「何をしても皆栄える人生を目指して」
聖書:詩篇1篇1節~6節
牧師:佐藤勝徳

1、幸いない人とは

 詩篇第1篇は神さまから幸いな人と呼ばれる人はどのような人なのか歌っています。

幸いな人はどのような人なのか、その消極面は、「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった」人です。つまり、貪欲にとらわれず、聖なる神さまが忌み嫌われる罪や悪を徹底して退け、罪や悪を喜ぶ罪びとや悪人との交わりを徹底して退ける人が幸いな人だというのです。

次に積極面ですが、第1に、主の教えを喜んでいる人です。つまり、創造主の神さまがモーセを通して613もある律法をイスラエルの人々に与えられましたが、その律法を全て愛し喜んでいる人は幸いない人だと詩篇の作者は教えています。イエス様は裾に房の付いた服を着ておられました。それは、民数記15章37節~38節の教えに基づいた衣服規定の習慣によるものでした。房の付いた衣服を着用する目的は613の全ての律法を忘れず守るためだと教えられています。「民15:37 【主】はモーセに告げて仰せられた。 15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。 15:39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである」。  神さまの全ての律法は、イスラエルの人々を神さまが祝福する事を願って与えられた最高最善の喜ばしき律法ですので、その真理に基づいて詩篇の作者は、613の律法の全ての教えを喜ぶ人は幸いな人だと教えました。第2に、主の教えを喜び愛するだけでなく、それを絶えず昼も夜も口ずさむ人は幸いだと教えました。「口ずさむ」為には暗記をしなければなりませんので、613の全ての律法を暗記して日々それを口ずさみながら生活している人は幸いない人だと教えました。以上のような幸いな人は、「水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」と約束しています。イスラエルのような雨季と乾季がはっきりしていますので、乾季でも果樹の木の葉が枯れず、実を結ぶにはその木が水分を十分吸収する為に人工の水路が造られていたのだろうと言われています。詩篇の作者はその水路の傍にある木を例えに、幸いな人は何をしても栄えると教えました。

2、幸いな人とはキリストである

では、「なすことがみな栄える幸いな人」という人生を歩んだ人は誰でしょう。それは人類史上一人しかいません。それは私達罪びとの、罪の赦しと永遠の救いの為に、人となられた神の御子イエス・キリストです。キリストは、その生涯において罪と悪を完全に退け、何一つ悪と妥協することなく、そのなすことがみな栄える完全な人生を歩まれたのです。イエス・キリストに優って幸いな人は誰もいません。キリストは地上のご生涯においてその衣の四隅に房をお付けになり、その房を見るたびに、モーセ律法613を思い起こし、守る決心を新たにされていたのです。又、キリストはモーセ律法613を全て暗記し、それを「日々口ずさみながら」生活をされていたのです。キリストは、吹けば飛ぶようなもみ殻のような罪びとの私たちの全ての罪が赦される為に、幼い時から父なる神さまとの生きた交わりの中にとどまりモーセ律法を習得し、詩篇を歌い口ずさみ、預言者の書を熟読され、全ての父なる神の命令に従って歩まれたのです。そして、旧約聖書の預言通りに十字架で私達の全ての罪を背負って死なれ、葬られ、三日目に甦られました。その、キリストを信じる者は、この地上でキリストのような人格に少しずつ変えられながら。やがて、キリストのように徹底して罪を憎み退け、悪とは決して妥協する事がない完全な人にされる事が約束されています。

3、キリスト者はキリストにより幸いな人となる約束を受けた

詩篇第1篇の1節~3節は、キリストの事を預言していますが、同時に、キリストを信じる者が罪赦されて、メシヤ的王国ではキリストのような完全な人としてキリストにお仕えし、世界の祝福の為に、何をしても栄える人となる事をも教えているのです。キリストが、もうすぐに空中に再臨された時、キリストを信じて罪赦され、霊の中に聖霊を賜っているキリスト者は、霊も魂も体も完全にされると約束されています。「Ⅰテサ5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます」。キリスト者はその完全な霊と魂と体で一時天に導かれますが、やがて、キリストが地上に再臨されて、この世界をイスラエルを中心としたメシヤ的王国を実現される時、そのキリスト者もキリストと共に地上に来臨して、何をしても栄える人としてそのメシヤ的王国でキリストにお仕えするのです。

4、幸いない人であるキリストによるメシヤ的王国の到来

詩篇1篇1節は「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず」と訳されていますが、実はヘブル語原語では「幸いな事よ」の後に、「その人」を意味する定冠詞付きの「ハイシュ」が続いています。定冠詞付きのその人とは特別な人意味しています。それは、メシヤであるイエス・キリストです。詩篇1篇と2篇は別々のようですが、実は一続きの詩篇です。その詩篇第1篇の定冠詞付きの特別な人が、詩篇第2篇で、メシヤ的王国の王の王となられる神の御子であるイエス・キリストだと教えられています。

やがて現在の世界は、イスラエルと世界の不信仰に対して、創造主の厳しい怒りによる裁きが下り、人類の4分の3が死滅し、4分の3の自然が破壊される恐ろしい災害に見舞われます。その神の怒りの日を聖書は「主の日」と繰り返し読んでいます。神学的には「7年の大艱難時代」と呼ばれていま。その「7年の大艱難時代」の後、キリストが地上に再臨されて、世界をイスラエルを中心とした戦争が一切ない平和な世界、エデンの園が回復したような素晴らしい自然界にされます。そのメシヤ的王国においてキリスト者は「何をしてもみな栄える者」として、キリストと多くの住民にお仕えします。メシヤ的王国では、多くの人はキリストを信じる者ですが、不信仰な人や弱い人や罪を犯したりする人も多く存在しています。そのよう人の救いと必要の為に、又、他の全ての人の必要の為にも、何をしてもみな栄える人にされたキリスト者が僕のようになって仕えるのです。それを希望とするキリスト者にはこの地上においても、不完全なものであっても、何をしても栄える人となる可能性が与えられているのです。それは、何をしても皆栄えたキリストがそのキリスト者の霊の中に共におられるからです。キリスト者が何事もそのお方の導きの御声に聞き従って事をする時に「何をしても皆栄える」という祝福を体験するのです。キリスト者の霊の中には霊的水路であるキリストがおられるのです。そのお方との生きた交わりを通して、水で象徴される聖霊の力に与り、水路の傍に植えられた木の如くに、時が来ると実を結び葉も枯れない、何をしても栄える人となるのです。

5、なすこと皆栄える人生を目指している現代のキリスト者

広島県廿日市市吉和に「吉和インマヌエル宣教センター」というキリスト教の社団法人があります。そのセンターの責任者は株式会社ホサナ建設の社長「飯塚隆二さん」です。クリスチャンの飯塚さんは建設の仕事を通して、キリストにお仕えになっていますが、その社訓は「一人でもキリストを信じる人を増やす事」とされています。絶望の淵に立たされたある時、神さまの不思議な「海が割れた」という奇跡の助けを受け苦難を乗り込えてこられました。飯塚隆二さんも、キリストによって「何をしても栄える人生」を目指しておられるキリスト者の一人です。あなたも、キリストをご自分の救い主として信じるならば、キリストの愛とお力により「何をしても皆栄える人生」を目指す人に変えられるのです。お祈りしています。