「召された者としてふさわしく歩む⑦」
聖書:エペソ5章22節~33節
牧師:佐藤勝徳
1、キリスト者の妻の夫に対するあり方
パウロは、エペソ5章22節から33節で非常に分かりやすくキリスト者同士の夫婦の在り方を説いています。その理由は、キリストの教会が「御霊の一致を熱心に保つ」為には、キリスト者のキリストにあっての正しい夫婦の在り方が欠かせないからです。キリスト者同士の夫婦が争っている姿は、教会が「御霊の一致を保つ」事に失敗する原因となります。パウロは、キリスト者の夫婦の健全な在り方を、キリストが頭であり、教会がその御体であるという「教会論」に基づいて説いています。先ず5章22節~24節でキリスト者の妻の在り方が教えられています。妻は、教会が頭なるキリストに従うように、妻の頭である夫に全ての事で従う事を優しく教えています。妻が夫に従う立場にある事を、パウロは亭主関白的な夫への隷従の意味で教えていません。その証拠に、ギリシャ語原語には日本語訳聖書に22節2回、24節に1回翻訳されている「従いなさい」「従う」というは言葉が使用されていない事です。命令形の「従いなさい」は使用されていなのです。直訳すれば「妻たちよ。あなたがたは、主のように、自分の夫に」となるのです。妻たちが夫に従う立場にある事をそれとなく悟るように優しく説いているのです。22節の妻たちへの教えは、21節のキリスト者同士が「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という命令の後に続いている教えとなっています。キリスト者の男女は先ず教会の頭である、キリストへの深い尊敬と賛美に基づく「恐れ」という「畏敬の念」を持つ事が求められています。教会の頭であるキリストは、全ての人をいつも自分より優ると尊い存在として尊ぶという謙遜のお方です。その謙遜の故に、神であるにも関わらず、全ての人の救いを願って私達と同じ小さな人間となり、人類の全ての罪を負って、身代わりの刑罰をお受け下さったのです。キリストを畏敬の念をもって恐れるという事は、キリストの愛と正義とその謙遜に対しての姿勢の事です。謙遜なキリストを喜び賛美する者として相応しい事は、キリスト者の男女が、お互いを自分より優る尊い存在として尊ぶ思いを思って、互いに仕え合う事、互いに従い合う事です。それが、全てのキリスト者に求められているとパウロは教えています。キリスト者の夫婦は先ず、お互いに謙遜になり、お互いを自分より優る尊い存在として尊びながら仕え合う事、従い合うことが強く求められています。キリスト者の男女には上下はなく。平等の関係の中にあるのです。その後に、妻に対して「妻たちよ。あなたがたは、主のように、自分の夫に」と教えています。パウロは、妻の姉妹方に強く「夫に従いなさい」と命令形を使って教えていないのです。妻への教えについては非常に優しい表現をしているのです。それは、当時の古代の亭主関白的な夫の隷従を求める暴力から女性を解放する為に、パウロはあえて「従いなさい」という強い命令形を使わずに、女性がそれとなく悟るように教えているのです。それも、「主のように」と諭しているのです。キリスト者の男女は、罪の赦しの為に、キリストが十字架で血を流して、神の所有として贖い出されたので、その存在価値ははキリストの命に匹敵する存在です。それ故に、キリスト者の妻は夫にどんなに欠点があっても、キリストのように思って愛し尊敬し「喜んで従う事、仕える事」が相応しいのです。その真理に立ってパウロは、キリスト者の妻方に「妻たちよ、主のように夫に」と優しく勧めたのです。キリスト者の妻が、夫をキリストのように深く尊敬し愛する時に、その妻に聖霊が働き、頭である夫に全ての事で喜んで聞き従う事を可能とするのです。女性を亭主関白的な夫の暴力から守る教えが、夫への正しい在り方で更に展開されていきます。
2、キリスト者の夫の妻に対するあり方
キリスト者の夫の妻に対するあり方の教えは、25節~30節迄続きます。夫への教えは、キリストを模範として「妻を愛する事」です。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」と。キリストが十字架で死なれたのは、人類の罪の赦しの為でしたが、同時に教会を生み出すためであったのです。そのキリストのように、キリスト者の夫は命がけで妻を愛しなさいと厳しくパウロは命じています。25節の「愛しなさい」というギリシャ語は、「アガパーテ」という命令形が使用されています。26節では、夫は体である妻の頭として、自分の体のように妻を「愛さなければならない」と、それが夫の妻へは愛の義務として強く教えています。28節の翻訳文の「愛さなければならない」は、ギリシャ語の負債とか負い目とか義務を意味する「オフセイルーシン」という言葉と、愛するを意味する「アガパン」とが使用されています。パウロは、キリスト者の夫には、非常に厳格に妻を、キリストのように命がけで愛する事と自分の体のように愛さなければならない事とを命じました。夫は、妻の従順を求める前に、自分がキリストのように命がけで妻の祝福と幸いを願い妻を愛しているのかどうか、厳しくチェックする必要があるのです。
