「神の作品であるキリスト者」
聖書:エペソ2章1節~10節
牧師:佐藤勝徳
1、神の愛の作品とは
キリスト者はキリストの罪の赦しの福音と言う真理を信じた結果、頭のてっぺんから足つま先までを覆っている人の霊の中に、神の約束の聖霊が永遠に与えられています。キリスト者の霊が約束の聖霊と一体となり、新しいきよい人になった事を意味してパウロはキリスト者を「神の作品」と呼びました。
2、新しい人に再創造される前のキリスト者
そのような新しい人間となる前のキリスト者は、悪魔や悪霊ども支配され、彼らが生みだした偽りの哲学や偽りの偶像宗教の中に生きている存在だったとパウロは教えています。
◆「エペ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
3、生まれながら神の怒り受ける子らとなっている原因
又、パウロは、キリスト者が救われる前の事を「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」と教えています。悪魔と悪霊どもは、偽りの哲学、偽りの偶像宗教を不信仰な人に持たせているだけでなく、様々な罪の原因である貪欲によって生きるように仕向け、多くの罪を犯させたているのです。人間が道徳的に、性的に、倫理的に色々な恐ろしい罪を犯す原因は「貪欲」だと聖書は教えています。人間は貪欲の傾向性があるので、人を妬んだり恨んだり様々な邪悪な感情を抱きます。その邪悪な感情が大きくなると犯罪に至るのです。
ではなぜ、人類は貪欲の傾向性を持つようになったのでしょうか。それは人類の代表者として創造されたアダムが罪に堕落した結果、人類も罪に堕落し人類はアダムからの遺伝によって罪の性質をもって生まれるようになったという事です。罪の性質は「貪欲の傾向性」の事を意味しています。それ故に、人は生まれながら「御怒りを受けるべき子ら」と呼ばれているのです。人はアダムの罪の故に、罪の性質をもって生まれるようになったので、多くの罪を幼い時から犯しています。それゆえに人は生まれながら「神の怒りを受けて裁かれ滅び、永遠に苦しみ続けるものである」と言うのがパウロの教えです。私たちは、単に自分が犯してきた罪のためだけでなく、アダムにあって罪に堕落し、罪の性質をもって生まれたものであるので、神さまから愛される資格はありません。神さまに救われる資格ありません。今はあるは、ただ神さまの憐れみと恵によっているのです。アダムが人類の代表者であることを、パウロは3か所で教えています。◆「ロマ5:18 ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」、◆「Ⅰコリ15:22 アダムにあってすべての人が死んでいる」。◆「Ⅰコリ15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてあります」
アダムと言うのは、個人名で使用されている時もありますが、実は複数形です。それは、アダムが人類の代表者として創造され、人類を包含していた事によるのです。
4、古いアダムから新しいアダムへの移行
神さまが、アダムを人類の代表者として創造された事に深い理由がありました。それは、もし、アダムが罪に堕落した時は、共に堕落した人類の罪を赦し、救うために神の御子を人類の代表者である新しいアダムとしてお遣わしになるためだったのです。神の御子が新しい人類の代表者としてこの世界においで下さった時が、2000年昔、ユダヤのベツレヘムにお生まれになった時です。その時に、人類は古いアダムから新しいアダムである神の御子キリストの中に移し入れられ、人類は新しいアダムであるキリストの中に包含されたのです。人類はキリストにある人類とされたのです。キリストがなぜ人類の罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになる事が出来たのでしょうか。その理由の一つが、キリストが人類の新しい代表者アダムとして遣わされた事にあるのです。キリストは人類の代表者でしたので、人類に代わって罪の刑罰をお受け下さる事が出来たのです。その新しいアダムをパウロは「最後のアダム」とか「第二の人」と呼んでいます。
「Ⅰコリ15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。15:46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。」
5、最後のアダムによる救いの御業
