「創造主なる神のビジョン」
聖書:Ⅰテモテ1章9節~17節
牧師:佐藤勝徳

先日、幼いわが子が必死で助けを求めているにも関わらず、虐待して死に至らしめた親たちの事がニュースに流れていましたが、深い悲しみを覚えました。同時に、恐ろしい罪を犯す事から解放するイエス・」キリストの十字架の福音を一人でも多くの人に伝えなければと改めて思わされました。パウロは「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」(Ⅰテモテ1:12)と教えています。キリストが2000年昔にこの世界に来られたのは、恐ろしい罪を犯すことから罪びとを救う為でした。

1、罪びとの実態

パウロは、私たち罪びとのことを「律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」と、罪の恐ろしい実態を教えています。

2、人類が多くの罪を犯す根本的原因

では、どうして人間は恐ろしい罪を犯す罪びとになってしまったのでしょうか。それは、人類を包含して創造された人類の最初の代表者アダムが神さまの「善悪を知る木からとって食べてはならない。きっと死ぬ」と戒められたその戒めを破って罪に堕落した事にあるのです。人類を包含しているアダムが罪に堕落した結果、人類は大きな問題を抱え込みました。第1に、神さまとの愛の交わりが失われ、霊的に死んだ事です。第2番目は、永遠に生きる肉体となっることを願って造られた肉体が死ぬ肉体、朽ちる肉体、病気や怪我をする肉体となった事です。第3番目に、人間は全て「貪欲の傾向性」と言う罪の性質を誕生によりアダムからの遺伝によって持つようになったことです。第4番目は、「貪欲の傾向性」という、「罪の性質」に働いて、人を貪欲にさせ、様々な罪を犯させる「罪の法則と言う罪の力がこの世界に入り込んだことです。第5番目は、悪魔と手下である堕天使の悪霊どもが、大空に住まいを獲得した事です。神さまとの愛の交わりを失い、「貪欲の傾向性」と言う「罪の性質」もって生まれ、その罪の傾向性に罪の法則と言う罪の力が働いて人間を貪欲にさせ、様々な罪を人間に犯させているのです。更にパウロが教えるように大空を住まいとして自由に行き交いが許されている悪魔と堕天使の悪霊どもが罪へと誘惑をしているのです。更に、もう一つ原因があります。それは、人間の意思の力で行おうとするモーセ律法す。偶像崇拝の禁止、親を愛する事、殺人の禁止、盗みの禁止、姦淫の禁止、嘘の禁止、貪欲の禁止と言う、それらの戒めをパウロは、結局のところ「自分を愛するように隣びとを愛せよ」に尽きると教えています。自分を愛するように隣人を愛せよという戒めは、キリストを信じる者だけに与えられている戒めではなく、全人類に与えられている戒めなのです。しかし、自分の意志で行うように命じるモーセ律法は、命じますが助けることをしません。逆に、「貪欲の傾向性」と言う罪の性質に「罪の法則」と言う力が働いて、罪びとを増々貪欲にさせるのです。

3、モーセ律法と罪の法則の関係

パウロは神さまのビジョンを知っていました。それは、キリストのようにきよい人となる事です。そこでパウロは罪が赦され救われた喜びの応答として、モーセの律法が命じるように貪欲にならないように自分の意志の力を振り絞って貪欲を抑えようとしたのです。しかし、そのとたんに貪欲の罪を犯している自分を発見したのです。貪欲と言うのは、欲しがる必要がない事を欲しがったり、必要以上に欲しがることです。パウロは、妬みをはじめ様々な邪悪な感情は貪欲から来ることをよく知っているので、なんとしてもモーセの十戒の一番最後の戒め「貪るな」を自分の意志の力を振り絞って実行しようとしたのです。しかし、貪りが起きそうな出来事に遭遇すると、自分の意志に関係なく、自然と貪っている自分がそこにいたので、彼は「ああ悩めるかな!」と嘆き絶叫したのです。自分の意志の力で律法を守ろうとすると、そこに「罪の法則」という罪の力が働き、善なる意志とは裏腹に人は貪欲になるのです。意志の力で守ろうとするモーセ律法はそのものは聖なる律法で善なのですが、その善なる律法は、「貪欲の傾向性」を持つ罪びと余計に邪悪にし貪欲なものとするのです。それが「罪の法則」と言う罪の力と人の意志の力で守ろうとするモーセ律法との関係です。

