「いつも共にいて下さる復活のキリスト」
聖書:マタイ28章1節~20節
牧師:佐藤勝徳
1、愛と祝福に満ちた復活のキリスト
イースターおめでとうございます。キリストの復活の出来事を伝えるマタイ28章では、キリストが復活をされた日曜日の朝に一番最初に墓にやって来たのがキリストを心から愛していたマグダラのマリヤと数人の女性たちでした。復活をされたキリストはその女性たち顕れて下さり「おはよう」と深い親しみの情をもって朝の挨拶をされました。「おはよう」と訳されているギリシャ語はカイレテで、直訳すれば「幸あれ」となります。ヘブル語では「シャローム(平和があるように)」ですので、キリストは彼女たちに「シャローム」とあいさつをされたでしょう。復活のキリストが開口一番口にされたのがシャローム(平和があるように)「幸あれ」と言う祝福の言葉でした。祝福の言葉で朝の挨拶をされたキリストは、今日の私達すべてのキリスト者が、神さまが与えて下さる幸いに満ちあふれ喜びと平安に満たされた人生を歩む事をど願って今朝シャローム「カイレテ(幸あれ」とご挨拶をして下さっているのです。
2、おぞましいイスラルの指導者達とローマの番兵とキリストとの比較
み使いを見て、恐ろしさのあまり死にそうになった墓番をしていたローマの番兵達から、キリストの復活の出来事を聞かされた祭司長たちは、長老たちと相談し、番兵達にわいろを渡して、自分たちが眠っている間にキリストの弟子たちがキリストを墓から盗んだと言いふらすようにに指示しました。番兵たちがそのフェイクニュースを流した結果、それがユダヤの人の間に広まり、それが長い間噂になったようです。キリストを十字架につけた当時のユダヤ社会の指導者たちとローマの番兵達が、どれほどおぞましいものであったかが暴露されています。正に白く塗られた墓のようでした。この世界は、そうした人の方が多いように思います。また、この世の善い人であっても、敵を愛する愛とか、無条件の愛をもって何の陰りもなく純粋に人を愛する人はいません。そのような愛をもって人を愛するお方は十字架にかかり三日目にご復活をされたイエス・キリスト以外に存在しません。心底から絶対的に信頼できるお方は、全人類の永遠の罪の赦し、永遠の祝福を願って十字架に死に、三日目に甦られたイエス・キリスト以外にありません。
3、永遠に共にいて下さる復活のキリスト
その愛に満ち溢れキリストは、信じる者と永遠に共にいて下さる為に甦られたのです。キリストは「見よ私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます」と弟子たちに約束をされました。その約束は、キリストを信じる全ての者への約束です。人間は、神の尊い御名が人々に讃えらえる為に、神にお仕いする僕として愛をもって創造されました。しかし、人間は罪に堕落し神の栄光のためでなく、自分の名誉や欲得の為に生きるようになりました。その罪びとの私たちが、本来の正しい生き方である神の栄光のために生きる者へ回復させる為にキリストは復活し、信じる者の霊の中に永遠に内住されているのです。信じる者の霊の中に内住されているキリストは、信じる者が喜びと平安に満ちあふれ、健康であるように、全ての事で祝福されるように願って、世の終わりまで、つまり永遠に共にいると約束をして下さったのです。復活をされたキリストは、聖霊と共に信じるキリスト者の霊と一体となって永遠に共におられるのです。キリストを信じる者がたとえどんな恐ろし罪を犯したり、大失敗をしたりしている時も、キリストは信じる者を愛して祝福を願っていつも共にいて下さるのです。喜びの時も、苦しみの時も、キリストは信じる者と共にいてその喜びをご自分の喜びとして喜ばれ、、その苦しみをご自分の苦しみとして共に苦しみながら、信じる者を苦しみから解放しようとされているのです。復活のキリストは、信じる者のいと近き創造主、いと近き救い主、いと近き友として、信じる者の霊の内に永遠に内住され共におられるのです。
4、常に適切に対応して下さる復活のキリスト
