「神の聖霊を悲しませてはいけない」
エペソ4章17節~32節
牧師:佐藤勝徳

1、聖霊は人格神である

エペソ4章17節~32節においてパウロは「神の聖霊を悲しませてはいけない」事を、厳粛な気持ちで言明をしています。 「神の聖霊を悲しませてはいけません」という教えにより、パウロが聖霊を単なる力とかエネルギーとか非人格的な存在ではなく、知情意のある人格神であること教えています。父なる神さまがキリストを信じた全てのキリスト者の霊の中に内住させておられる聖霊は悲しむという感情をお持ちの人格神なのです。聖霊の人格神について、イエス様もヨハネによる福音書で「もう一人の助け主」とか「その方」とよび、又、聖霊は真理を「教える」とか「思い起こさせる」という働きをなさる「真理の御霊」だと教えて明確にされています。旧約聖書では、聖霊は御子である神さまが父なる神さま設計に基づいてお造りになった天地万物を総仕上げされた全能の神さまとして啓示されています(創世記1:2、詩篇33:6)。その他に聖書は、聖霊の普遍性(詩139:7)、全知性(Ⅰコリ2:10、11)、いのちの神(ロマ8:2)、永遠性(へブル9:14)を教え、聖霊は間違いなく人格のある神さまだと教えています。更にそのお方が父なる神、子なる神と共に三位一体の神の一位格の神だと教えています。(マタ28:19、Ⅱコリント13:13)。三位一体の「位」は位格の「位」で、神さまの人格性を強調しています。三位一体の神は父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さまとして別々の人格で独立していながら、同時に一体であるという在り方をされているのです。

2、聖霊の働き

聖霊の働きは、電気の働きと比較できます。電気の電が雨冠ですが。聖霊の霊も雨冠です。雨は神様からの恵みの賜物です。そのように聖霊は、父なる神さまと御子なる神さまであるキリストから恵みとしてキリストを信じる全ての人の霊の中に恵みによって遣わされ、永遠に内住されているのです。電気は物理的なものですが、その働きは「熱」と「光」と動力」をもたらします。そのように、聖霊の働きは人格的なものとして人の心の中に「熱」と言う意欲と愛、「光」という平安と喜び、「動力」という霊的力をキリスト者にもたらします。聖霊に満たされた人の特徴は「熱」と「光」と「力」です。

3、聖霊を悲しませる原因と結果

聖霊を悲しませるとその働きが消え失せます。パウロはⅠテサロニケ5章19節で「御霊を消すな」と教えましたが、御霊の働きがキリスト者の内で消えるのは、キリスト者が「聖霊を悲しませるような生活」を送っている事にあります。聖霊を悲しませるような生活をキリスト者が送ると聖霊の働きが消えてそのキリスト者は「御霊の一致を保つ」事が出来なくなるのです。そこで、パウロは、聖霊を悲しませるのは何か、厳かに、厳粛に主にあってその具体的な問題を取り上げていきます。第1に「異邦人のように空しく歩むな」という事です。パウロは不信仰な異邦人の一般的な特徴は偶像礼拝者になっている事を教えています。偶像礼拝の根源は唯一の創造主の神さまを否定し、自分の貪欲実現の為に偶像を拝むという、神ならぬものを礼拝しています。聖書で、最も空しいことは人間の手で石や木や金属などで造った偶像を人間が神として拝む偶像礼拝、或いは、自然にある石や大きな木や、動物や人間など、神でないものを神として拝む偶像礼拝です。偶像礼拝と貪欲は切り離せないので、貪欲は偶像礼拝に等しいと聖書は教えています。偶像崇拝の結果、人々の「知性は暗い者」となり、天地万物を愛と知恵とお力をもって創造されたお方の事が悟れません。又、「無知な者」となって何が真理なのかか、何が本当の善なのか知る事が出来ないのです。更に、その人たちの心は「頑固」になっています。偶像崇拝者は貪欲に囚われていますので、それを正すように警告する声を聴こうとしない頑固な心を持つようになっています。暗闇、無知、頑固が偶像崇拝者になっている多くの不信仰な異邦人の特徴です。その結果、神の聖なる命から遠く離れたものとなっています。神の命は聖なる命、罪や悪を忌み嫌う正義の命、敵をも愛し祝福する命ですが、偶像崇拝者の異邦人はそうした聖なる神の命に近づく事はできません。つまり、聖なる神さまとの生きた交わりが出来ないのです。偶像崇拝者でありながらどれだけ難行苦行して精神を鍛錬しても神の聖なる命には届きません。神の聖なる命からは遠く離れたままです。神の聖なる命から離れている結果、どうなっているのでしょうか。パウロは「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」と教えています。もし、キリスト者が、偶像崇拝者の異邦人のように、貪欲に囚われて、道徳的に性的に退廃した生活を送っているとすればどうでしょうか。そのキリスト者の霊の中に内住されいてる聖霊は悲しまれないでしょうか。そのキリスト者に聖霊の働きは当然消えます。もし、キリスト者が、キリストの十字架の血による罪の赦しに預かり、キリストとの生きた交わりを持っていれば、キリストは必ず、聖霊によってその事を警告をされ、そのような生活から離れるように教えています。

