2023年8月20日礼拝メッセージ要約
「光の子どもらしく」
聖書:エペソ5章1節~10節
牧師:佐藤勝徳
1、光の子どもらしく
パウロは、キリスト者が召しにふさわしく「御霊の一致」を保って歩む為には「光の子どもらしく歩みなさい」と教えています(エペソ5:8)。人間は全て貪欲の傾向性を親から遺伝的に受け継いでいます。それ故に、人は自然と貪欲になり、道徳的、性的に多くの罪を自然と犯しています。そのような人間をパウロは「暗闇の者」だと教えています。しかし全人類の罪の赦しの為に、十字架で身代わりの刑罰をお受けになったキリストを、自分の救い主だと心から同意し認めた人は、「暗闇」から解放され「光の子ども」となります。光の子どもというのは、太陽の光にた照らされて輝く月のようではなく、太陽のように自分で光を放つものとなる事を意味しています。それはちょうど神さま性質を持つ事です。神さまの性質は愛と正義に満ちた聖なる性質で一点の悪や罪という「暗闇はありません。キリスト者は、キリストを自分の救い主として心から信じた時に、全ての罪が赦されるだけでなく、光である神の聖なる性質が心に造りこまれます。それ故にキリスト者は「光の子ども」なのです。もちろん、貪欲の傾向性を持つ「古い人」も心に残存しています、それは、キリストが2000年昔に十字架で死んだときにキリストと共に死に過ぎ去ったものです。その霊的事実に立って、キリスト者は「光の子ども」として歩む事が必要です。では「光の子ども」として歩むというのは実際にどのように歩む事でしょうか。それは「世の光」であるキリストの生涯を模範とする事です
2、キリスの生涯を模範とする
パウロは、キリストの愛の生涯は、父なる神さまへの芳ばしい良き香りの生涯であったと、モーセ律法の祭儀の中で献げられる「全焼の献げ物」に因んで教えています。それは、「全焼の献げ物」は、霊的には神さまに全生涯をお献げする「献身の生涯」を意味しているからです。キリストの愛の御生涯は、父なる神さまに全てをお献げする献身のご生涯で、十字架の死に至るまで徹底して従順を貫かれたご生涯でした。そのキリストの献身のご生涯は父なる神に喜ばれましたので、パウロは「父なる神への芳しい良き香り」であったと教えています。
①人類の罪を負って身代わりの刑罰をお受けになったご生涯
キリストの献身のご生涯を要約しますと、人類の罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになたった生涯であったという事です。キリストは、十字架におかかりになる前、既に厳しい受難を負われていました。ローマの兵隊は、太い釘のような棘のある茨の冠をキリストの頭に被せました。その上に、葦で作った棒で何度も打ち続けましたのでどれほどの厳しい激痛が身体全体に走った事でしょうか。キリストは「痛い!!」と叫んで茨の冠を取り除く事ができたでしょう。しかし、それをなさらず、黙々と激痛に耐えながら、頭から血を流されました。また、顔面もゲンコツや平手で何度も打たれぼこぼこにされ見る影もない顔にされてしまいました。顔面全体からも血が流れました。背中は骨の棘のある鞭で打たれ続けザクロのようにぱっくりと割れ血が溢れ出ていました。十字架にかけられる時は両手両足が釘づけられ血が流れました。キリストの死を確認する為に、ローマ兵隊が槍で突き刺したので、水と血がわき腹から分かれて流れ出て行きました。キリストは十字架の全て激痛をじっと忍びながら耐え続けられたのは、それが、キリストが負われた人類の罪への神の裁きであったからです。キリストは人類の全ての罪を取り除くため、頭から、顔面から、両手両足から、背中から、身体全体から血を流されたのです。「血を流すことなし罪の赦しはあり得ない」と聖書は教えています。(へブル9章22節)。
②罪なきご生涯であった
キリストが、全人類の罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになる事が出来たのは、その生涯において何一つ罪を犯されなかったからです。思いにおいて、言葉において、行いにおいて一度でも罪を犯せば、キリストは人類の罪を背負う資格を失いました。キリストはそうならないように、徹底して罪を退けられたのです。
3、隣人の重荷を共に担う
キリスト者が「光の子どもらしく歩む」という事は、キリストに倣って父なる神さまに従いながら、隣人の重荷を自分の重荷として負う犠牲の道を歩むことです。キリスト者は隣人の罪を負う事はできませんが、隣人の抱えている重荷を共に担う事が出来ます。隣人の重荷を自分の重荷として共に担う人生が、愛の内に歩む事であり、光の子どもらしく歩むことです。
4、罪や悪を忌み嫌う人生
キリスト者が「光の子どもらしく歩む」という事は、キリストのように罪や悪を忌み嫌い退ける事です。道徳的な罪や性的な罪を退け、卑猥な冗談を口にしない事です。人の語る言葉は、中枢神経に直接働きますので、悪い言葉は心と身体全体を悪へといざなう力があります。口は小さな器官ですが、人生を台無しにする力があるのです。ヤコブは次のように教えています。「ヤコブ3:6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、・・」。それ故にパウロは次のように教えています「エペ 5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。 5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい」と。
5、万事に感謝を
キリスト者が「光の子どもらしく歩む」という事は、何事も口で創造主の神さまに感謝して歩むことです。創造主の父なる神さまは、いつも最善のみをされておられますので、全ての出来事の背後に父なる神さまの善意が働いているという事実に基づき、全ての事を口で感謝する事です。パウロが次のように教えています。「エペ5:6むしろ、感謝しなさい」。「エペ 5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」
6、神さまに喜ばれる事を見極める洞察力と知恵
キリスト者が「光の子どもらしく歩む」という事は、色々な問題に遭遇した時の対処として、神さまに喜ばれる事が何であるかを見極める洞察力と知恵を身に着ける事です。その洞察力により、光の結ぶ実である「善意、正義、真実」を身に着けて歩むことができるのです。その洞察力を身に着けるために、毎週の日曜日礼拝を厳守し、毎日のように聖書をキリストとお話ししながら読み、毎日、神さまに喜ばれる事は何かを求める祈りの時を持つ事です。その三つの大事な習慣を守り続ける事により、何が神さまに喜ばれる事なのか、霊的洞察力と知恵が深められていくのです。昔、イスラエルの三番目の王となったソロモンに、神さまが「何を与えようか。願いなさい」と言われた時に、ソロモンは神さまにイスラエルの国を治める為に、「知恵と知識をください」と祈りました(Ⅱ歴代1:10)。その祈りを父なる神さまは大いに喜ばれ、ソロモンに豊かな知恵と知識を与えられました。何が「神さまに喜ばれる事なのか」その洞察力と知恵を求める事は神さまが大変お喜びになる祈りです。ヤコブも次のように教えています。「ヤコ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」。
あなたも、「世の光」であるキリストを信じて「闇」から「光」へと導かれ、光の子もとして祝福された人生を歩まれますようにお祈りしています。