「あなたは神さまの愛の作品です」
聖書:エペソ2:10~22
牧師:佐藤勝徳
1、映画の主人公のように
神さまはどうして人間に文学作品を「映画」で上映する事をお許しになっているのでしょうか。それは、私達一人一人が、神さまの愛の作品として映画の主人公のように生きてほしいからです。映画の監督は人間ですが、人生という舞台の映画の監督は父なる神さまであり、又、主イエス様でもあります。神さまは、一人ひとりを映画の主人公のように思って生かされています。映画監督の北野武さんが「人の数だけ世界はあるんだ」と語っていましたが、映画監督の大変重みのある言葉です。つまり、一人一人が映画の主人公のように、与えられた一人ひとりの世界の主人公として神さまは生かされているのです。常に、私達は自分は神さまの愛の作品として、一人ひとりの世界において主人公にされているという事を深く自覚して、日々の生活を主人公として生きるのです。この場合は演じるのでなく、聖霊によって生きるのです。
2、人は全て神さま愛の作品です
人間が神さまの愛の作品という時には、聖書は二つの意味で語っています。第1に、全てのがそれぞれが神さまの愛の設計により、個性豊かに創造主の尊い形に似せて母の胎内で創造主の御手によって創造されたという事です。人は猿のような動物から意味も目的もない偶然の蓄積で進化して誕生したのでなく、愛と正義と知恵と力に満ちた創造主の神さまの愛の作品として、神の形に似せて創造され、目的と意義のある人として誕生したのです。創造主の形に人が似せて創造されたというのは、①人間の肉体が神の形に似せて創造された事です。②人の霊が神の形に似せて創造された事です。③肉体と霊の関係は、鞘とそれに納める刀の関係で表現できます。④肉体と霊が神の形に似せて創造された人間は、神のいのちよって神さまと隣人と愛の関係をもって生きる事を願って創造されたのです。
3、罪に堕落した人間
しかし人類は、始祖アダムの罪の堕落により、罪の根源である貪欲の傾向性という罪の性質を遺伝的に受け継いで誕生しています。神さまはその罪の性質を残したまま一人ひとりを母の胎内で創造されているのです。それは、一人ひとりを、救い主であるイエス・キリスを信じる信仰へ導き、キリストの十字架の死による罪の赦しの福音によって全ての罪を赦し、又、神の聖なる永遠の命を与え、罪を犯さない神の性質をその人に造りこみ再創造する為でした。キリストは、弟子達に罪の赦しの福音を世界に向かって宣教する命令を与えらましたが、その時に、全ての人が神さまに造られている事を教えておられます。「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)
4、キリストの福音の力
イエス・キリストの福音は、イエス・キリストを救い主と信じる全ての人の罪を赦し、永遠の義人とする力だけでなく、信じる全ての人に神の聖なる永遠の命を与え、罪を犯さない神の聖なる性質をその人に造りこむ力があるのです。罪の性質をもって誕生している全ての人は、罪の生産工場のように、思いにおいて人を妬んだり、恨んだり、憎んだり、自分を誇って人を見下げたりする邪悪な思いを日々抱きます。又、しばしば、言葉において人を傷つける暴言を吐いたり、更に偽りを語ったりします。行いにおいても物を盗んだり人を殺したり姦淫したり、多くの道徳の罪や性的な罪を犯したりします。キリストはその全ての罪を背負って、十字架で身代わりの刑罰を受け、信じる全ての人に赦しの恵みを与えてこられました。しかし、神さまは、人が罪が赦されるだけでは満足されません。神さまは、人が罪を犯さないようになってほしいのです。その為に、神さまはイエス・キリストを信じる全ての人に神さまの罪を犯さない聖なる永遠の命を与え、同時に愛と正義の神の聖なる性質を造りこまれました。神さまから永遠の命を与えられ、罪を犯さない愛と正義の聖なる神の性質を造りこまれた全てのキリスト者は、キリストにあって再創造された「神さまのの愛の作品」だとパウロは教えています。
5、愛の作品とされたキリスト者の生きる目的
神の聖なる永遠の命を与えられ、神の聖なる性質を造りこまれて再創造されたキリスト者の生きる目的は、神のみ心に叶った「良い行い」を日々実践するためです。パウロが次のように教えています。「エペソ2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と。では良い行いとは何でしょうか。①道徳的に、法的に良い行いに励む事。②キリストのように神さまと人を愛して生きる事。③聖霊の導きに従う事。以上の、三つの善行を聖霊によって実践できるように、キリストは罪に堕落した人の中にある「隔ての壁」を十字架で取り去りました。
