「むさぼり」を持たせるのです。パウロは、モーセの十戒の「むさぼってはならない」という10番目の戒めを何としてでも守りたいと思い、あらん限りの意志の力を燃えたたせて決断をしました。しかし、何かあるとすぐに「むさぼっている」自分を発見しました。そこで改めてび「むさぼらないぞ」と決断しました。しかし、彼はいくら決心しても、繰り返し繰り返し「むさぼり」が自然に湧いてくる事を知ったのです。その体験により、意志の力で「むさぼらいぞ」と決心している自分の中には自分の肉体と心に「むさぼり」を与えている悪の力が法則のように働いている事を発見しました。彼は次のようにその悩みを打ち明けています。「罪はむさぼるなと言う戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。「むさぼり」と言うのは、欲がる必要がないのに欲しがる事です。必要以上に欲しがることや、隣人に持ち物を欲しがったりする事が「むさぼり」です。 今から2500年ほど前のイスラエルの人々が、何故、偶像崇拝、殺人、姦淫、盗み、嘘のなどの多くの罪を犯し続けたのでしょうか。それは、アダムの罪によりこの世界に入って来た罪の法則の力に負けて、いつも身も心も「むさぼり」に支配されてしまっていたからです。その罪を悔い改めて神さまに助けを求める人は殆どいなかったので、イスラエルの王も民も増々罪の奴隷に成り下がっていき、ついに神さまによって裁かれてアッシリヤとバビロンによって滅ぼされたのです。しかし、神さまは、先祖のアブラハムと結ばれた「アブラハム契約」に基づき世界を祝福する使命を帯びさせ選民とされた故に、罪深いあるがままの彼らに対して、ご自身より尊い存在とする謙遜の愛で愛し、無条件の熱い愛を注ぐことを止められませんでした。神さまは、彼らを目の瞳の如く愛し、高価な宝石のように喜び愛し、乳飲み子を愛する母の如く愛し、妻を愛する夫のように激しく愛し、お父さんのように愛し、乙女を愛する恋愛心のように愛し、滅び行くイスラエルを断腸の痛みの愛で永遠に愛され続けておられるのです。それ故に、彼らをバビロンによって滅びてから70年後に再び国を復興する恵みが与えられました。しかしそれにもかかわらず、復興後に神さまが救い主として遣わされたイエス・キリストを悪霊憑き呼ばわりし、妬みにより十字架で殺したのです。その為に、再びAD70年にローマによって滅ぼされ、彼らは世界に散らされる離散の民となってしまいました。それでも神さまは謙遜の愛と永遠の無条件の愛を彼らに注がれ、誠実を尽くし続けられ、彼らに対して終わりの日に、「新しい契約」を与えると、エレミヤによって約束されました。新しい契約は、心と体と霊に喜びを与える契約ですので、終末に再び国を回復したイスラエルの人々が喜びに満ち溢れて神さまを賛美する事が預言されています。◆「エレ 31:12 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する【主】の恵みに喜び輝く。」。

終末のイスラエルの人々に肉体と心と霊を喜びで満たす「新しい契約」は、先ず、自分の意志の力で守らなければならないモーセ契約のようではないと教えられています。◆「エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない」。 次に、イスラエルの全ての人の心に神の愛の律法を刻印する事です。◆「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。モーセ契約の十戒は石の板に刻まれましたが、新しい契約は石の板ではなく、キリストを救い主と信じるイスラエル人々の心に神の愛と正義に満ちたキリストの律法を刻印するという約束です。それにより、イスラエルの人々は神さまとの愛の交わりに導かれ霊が喜びで満たされるのです。神さまとその愛の喜びの交わりがある状態を「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と教えられているのです。 キリストの律法の刻印の約束は、終末の日にイスラエルの全ての人が、十字架と復活のキリストを「救い主」だと信じる時が来る事を教えているのです。キリストを信じて律法の刻印を心に受けた終末のイスラエルの人々は、幼い者から老いたる者に至るまで、全ての人が生ける神さまと喜びに満ち溢れた愛の交わりの中に生きるようになるのです。それ故に誰からも「主を知りなさい」「主を信じましょう」「神さまは愛ですよ」と、知らされたり教育を受ける必要がなくなるのです。その事をエレミヤが次のように教えています。◆「そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」と。 三つ目の約束はイスラエルの人々の全ての罪が赦され、永遠に神さまが思い出すことがないという約束です。◆「──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」。 この約束は、十字架で、キリストがイスラエルの全ての罪を背負って、身代わりの刑罰をお受けになった事で実現するのです。「アブラハム契約」「ダビデ契約」「土地の契約」と言う三つの無条件契約に、神さまはエレミヤを通して新たに「新しい契約」という無条件契約をイスラエルと結ばれたのです。以上の4つの無条件契約の成就として、イスラエルには再臨される復活のキリストが王として君臨され、イスラエルと全世界を愛と正義と謙遜をもって統治され、戦争が一切ない平和な世界、豊作に満ちた世界、エデンの園のように回復した世界、幼くして死ぬ事がない世界、百歳でも早死にと言われる長寿の世界と言う「「メシヤ的王国」を実現して下さるのです。その時に、イスラエルの人々は、間違いなく物心の両面が喜びに満たされ、霊が喜びに満たされ続けるのです。そのイスラエルに約束された、新しい契約の一部に、現在の私たち異邦人キリスト者が預かっているのです。キリストは最後の晩餐の時に、弟子たちにパンを裂き与えて、「これはわたしの体だ」と言って、「わたしを記念して食べなさい」と言われました。又、葡萄酒の杯を差し出し、「これは多くの人の罪を赦す為の『契約の血』だ」と言われました。つまり、キリストが十字架でご自分の体を犠牲にして流す血は、信じる者の全ての罪を永遠に赦すという神の契約を保証する血だという事です。◆「マタ 26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。もし、キリストが十字架でイスラエルと全人類の罪を背負って身代わりの刑罰を受けて血を流し死んで下さっていなければ、イスラエルと結ばれた4つの無条件契約は永遠に果たされず「メシヤ的王国」が成就しません。それは神が義でなくなり、永遠に大嘘つきの神となってしまうのです。それは絶対にあり得ない事です。キリストは4つの無条件契約の実現を十字架の死と復活によって保証されたのです。エレミヤを通して、神さまがイスラエルと結ばれた「新しい契約」である「永遠の罪の赦し」と「律法の刻印」という恵みに私たち異邦人キリスト者が預っているのです。それにより、神さまとの愛の交わりと言う霊的喜びの中に生かされています。キリスストを信じた全ての異邦人キリスト者の霊に聖霊が一つとなって内住されています。それは、キリスト者の心にキリストの律法を刻印する為です。聖霊により心にキリストの律法の刻印を受けると、そのキリスト者は、その律法を喜びとして忘れる事無く、聖霊の助けを受けながら実践に励むのです。あなたを創造された創造主の神さまは、イスラエルと結ばれた新しい契約により、あなたをも物心両面と霊の喜びで満たすことを願って、救い主キリストをあなたの為にも遣わし十字架にお付けになったのです。あなたがキリストを信じて物心両面と霊の喜びで満たされますようにお祈りします。

「Ⅰペテ2:24(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」