「賢い人のように」
聖書:エペソ5章15節~21節
牧師:佐藤勝徳
1、日本のリバイバルの鍵
「光の子どもらしく歩む」キリスト者の福音宣教には、神のみ言葉である福音の光とキリスト者の霊の中におられるキリストの光が、滅びに向かって罪の中を歩んでいる闇の人を照らし、照らされた人は自分の罪を諭され、悔い改めに導かれる可能性がある事をパウロは教えました。キリスト者が光の子どもとして「
御霊の一致を熱心に保つ」とき、多くの人が救いに導かれるリバイバルが起こる可能性があるのです。それは二つの理由によりまます。第1の理由は、全てのキリスト者は滅びに向かって歩んでいる人々を「永遠の滅び」から「永遠の救い」に導く「人間を獲る漁師」に召されているからです。キリストは弟子達に次のように約束されました。「マタ 4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。キリストは弟子たち「わたしについて来なさい」と言われましたが。キリスト者の霊に内住されているキリストの導きの御声に日々従がう事、それが「光の子どもらしく歩む事」を意味しています。キリスト者が従順という「光の子どもらしく歩む」時に、多くの人が救いに導かれるのです。2000年昔のユダヤの五旬節の時に、キリストに従った約120人の弟子達に天から「聖霊」が降り、その時の弟子のペテロの説教により、約3000人がキリストを信じて洗礼を受けるというリバイバルが起きたのです。第2の理由は、キリスト者の御霊の一致は、まだキリスを信じていない世の人々が、キリストを神から遣わされた「救い主」だと信じるようになるためだと、キリストが祈りの中で神さまに語っておられた事です。「ヨハ17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。 17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」。キリストに従うというキリスト者の御霊の一致は、日本の多くの人々を救いに導く霊的リバイバルの為の重要な鍵の一つなのです。
2、賢くない愚かな人とは
キリスト者が光の子どもらしく「御霊の一致」をもって歩み、多くの人々を救いに導くために、パウロは続けて「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」と教えています。聖書では賢くない「愚かな人」の事を「心で神(創造主)はいない」と言っている「無神論者」だと教えています。「詩 53:1 愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない」。又、預言者イザヤは、木で偶像を造って拝む者の愚かさを次のように教えています。「イザ44:19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない」と。自分で造った偶像を神として拝むほど霊的に愚かな事はないのです。聖書は目に見えない霊なる創造主の神が、見事な知恵によってご自身が創造された天地万物の被造物を通して、ご自身の存在を明らかにされていると教えています。「ロマ1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」。光の子どもとされたキリスト者は創造主の神の存在を認めない愚かな「無神論者」や愚かな「偶像崇拝者」のような自分勝手な放縦な生き方をしてはいけないのです。そのような歩みをすれば、ご自分の御家族や知事人友人の霊的リバイバルは遠ざかるばかりです。
3、賢い人のように歩みなさい
キリスト者は賢くない「愚かの人」のようでなく、「賢い人のように歩む」必要があるのです。聖書で「賢い人」というのは、神の罪に対する厳格さという正義を畏敬の念をもって恐れつつ、罪から離れ、祝福を求めて神さまの命令に従って歩む人だと教えています。伝道の書では人間の本来の正しい在り方を次のように教えています。「伝12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。12:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。。聖書が教える「賢い人」というのは、霊的に「賢い人」です。創造主の神さまの愛の優しさを信じつつも、創造主の神は罪と悪を忌み嫌われ、忍耐の末に罪を悔い改めない者には、容赦なく厳しい裁きをなさる正義のお方として「畏敬」の念をもって賛美し、神の命令に聞き従う人が賢い人です。神さまの厳しい裁きとして正義が最も深くあらわされるのは、神さまに逆らって生きてきた全ての人をお裁きになる「最後の審判」の時です(黙20:11~15)。最後の審判では、キリストを信じなかった不信仰の為に罪の赦しに預からなかった全ての人が、キリストの裁きの座に導かれます。その時、不信仰とめいめいが犯した罪に従って裁かれ、永遠に苦しまなければならない「火の池」に投じられます。その火の池は、非常に熱いですが真っ暗闇で光がありません。更に、キリストによって「食らう蛆が尽きないゲヘナ」と呼ばれました(マル 9:48)。ゲヘナに投じられた人は、猛烈な熱さと孤独と聞こえてくる多くの人の呻き声と不気味な食らう蛆虫によって、永遠に苦しみ続けるのです。そのような、永遠の苦しみからキリストは全ての人が救われる事を願って、約2000年前にエルサレムで、全ての人の罪を背負って十字架で神の刑罰を受け罪なき尊いを血を流されました。その十字架の真理を理解して、キリストを自分の救い主だと信じる信仰だけで、全ての罪が赦され、最後の審判において恐ろしい火の池に投じられることから救われるのです。一時的なこの世界で、どれほどの成功を収めたとしても、キリストを信じる事を選ばないで、永遠に苦しみ続ける道を選ぶならば、それほど愚かな選びはないでしょう。逆に、創造主の神を畏敬の念をもって罪を心から悔い改め、キリストの十字架の血による罪の赦しを求めることほど、賢い選択はないでしょう。キリスト者は既にそのような賢い選択をしたのですから、常に多くの人々が自分と同じように救われる事を願い、又、自分があらゆる点で祝福される事を願い、全ての道でキリストの御声に聞き従うという、賢い選択をする事が求めれいるのです。