5、隔ての壁とは
パウロは愛の交わりを失わせる「敵意」を「隔ての壁」に例えました。昔、パウロの時代に「ヘロデの神殿」と呼ばれる絢爛豪華なエルサレム神殿が存在していました。その神殿の外庭には異邦人の入る事が許されている「異邦人の庭」と呼ばれる庭がありました。しかし、異邦人は決して神殿の内庭に入れないように壁が設けられ、異邦人が神殿の内庭に入れば「死をもって償わなければならない」という札が掲げられていました。ユダヤ人は、自分たちは神さまからモーセ律法を与えられた「律法の民」「選民」だと誇り、律法が与えられた目的を誤解して異邦人を見下げていたのです。つまり異邦人との愛の交わりを遮断する「敵意」という「隔ての壁」を心に持つようになったのです。異邦人もまた、見下された事に対して怒りを持ち、ユダヤ人を憎むという「隔ての壁」を心に持つようになりました。その根本的原因は「誇り」でした。それは人からの賞賛を求める「貪欲の塊」である間違った自尊心です。この間違った自尊心の貪欲の塊である「誇り」は、ユダヤ人と異邦人との関係だけでなく、あらゆる人間関係に「愛の交わり」を失わせ、遮断させている「隔ての壁」となっているのです。
6、全ての敵意(誇り)を取り去ったキリストの十字架
しかし、キリストは、ユダヤ人と異邦人との間に、又、あらゆる人との間に存在する「敵意」という「隔ての壁」を取り除かれました。人間の罪が聖なる神さまによって赦されるのは、ユダヤ人の誇る律法の行いによらず、又、異邦人が誇る道徳的善行や難行苦行や人間の人格的良さによらず、キリストが十字架で罪の赦しの為に流された罪なき尊い血のみによるという真理によて取り除かれました。又、イエス・キリストは人類最後の代表者である最後のアダムとなり、自分を誇り、人からの賞賛を貪欲的に求める罪の性質を持った「古い人」である全人類と一体となり、ご自身が十字架で死なれた時に、古い人である全人類も共に死なしめ、同時に「邪悪な誇り」である「敵意」をも取り除かれました。
7、キリストにあって一人の新しい人が造られた
イエス・キリストは2000年昔に、十字架でユダヤ人を含め全人類の敵意を全て取り除かれました。その結果、キリストを信じるユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者は「一人の新しい人」に造られたのです。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者は「一人の新しい人」として、キリストが十字架で敵意という「隔ての壁」を取り除かれたその事実に立って、身も心も一つにされた者として、共同共助の精神で、神の備えられた善行に、聖霊のお力で実践するのです。
8、善行は共同体で実践する
イエス・キリストを信じたキリスト者は、神の罪を犯さない愛と正義の聖なる性質に与った「神の愛の作品」として、聖霊の導きと助けにより日々神さまが備えられた「善行」に励みつつ、同時にユダヤ人キリスト者と「一人の新しい人」とされた事実に立って、ユダヤ人キリスト者の祝福を祈りつつ、ユダヤ人キリスト者と共同共助の精神に立って善行に励む事が求められています。ユダヤ人キリスト者と「一人の新しい人」にされた全ての異邦人キリスト者は、同時に共に、キリストの御体なる教会の一器官となり、共に天に国籍を持つ天の市民となり、共に神の家族となり、共に非常に近い存在にされました。キリストは十字架の死を通して、ユダヤ人と異邦人との間、又、全世界の人々の間の平和となられたのです。
9、聖霊によって実際に愛の交わりに生きる
イエス・キリストの字架の血のみよって罪が赦され、聖なる神さまに近づく事が出来るという事実と、キリストの十字架の死によって神さまと人の間、ユダヤ人と異邦人との間、全ての人との間に存在する「隔ての壁」である「敵意」が取り除かれた事を信じ安んじて神に近づく時、そのキリスト者に聖霊が働き、聖霊によって天におられる父なる神さまとの生きた愛の交わりの喜びが実際に与えられます。また、ユダヤ人との交わり、全ての人との交わりに聖霊が働き、聖霊によって愛の心が生み出され、神さまが備えられた善行に実際に励む事が出来るのです。
あなたもキリストを信じて、神さまによって再創造されて「神さまの愛の作品」となり、ご自分に与えられた世界の唯一の主人公として「善行」に励む人となられますようにお祈りしています。