4、神の前に真理と呼ばれる正しい生き方

神の前に真理と呼ばれる正しい生き方は、先ず「古い人」を脱ぎ捨てる事です。古い人と言うのは、偶像を求める生まれながら貪欲の傾向性という罪の性質をもって生まれた生まれながらの人間の事です。生まれながらの古い人は貪欲にだまされて自分を不幸に多いやるのです。それをパウロは「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人」と呼んでいます。キリストは聖霊によって、いつもその古い人を脱ぎ捨てるように教えられるのです。キリスト者の内に残存している古い人はキリストと共に2000年昔に死んで葬られ過ぎ去っているという、その救いの事実に立って、古い人を貪欲から湧き上がって来る様々な邪悪な妬みや、恨みや、好色や、姦淫の情と共に強く否定し、それらはキリストの十字架の死と葬りに委ねて安んじる事です。それが、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべき事」なのです。同時に、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る事」です。キリストはキリスト者に二つの新しさをもたらしています。先ず、心の霊において新しくされたという新しさです。このことは、心の奥深くにある人の霊は、キリストを信じる前は霊的に死んでおり、霊なる神さまに直接触れる機能を失っていました。しかし、キリスとを信じて罪の赦しに預かった結果、死んだ霊は生きかえり、霊である神さまに直接触れていただく機能を回復しました。それが、心の霊が新しくなったいう意味です。同時に、キリスト者はキリストを信じた時に、神の聖なる性質が心に植え付けられました。それは、古い人がキリストと共に死んだ後、キリスト共に甦って神の聖なる性質に満ちた新しい人にして下さったという真理に基づいてなされた神の業です。心に神の聖なる性質を造りこまれているキリスト者の事をパウロは「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人」と呼んでいるのです。 キリスト者は、自分の中の古い人に気づけば、キリストとの十字架の共同の死に基づいて脱ぎ、キリストとの共同の復活により神の聖なる性質に満ち満ちた新しい人になているという事実と神の聖なる性質が心に受け付けられ神にかたどって造らた新しい人になっているという事実に立って、新しい人として愛に生きる赦しに生きる決断をする事です。そうすると聖霊が働き新しい人を着させ、キリストにある新しい人して生かして下さるのです。

5、古き人に生きるか、新しき人として生きるかの信仰の戦い

古き人に生きるか、新しき人として生きるかという戦いは古い人がかを出す度ごとにることが求められています。キリストが空中に再臨され、完全な霊魂にされるまで、その信仰の戦いは続くのです。 その戦いをやめると、キリスト者は御霊を悲しませる、多くの罪を犯すようになるのです。御霊が喜ぶ偽りを捨てて、真実を互いに語るという事が出来なくなり、お互いに徳を高め建徳的な言葉を語る事が出来なくなるのです。キリスト者はキリストの体の一器官として、他者のキリスト者の祝福と幸いの為に存在しているにもかかわらず、それが出来ない罪に陥ってしまうので、パウロはキリスト者の事を「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」と教えています。人間の体の各器官は他の器官が十分に機能する為に存在しています。肺は、他の器官が十分に機能する為に存在しています。もし肺が機能しなければ、他の器官もすべて十分に機能しなくなります。人間の体の各器官が他の器官が十分に機能するように存在しているように、キリスト者一人ひとりは、キリストの御体なる教会の一器官として、他のキリスト者が十分にキリストの栄光の為に働けるようにお互いの為に存在しているのです。その事をパウロは「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです」と教えました。そうした在り方をさせないのが、聖霊を悲しませる罪です。

6、聖霊を悲しませる罪

①異邦人のように空しい心で生きる事。②怒りの感情に任せての言動。 ③喧嘩後、速やかに和解せずに日が暮れるまで憤ったまま過ごす事。 ④人間関係を破壊しようとする悪魔に機会を与える事。⑤盗みの罪。⑥無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどの一切の悪意。

7、聖霊が喜ばれる善

①古き人を脱ぎ捨て、新しき人を着る事。②困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働く事。③お互いに親切にする事。④お互いに優しい人になる事。⑤お互いにキリストが赦して下さったように、互いに赦し合う事。聖霊がが悲しまれるという事は、その逆である「喜ぶ」と言う感情をも持たれる事を意味しています。

聖霊は、キリストと同様に小さな善をも大変深く感動をもって喜ばれるお方です。キリストは水一杯を差し出す善意には報いがあると教えられました。「マタ 10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

キリスト者がお互いに「神の聖霊を悲しませる」悪と罪を退け、「神の聖霊を喜ばせる」善に勤しむときに、キリストの御体なる教会の一致が保たれて、神の偉大な力によって強くされ、愛に燃えて、平安と喜びに満たされながら日本と世界の人々に多くの祝福をもたらす使命を全うする事が出来るのです。

あなたもキリストを信じて父なる神さまと御子なる神さまのキリストから、あなたの霊の中に偉大な神である聖霊を遣わしていただき、聖霊の偉大な力と愛といのちによって生かされる幸いを手にされますようにお祈りしています。