マグダラのマリア達にシャローム(カイレテ)とや優しくあいさつをして下さったキリストは愛に満ち溢れたお方です。しかし、罪には大変厳しい厳格なお方です。キリストは罪に対して次のように教えられました。「マタ 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」と、罪に対して非常に厳格な教えを語っておられます。それもキリストの愛から出た厳格な教えです。キリストは、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている、王の王なるお方ですので、厳しい命令形の言葉を使用されてきました。それも、愛の故です。人間は、神さまを王の王として敬い、お従いし仕える事が最善の幸い、最善の祝福として与えられています。それ故に、不従順や罪に対しては復活のキリストは厳格に臨み、人が、よりきよめられ、より整えられて神の僕として喜んでお従いしお仕えするように訓練をされるのです。いつも共におられる復活のキリストは、その時、その時に相応しい適切な対応をされ、信じる者を聖なる神の栄光の為に喜んで生きる幸いな人にして下さるのです。、
4、復活のキリストの力
キリスト者は、キリストを信じて救われたものであっても、その知情意という魂の機能は、聖霊のお力が臨まなければ、神の栄光を現すことはできないのです。その事をキリストは、わたしに従わなければあなたがは神の栄光の為に何一つできないと教えられました。人は聖霊の力がなくても、その知情意を働かせて色々な事をすることができます。しかし、それは人間に栄光を帰す事が出来ても神さまに栄光を帰すことはできないのです。神さまが喜ばれる神の栄光の為の働きは、人間の知情意に復活のキリストが聖霊の力を働かせて下さって初めて可能となるのです、その為、キリストの導きの御声にキリスト者は日々聞き従う事が必要とされているのです。
5、電気の物理的力と聖霊の人格的力
キリストによる聖霊の力とキリスト者の関係は、ちょうどコンピュータと電気の関係に似ています。どんなに優れたコンピュータがあっても、そこに電気が流れなければ、そのコンピューターも何の働きもしません。電気の力が働いて初めて、それらは真価を発揮するのです。人間は、スーパーコンピュータや量子コンピュータのように超スピードで計算を行う事はできません。しかしそれでも、人間の方が断然優れたものなのです。人間60兆ほどの細胞で構成され、知情意を持ち霊を持つ存在でです。神さまと生きた人格的交わりができる存在です。コンピュータには人格はありません。あくまでも物質です。人間は、単に物質ではありません、人格的存在です。それ故に神さまとの愛の人格的交流が可な否存在となっています。人間は神さまとの生きた人格的交流により、聖霊の人格的霊的力のが働きを受け、それによって神の栄光の為に生きる事が可能となるのです。キリストを信じて罪赦された人は、神のとの生きた人格的交流が可能とされ聖霊の人格的力を受けて神の栄光の為に生きる可能性を秘めているのです。
6,小説「鳥が岳」の主人公、勝造の信仰
50年以上前に発行された船越昌著の実話に基づく 「鳥ケ岳」と言う小説の主人公「勝造」は、「丹波のヨブ」と呼ばれる程立派なキリスト者でした。実名は野林格蔵と言います。勝造は差別の厳しい明治の時代にハンセン氏病になり、筆舌に尽くせない苦しみ中を通ります。わたしは、何度も何度も涙を流しながら読みました。勝造がクリスチャンになったのは、同じ村に住むクリスチャンのお医者さんによってでした。村人が決して近づかない勝造に、そのお医者さんはしばしばやって来ては一緒にお茶を飲み談笑をして帰られるのです。その愛は、お医者さんが信じるキリストから来ている事を知った勝造は自分もキリストを信じてクリスチャンになりました。しかし、症状も段々厳しくなり全くの盲目になってします。更に、妻からも捨てられ両親は亡くなり、勝造は鳥ケ岳と言う山の上に、自分一人住む小屋を造ってそこで独り暮らしをするようになります。その様子を小説の最後に次のように書かれています。「勝造のわび住まいにしている小屋を訪問した人たちが、厳しすぎる境遇に同情して『勝造さん、こんな山小屋で一人住むのは、さぞお寂しい事でしょう』と、気の毒そうに言うと、勝造は大真面目な顔をして答えた。『いいえ、神さまがいつもわしと共にいて下さいますので、ちょっとも寂しい事なんかございおません』・・」。勝造を慰める為に訪問した人たちは彼の厚い信仰と、喜びと感謝に溢れた祈りによって、かえって彼から励まされ慰められて帰るのだった。彼は、知る限り全ての人のために祈り、祈りを最大の喜びとしていたのです」。
いつも共にいて下さる愛に満ち溢れた復活のキリストを信じる事が如何に幸いな事か、勝造さんの生涯は私たちに教えています。私たちの罪の赦しと救いの為に十字架にかかり三日目にご復活をされたキリストを救い主として信じていない人がおられれば、是非、今、すぐに心にキリストを救い主と信じて受け入れて下さい。キリストは、あなたの人生を聖霊の人格的な霊的な力といのちで、あなたの知情意を祝福して平安と喜びで満たして下さり、本来のあるべき人間にし下さるのです。