「御霊の実で心が満たされて」
聖書:ガラテヤ5:13~26
牧師:佐藤勝徳
1、自由に召されたキリスト者
パウロが、ガラテヤのキリスト者に「あなた方は自由を与えられるために召された」と教えています。その意味はキリストを信じる事によって、義とされ永遠の神の刑罰から解放され、世界を祝福する者とされ、その為に「約束の御霊」を賜った事を意味しています。つまり、キリストを信じた者は、世界を祝福する為に、心に与えられた神の聖なる御霊によって「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」という「御霊の実」が心に満ちて生きる可能性が与えられた事を意味しています。しかし、キリスト者の内には罪の性質をもって生まれた古き人という肉が残存し、邪悪な思いを持ち罪を犯す可能性もあります。キリスト者は世界を祝福する為に「御霊の実で満ちた心」で生きるのか、それとも肉に生きて世界を呪う為に生きるのか、自由意思で選択ができる存在になったのです。そのキリスト者をパウロは「自由に召された者」だと教えています。キリストを信じる前には、そのような自由選択をする自由はありませんでした。肉のままに生きる道しかありませんでした。
2、御霊と肉のはざまに置かれているキリスト者
キリスト者は、隣人を自分のように愛して生きるか、それとも互いに噛み合ったり、食い合ったりして生きるのか、その選択が迫られているのです。「互いに噛み合ったり、食い合ったり」するという野獣のような肉の欲望から解放され、「隣人を自分のように愛して生きる」為に「御霊によって歩みなさい」と御霊の導きに従って生きる事をパウロは命じました。そうすれば、隣人に対して野獣のような「噛み合ったり、食い合ったりする」心の憎しみや恨みによる肉の欲望から解放されますと教えています。キリスト者は、肉に生きるのか、御霊によって歩むのかそのはざまに置かれていおるのです。3、肉の働きからの解放の道(御霊によって歩む事)
私たちがキリスト者が日々、内住の御霊の細き御声に従順に生きるならば、肉の欲望から解放され、御霊の実で心が満たされて歩む事が出来るというのがパウロの教えです。その御霊によって歩むという意味は二つあります。一つは、邪悪の肉の感情や行いを持つ生まれながらの古き人はキリスト共に十字架に死に葬られ、キリスト共に甦り神の聖なる性質に満ち溢れたものとなったという勝利の福音に目が開かれて歩ことです。その事に心の目が開かれていないと、御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」で心が満たされて歩みたいと思っていても満たされる事が大変難しくいなります。又、肉の欲望のままに生きたくないと思いつつも「肉」によって生きてしまうのです。それは、キリスト者としてこうありたい、こうしたいと思う事が出来ない霊的敗北の状態です。私達キリスト者の中にある肉と御霊は常に対立しているのです。私たちは、家庭に隣人に職場に地域社会に世界にアブラハムの霊的子孫として神の祝福をもたらす道は、生まれながらの古き自分がキリストと共に十字架で死に甦ったという事に心の目が聖霊によって開かれ、その勝利の福音に生きる事です。
4、洗礼(バプテスマの)の意義
水に浸かる洗礼の意義は、洗礼によってキリストにつくものとなり、罪の性質を持って生まれた生まれながらの自己である古い人がキリストと共に十字架で死に、キリストと共に葬られ、キリストと共に甦って神の聖なる性質に満ち満ちた新しい人にされているという事です。パウロは洗礼であるバプテスマをローマ書6章で「キリスト・イエスにつくバプテスマ」と呼んで洗礼の意義を教えています。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」。ガラテヤ書でも同じように教えています。「ガラ3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」。「ガラ5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」。洗礼を受けたという事は、自分から能動的に自分の肉を情欲や欲望と共に十字架につけた事を意味するのです。
イエス・キリストは人類の最後の代表者であるアダムとしてベツレヘムの村にお生まれになりました。その時に父なる神さまは最初の人類の代表者であったアダムから人類を切り離して、人類の最後の代表者のアダムであるナザレのイエスに移されました。人類は、2000年昔にベツレヘムでお生まれになったイエス・キリストと一体化され、キリストが十字架で死んだときに共に死に、キリストが葬られた時に共に葬られ、キリストが甦られた時に共に甦り、神の聖なる性質に満ち満ちた新しい人にされました。それは、私たちの意志によるわざっでなく、一方的な神の救いの御業です。その受動的な神の救いの御業に感謝して、自分の意志で能動的にキリストに結び付き、自分を十字架につけ、葬る事が洗礼の意義です。つまり、洗礼によって肉である古い人と古い人から湧き出ある肉の邪悪な感情や知性や意志を十字架につけて殺し、葬り、神の永遠のいのちによって生きる者とするのです。それが、バプテスマ、洗礼の意義です。
私たちは、その洗礼の意義に立って、古い人から出てくる肉の働きである「ガラ5:19不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」に気が付けば、すぐに、それはキリストと共に十字架で死に葬られたものとして頑として否定し、感謝して十字架の死と葬りに委ねて安んじる事です。同時に、永遠のいのちでもある御霊の実の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」によって生きる、神の聖なる性質に満ち満ちたものとされている事を心から喜び感謝しつつ安んじる事です。 その信仰に聖霊が働き、邪悪な肉の思いは取り除かれ、実際に私達の意志、感情、知性が、実際に御霊の実の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」に心が満たされて歩むことができるのです。 そのような生き方をパウロは「法則」「基準」「原理」と呼んでいます。「ガラ6:16 この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」
5、漸進的聖化の道
以上の、原則従って歩む人は、だんだんと残存している罪の性質を持っている古い人の肉の勢力が弱まり、神の聖なる性質に満ちたキリストにある新しい人の勢力が強くなっていき、その人格が栄光から栄光へキリストのような人格を持つ人に霊なる主の働きによって変えられていくのです。それは、難行苦行によって得られるものではないのです。あくまでも主なる霊の働きによるのです、それを神学的には「漸進的聖化」と呼ばれています。
「Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
もし、私たちが何か罪を犯し良心のとがめを負った時には、すぐに悔い改め罪を神さまにその罪を告白しましょう。そうすれば、父なる神さまはキリストの十字架の血の故にその罪をすぐに赦し、良心の呵責から解放し、再び優しき愛の御顔を向けて下さって、喜んで交わって下さり、聖霊で満たして下さるのです。
「Ⅰヨハ1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
神さまとの交わりを中断させるのが、神と人の前に良心的に責められるような意識的に犯す罪です。その時に聖霊の働きはストップし、御霊の実を心に結びながら生きる事が出来なくなり、聖化の恵みが中断してしまいます。ですから、いち早く罪を悔い改めて罪を告白し、罪の赦しを得て、神さまとの生きた交わりを回復して、それを保持しましょう。それはあなたの選択にかかっているのです。
あなたも、キリストを信じて御霊の実である「ガラ5:22~23愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」で心が満たされて歩む幸いな人となられますようにお祈りしています。