◆「ロマ7:7律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。」

4、神のヴィジョンの実現の道

パウロは、神さまが罪びとの為に抱いておられるビジョンである、「キリストのようなきよい人生に生きる人間」となるのは、自分の意志の力を振り絞って律法を守ろうとする事でなく、キリストの救いの事実に安んじる信仰に、聖霊がお働き下さって初めてなれるという事を後日知ったのです。キリストの律法と言うのは、キリストにあっての救いに事実に安んじる人が聖霊の力で実行できる律法の事を意味しています。自分の意志の力で実行しようとするモーセ律法に対してはキリストと共には死んだのです。パウロは次のように教えています。

◆「ロマ 7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」。

キリストの律法はキリスト者の内に内住されている聖霊のお力で初めて実行出来る律法です。神さまのヴィジョンは、救われたキリスト者を聖霊の力、神の力でキリストのようなきよい神の子として生かす事です。その為に、キリストがどうしても十字架で死に三日目に復活する事が必要だったのです。

5、キリストの十字架の死と復活に包含されていた人類

キリストは、「罪びとを救い、キリストのようなきよい人にする」と言う神のヴィジョンを胸に、十字架で人類の全ての罪をとり除く為の血を流されました。同時に、貪欲の傾向性をもって生まれた故に、「罪の法則」という罪の力に負けて「貪欲」の罪を犯してしまう古き人類が共に死ぬ為に十字架で死なれました。貪欲の傾向性を持っている古き人類は2000年昔、キリストと共に死んだのです。それは、キリストが人類の代表者である新しいアダムとして人類を包含していた事によるのです。人類は最初の人類の代表者であるアダムから、新しいい人類の代表者であるキリストに、キリストがベツレヘムに誕生された時に移し入れられたのです。ですから、キリストが十字架で死んだ時に古き人類も共に死んだのです。キリストと共に死んだ古き人類はその時に「罪の法則」という罪の奴隷から解放されたのです。同時に自分の意志で守らなければならないモーセ律法からも解放されたのです。私たちは2000年昔にキリストと共に死んだので、私たちに貪欲の思いを持たせようとして働く罪の法則の力は何の効力もないものとなりました。私たちはキリストとの共同の死と言う福音により、2度と貪欲を持たない者と既にされたのです。また、死んだので自分の意志で行おうとするモーセ律法からも解放されたのです。私たち人類を包含しているキリストの十字架の死は罪の法則の力と律法から私たちを解放したのです。その救いの事実を聖霊によって目が開かれ、安んじる時に、聖霊がその信仰者に働き、実際に罪から解放されている死んだ古き自分を体験させるのです。しかし、それは救いの消極的な面です。積極的な面は、キリストのように神のきよい性質に預かり、キリストのように愛と謙遜と正義に満ちて生きる者へと救う事です。それは、キリストの復活によって実現しました。キリストの十字架の死に包含され死んだ古き人である私たちは、キリストと共に死んで葬られただけでなく、キリストが三日目に甦られた時に、キリストと共に甦り、キリストが持たれていた神のきよい性質に満ち満ちた新しい人にされたのです。神のきよい性質を持った新しい人となるのは、難行苦行によらず、キリストとの共同の死と復活によるのです。その救いの事実を信じて安んじる時に、聖霊によって私たちはキリストのようにきよく生きる新しい人として生かされている自分を発見するのです。貪欲の傾向性を持つ古き私たちは、2000年昔に、キリストと共に死んで罪の力と律法から解放され、同時に、キリストと共に甦り、キリストのように愛に生きる人、キリストのように謙遜に生きる人、キリストのように正しく生きる人、キリストのようにいつも喜び絶えず祈り全ての事に感謝しながら生きる人にされたのです。その事実に聖霊によって目が開かるように祈りましょう。キリストの救いの御業の事実に聖霊によって目が開かれて安んじる人に聖霊が働き、キリストのように愛と謙遜と正義と喜びをもって生きている人として下さるのです。地獄の苦しみを受けつつ十字架で死んで下さり、三日目にご復活をされたキリストの救いの御業により、罪びとが永遠に罪赦され、永遠に平安な心で生きる人へと救う事が神さまが愛の胸に抱いておられるヴィジョンです。更に、キリストの死と復活の中に罪びとが含まれているという事実に聖霊によって目が開かれて、その事実に安んじて聖霊によりキリストのように愛と謙遜と正義の満ち溢れて、永遠にきよく生きる人となる事、それが創造主の神さまが罪に堕落したあなたの為に抱いておられるヴィジョンです。あなたも、あなたの救いの為に、キリストが古き人であるあなた自身を背負って十字架で死に、キリストと共に甦り、神のきよい性質に預からせて甦らせ新しい人にして下さったという、キリストの救いの御業に聖霊によって目が開かれて、神さまのヴィジョンである、キリストのようにきよく生きる人となられますようにお祈りします。