では、新しいアダムであるキリストがなぜ「最後のアダム」と呼ばれたのでしょうか。それは人類の代表者となる人物はキリストで最後ですので、最後のアダムと呼ばれたのです。最後のアダムであるキリストが遣わされた使命は、人類の犯した全ての罪を負って身代わりの刑罰を受けるだけでなく、罪の性質をもって生まれ、生まれながら神の怒りを受ける事が定まっている人類を古い人から新しい人へと救うためであったのです。キリストが十字架で死んだときに人類の罪が全て取り除かれ、罪の赦しと言う救いの御業が完成しました。同時に新しいアダムであるキリストは、罪の性質をもって生まれている古い人である人類を包含していましたので、キリストが死んだときに古い人である人類も共に死んだのです。私たちに貪欲により自然と嫌な邪悪な感情を持たせる生まれながら罪の性質を持っている古い人はキリスト共に十字架で共に死に、共に葬られたのです。パウロが次のように教えています。◆「Ⅱコリント5:14ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」
新しいアダムであり、最後のアダムであるキリストの十字架の死によって罪の性質をもって生まれている古い人類は、全部キリスト共に十字架で死に、そして葬られたのです。
6、キリストにあってきよい神の性質に満ち溢れた新しい人となったキリスト者
貪欲の傾向性と言う罪の性質をもって生まれた古い人が十字架でキリスト共に死んだという事は、キリスト者が神のみ心に叶ったきよい勝利の生活を送る為の消極的な救いの御業です。積極的な救いの面とは、キリストが三日目に復活をされた時に、、神のきよい性質に満ち満ちた新しい人としてキリスト者も共に復活したという事です。神のきよい性質に対して、罪の原理、罪の力は何もする事が出来ません。神のきよい性質は神と人を愛する性質です。神のきよい性質は、神を喜び、人を喜び、神の教える真理を喜び神の教える真理を追究する性質です。神のきよい性質は人を自分より優る尊い存として尊ぶ謙遜の性質です。きよい性質は悪を憎み罪を退ける聖なる性質です。
7、救いは人間の努力によらず神の恵みによる
エペソの教会のキリスト者が、罪の赦しと共に、キリストの十字架の死に共に預かり、キリストのと共に復活し、神のきよい性質に預かるという救いの恵み預かったのは、人間の努力によらず神の恵みの賜物だとパウロは教えています。 キリストを信じて、洗礼をお受けになった全てのキリスト者は神さまの恵みにより、永遠の罪の赦しに預かっただけでなく、神のきよい性質に満ちた新しい人としてキリスト共に甦っているのです。
キリストの救いはそれだけではありません。キリストは復活をされて40日後天に昇られましたので、キリストを信じて洗礼を受けた全てのキリスト者は、キリスト共に天の上りキリスト共に父なる神の右の座に着座し、キリスト共に神に仕える者とされているのです。それをパウロは次のように教えました。
◆「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです── 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 」
神さまは、2000年昔、私たちが知らない時に、神の愛の意志により、私たちの全ての罪をキリストに負わせられました。同時に、神の恵みと憐れみの意志により、罪の性質をもって生まれた古い私たちをキリストに包含させ、キリストと共に死に、キリストと共に甦り、共に天の座に着かせてくださっていたのです。それが神の恵みによる「キリストにあって」の救いの御業です。その「恵みのキリストにあっての救いの御業」をキリストを信じる人に適用されます。同じように、洗礼を受けたキリスト者は、キリストの十字架の死と復活と昇天と言う救いの恵みが適用されているのです。
約束の聖霊を霊に宿しているキリスト者は、キリストにあって、神のきよい性質に満ち満ちあふれ、キリストと共に父なる神の右の座に着座する天に属する者となったのです。そのキリスト者が神さまによって再創造された神の愛の作品です。
あなたもキリストを信じて罪の赦しを得られますように。あなたが、キリストを信じて洗礼を受けられ、キリストにある新しいきよい人として勝利の人生を歩まれますように。あなたがキリストと共に父なる神の右に座し、天に属する者としてこの地上の生涯をキリストと共に歩まれますようにお祈りします。又、あなたが、大空からあなたを支配し、偽りの哲学や偽りの宗教に生きる者としている悪魔や悪霊から解放される為に、キリスストを信じて神さまの愛の作品として再創造されますようにお祈りしています。