4、よくよく注意をして
その賢い選択をさせまいとして、悪魔がいつも不従順と罪への誘惑の罠を仕掛けていますので、悪魔の罠に陥らないようによくよく注意をすることが必要です。パウロが次のように教えています。「賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、 5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」と。現在の世界は、悪魔が第3の天と呼ばれる鳥たちが飛んでいる天を住まいとして、地上に住むすべて人を貪欲の誘惑に駆り立って様々な罪を犯させています。それ故に現在の世界は「悪い時代」と呼ばれています。悪魔はキリストを信じているキリスト者の内に残存している「貪欲」の傾向性のある古い人に働きかけて、キリスト者を貪欲と不従順の罪へと搔き立てようとしています。ですから、キリスト者はその罠に陥らないように「注意深さ」が必要です。その注意深さというのは「あらゆる機会を十分に生かして用いる」事です。「用いる」というギリシャ語は「エクサゴラゾー」で、「贖い出す」という意味があります。毎日、毎日のあらゆる機会を神さまの祝福に与る機会として「贖い出せ」と、パウロは教えています。「贖い」の意味は「代価を払って買い戻す」事です。ではその代価とは何でしょうか。それは、いつも喜びながら万事を感謝しつつ、絶えず神さまの助けと導きを祈り求める祈りを捧げる事です。それが悪魔の罠にかからない注意深い在り方です。
5、御霊に満たされよ
また、悪魔の罠にかからない注意深かさは、放蕩の原因となる「酒」に酔う事を厳しく戒め、「御霊に満たされる」事に心を配る事です。聖書は禁酒を教えていませんが、「酒に酔う事」は放蕩の原因となるので厳しく禁じています。パウロは、肉体にほろ酔いの喜びの気分をもたらす酒と対照的に心に「霊の喜びと平安」をもたらす「御霊に満たされよ」と教えています。御霊に満たされるという事は、キリスト者の霊と一つになって内住されている御霊の働きを豊かに受ける事です。しかし、罪を犯すと、御霊の働きは消えて御霊の満たしがなくなります。その時は、すぐに犯した罪を心から悔い改め、罪の赦しに預かる事です。父なる神は罪を心から悔い改めて罪を告白する者をすぐに赦されます(Ⅰヨハネ1:9)。その時に再び父なる神はそのキリスト者に御霊を働かせ、御霊で満たして下さるのです。罪の赦しと御霊の満たしはセットで与えられる神さまの恵みです。その御霊の満たしを継続的受け続ける為には、キリスト者の内におられる魂の監督者であり牧者であるキリストの、生活の全ての事で御霊によって語っておられる細き御声に忠実に聞き従う事です。
6、礼拝を厳格に守る
更に、賢い人のように賢く生きるというのは、キリスト者が共に集まって顔と顔とを合わせて喜びの礼拝を捧げる事です。それが「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」という事です。詩というのは、旧約聖書の詩篇の事です。次に賛美ですが、讃美は神をたたえる言葉に曲を付けたものです。現代では教会で使用されている讃美歌や聖歌やゴスペル等の事です。次に霊の歌ですが、聖霊の超自然的な賜物として「霊の歌」をを与えられている人の賛美のことです。詩と賛美と霊の歌で、お互いに顔と顔とを合わせて礼拝を捧げる事が非常に重要です。その礼拝の心を持ちつつ互いに愛の交わりの中に生きる事が「互いに語り合っている事」になります。それは共に集まる事が如何に大事かという事を教えています。「5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」というパウロの教えに基づき、キリスト者が毎週日曜日に共に集まりを父なる神を礼拝する習慣を厳格に守る事です。平成6年にカネボウ薬品の社長にクリスチャンの三谷康人さんが就任されました。その三谷さんは、まだ平社員の時に日曜日の礼拝を厳守されていましたので、長い間、出生とは無縁の平社員の時が長く続きました。しかしキリスト者として厳格なありかたが仕事に反映し、やがて上司から信用を勝ち取るようになり、ついには一番トップの社長に抜擢されるようになったのです。ネットで三谷氏の事が次のように教えられていました。「『日本を愛するキリスト者の会』会長、新島学園客員教授、著書に『逆転人生』『ビジネスと人生と聖書』(いずれもいのちのことば社)がある。2013年には、『日本福音功労賞』を受賞される」。三谷氏は、聖書の教えに従い、父なる神と御子なるキリストである主なる神を日曜日ごとに捧げる礼拝を、自分のビジネスよりも大事なものとして厳格に守られました。その為に、出世とは無縁の平社員の生活が長く続きましたが、最後は逆転し、トップの社長に就任するという「逆転人生」を祝福として神さまから与えられたお方です。その体験から、三谷氏は「日曜日の礼拝を厳守する」事をいつも強く訴えてこられたのです。
あなたが、三谷康人氏のように、キリストを信じて永遠の救いに導かれ、キリストに日々従がって多くの祝福を創造主の神さまよりお受けになる賢い人生をお選びになるようにお祈りしています。