「封印を解く小羊キリスト」
聖書:黙示録5章1節~14節
牧師:佐藤勝徳

今日は黙示録5章で教えられている「封印を解く小羊キリスト」について学びます。初代教会時代にキリストの弟子ヨハネが迫害を受け、流刑先のパトモス島で幻によって見た天上での礼拝風景が4章と5章で教えられています。

1、4章の礼拝風景

礼拝と聞くと、何となく堅苦しくて、近づき難いように思っておられる方も多いと思います。しかし、真の礼拝とは喜びと感謝をもって平和と自由に満たされて創造主の神さまに賛美と感謝を献げる事を意味しています。その礼拝が、天上で献げられている事をヨハネは幻で見たのです。

礼拝をお受けになっているお方は、御座に着座されているキリストの父なる神さまです。又、小羊と呼ばれている神の子のキリストです。礼拝を献げているのは、第1に24の座に座っている24人の長老と呼ばれている教会の指導者達です。第2に、からだ全身と六つの翼が目だらけの4つの生き物です。それは、獅子のような生き物、雄牛のような生き物、鷲のような生き物、人間のような顔をした生き物です。この4つの生き物はセラピムと呼ばれる神の御使い達です。第3に万の幾万倍、千の幾千倍と言われる無数のみ使い達です。第4に、天と地とその中に存在している万物です。4つの生き物であるセラピムたちが創造主の父なる神さまに対して「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美しています。「聖」と言うのは、神さまは愛と謙遜と善意と正義と真実と知恵と力と主権とが完全で、永遠に万物から喜びたたえられるお方である事を教える重要な言葉です。創造主の神さまの「聖」はどんな被造物とも比較できないので、区別を意味するヘブル語の「カドーシュ」が神さまの「聖」を表す言葉として使用されています。しかし、あえて比較すれば、聖なる神さまは、完全に透き通った川や海のように、完全な純粋さと美しさに満ちたお方です。その真のお姿を見れば、誰もが圧倒され喜びをもって「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美をせざるを得なくなるのです。4つの生き物が礼拝をささげている時に、同時に金の香炉と竪琴を持った24人の長老が、金の冠を投げ出してひれ伏し、神さまが万物の創造主であることを喜び賛美しています。以上が黙示録4章の礼拝風景の概要です。

2、5章の礼拝風景

5章では、父なる神さまが、両面に文字が書かれ7つの封印で閉じられた一つの巻き物を右手に持っておられる事が

教えられています。しかし、その封印を解く事が出来る者がどこにもいないでヨハネは激しく泣きました。そのヨハネに一人の長老が声をかけ「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」と教えてくれたのです。「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」と呼ばれるお方は、約2000年昔にイスラエル12部族の中のユダ族のダビデの家系より、聖霊によりマリヤによってベツレヘムでお生まれになったイエス・キリストの事を意味しています。復活をされ、今は天におられるキリストはやがて地上に再び来臨されてイスラエルを中心とし平和な「メシヤ的千年の王国」の世界の王の王となれるお方ですので「ユダ族から出た獅子」と呼ばれています。「ユダ族の獅子。ダビデの根」と呼ばれるキリストが、「封印」を解くことができるというのです。なぜでしょうか。それは24人の長老達が、新しい歌を歌って「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」と賛美しているその賛美の言葉に答えが与えられています。

3、謙遜な小羊キリスト

キリストは、神の子ではありますが、父なる神さま同様に無限の聖なる神さまです。それにも関わらず、イスラエルと人類の罪の赦しの為に、人となって十字架で身代わりの刑罰をお受けになり、尊い罪なき血を償いの代価として流されました。そのご自身の事をキリストは「心へりくだった柔和な者」、「罪びとに仕える為に来た者」と言われ、ご自分を奴隷の位置において弟子たちの足を洗われました。キリストのご生涯は全ての罪びとをご自分より優る尊い存在として喜びながら歩まれた謙遜なご生涯でした。又、イスラエルと人類の為の身代わりの死も、自分勝手に決めた時でなく、父なる神さまがお定めになった時のユダヤの過ぎ越し祭の時に十字架におかかりになって成し遂げられたのです。昔、ユダヤでは、過ぎ越し祭の時には、イスラエル民族の全ての罪が赦される為に、傷の無い「小羊」が献げられていました。キリストはその小羊のようにイ、スラエル民族と全人類の罪の赦しの為に、神さまがお定めになったあの「過越し祭」の時に、十字架で身代わりの刑罰を受ける為にご自身を献げられたのです。そのキリストを、聖書は象徴的に「過越しの小羊」と呼んでいます。黙示録では40回以上もキリストの事を「小羊」と呼んでいます。ご自分をいつも無にして罪びとの全ての人を自分より優る尊い存在として喜び尊びながら、父なる神さまに十字架の死に至るまで忠実に従われたのです。そのキリストに、父なる神さまは「すべての名に優る名」を与えられ、王の王、主の主とされたのです(ピリピ2:3~11)。それは、謙遜な父なる神さまにとってふさわしい決定でした。

4、謙遜な小羊キリストに与えられた裁きの権能

不信仰なイスラエルと不信仰な世界に対して、もうすぐこの世界に臨む、「主の日」と呼ばれる7年の大艱難時代がやってきます。その想像を絶する厳しい災いの数々が記録されている巻き物の封印を解く権能が小羊キリストに与えられたのです。キリストは、心を低くしてご自分の命を十字架に犠牲にしてまでも、イスラエルと全人類の罪の赦しと永遠の救いの為のチャンスを与えられたお方です。しかし、その恵みのチャンスを無視し、毛嫌いし見向きもしない不信仰なイスラエルの人々と世界の人々に対しての裁きの全権を、父なる神さまは小羊キリストに委ねられたのです。それが、謙遜な父なる神さまの義にふさわしい事として、天上では4つの生き物であるセラピムと、24人の長老と、無数の天使と、万物とが喜び賛美しているのです。「黙5:12 ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」。

5、3つの裁きから救われる道

黙示録は6章から、小羊キリストによって封印が解かれ、封印の災い、ラッパの災い、鉢の災いが18章までに記録されています。不信仰な人々は、①その厳しい災いによって全て地上から取り除かれます。その後、②苦しみが続く陰府に落とされます。さらに、その後、③最後の審判の時に、永遠に苦しみ続ける永遠の火の池に投じられるのです。

以上の、3つの裁きからあなたが救われる道はただ一つです。それは、キリストが、あなたの罪の永遠の赦しの為に、あなたのすべての罪を背負って十字架で身代わりの刑罰をお受けになった、という真理を認めて、キリストを救い主だと信じる信仰だけによるのです。あなたが信仰により、以上の3つの裁きから救われますようにお祈りしています。