3、キリストが教会を愛されている目的
キリストはご自分が命を懸けて生み出した教会をいつも愛されています。その愛の目的は、教会がキリストの花嫁なる教会として、「み言葉」と「水の洗い」によてきよめられ聖なるものとし、しみやしわやそのようなものが何一つない聖く傷の無い栄光の教会としてご自身の前に立たせるためだと、パウロは教えています。顔のしみとかしわは、人間が罪に堕落した結果です。人間の心や霊も罪に堕落した様々な悪い影響を持っています。その心や霊の堕落性を肉体の「しみとしわ」でパウロは象徴的に表現したのです。罪に堕落した心を持っているキリスト者の心をきよめるのは、キリストの「言葉と荒いの水」だとパウロは教えています。キリストにあってキリスト者は神の聖なる性質を造りこまれていますが同時古い人の性質が残っています。その古い人の性質をきよめ取り除くのは、十字架の血ではなくキリストの「言葉と荒いの水」だとパウロは教えています。この言葉というのは、ギリシャ語で「レーマ」が使用されています。言葉と訳されるギリシャ語は二つありま。、一つは「ロゴス」です。もう一つが「レーマ」です。聖書ではロゴスというのは、文字の言葉や声の言葉など言葉一般をさして使用されています。「レーマ」は、今その時に神が語られた生きた言葉を意味して使用されています。キリストの「人はパンだけで生きるものでなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのです」の「ことば」は「レーマ」が使用されています。聖書の文字の言葉は「ロゴス」です。その聖書のロゴスを、キリストが聖霊を通して今の私たちに生きた言葉として語り直して下さるのが「レーマ」です。キリストは聖霊によって、よく聖書の言葉で、現実の私たちに語りかけられる時があります。それがレーマです。又、キリストが聖霊によって日々の生活において、必要な導きの細き御声をかけて下さいます。それが「レーマ」です。そのレーマには、古き人の性質の部分を漸進的に取り除く力があありあす。。きよめられるとは何かを足す事でなく、余分なものを取り除くことを意味しているのです。レーマにはその力があるのです。また、水の洗いもその力があるのです。水の洗いを洗礼だと解釈する神学者と聖霊だと解釈する神学者がいますが、私は「聖霊の働き」を意味していると解釈するのが正しいと思っています。なぜなら、コリント書では、霊なる主が聖霊によってキリス者を「栄光から栄光へと主と同じ姿に変ええ下さる」と約束されているからです。(Ⅱコリ 3:18)。
4、聖化から栄化へ
キリストのレーマとキリストの霊である聖霊がキリスト者の内に残存する古い人の性質を漸進的に取り除き洗うと言うきよめをなさっているのです。それが、漸進的聖化の恵みです。キリストは、そのように、ご自身が十字架の死で生み出した聖なる花嫁なる教会をレーマと聖霊できよめ、しみのしわも傷もない栄光の教会にしようとされているのです。それが「栄化の恵み」です。キリストは、この地上で多くのキリスト者にご自身の姿に少しづつ変えて下さる聖化の御業をなさっておられますが、ご自身が空中に来られた時は、キリスト者の肉体も、霊魂も全てを完全にされ、空中のご自身の前にしみもしわも傷もない、栄光の教会として喜んで立つ事が出来るようにして下さるのです。それが、キリストの教会を愛されている目的です。(Ⅰテサ5:23)。キリストにある夫婦は、その事を先ず大いに喜び合いましょう。漸進的聖化の恵みと栄化の恵み預かれることを感謝しつつ、日々キリストのレーマの言葉に従う事が出来るように祈りましょう
4、夫婦が一体である事は、キリストと教会の関係を教える奥義である
夫婦の在り方の教えの中で、突然パウロは一体とされた夫婦関係は「キリストと教会の関係を表す奥義」だと教えていあす「5:31 『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』」5:32 この奥義は偉大です」と。奥義、とは旧約時代では啓示されておらず、新約時代になって初めて啓示された「神の真理」の事です。旧約時代において、夫と妻の関係が「キリストと教会の関係」を教えているという真理は誰にも知らされていませんでした。夫婦というのは身も心も一体とされた関係の中にあります。そのように、復活のキリストと教会の関係は一体の関係の中に置かれているのです。復活のキリストはご自分の身と心と一体の関係の中にある教会をどれほど深く愛されているいるでしょうか。又、教会を構成している一人ひとりのキリスト者を、ご自分の身と心と一つになっている存在としてどれほど深く愛されているでしょうか。ハレルヤ!感謝しましょう!
教会をご自身の命を代価に生み出して下さった復活のイエス・キリストは天地万物を創造された全知全能の神です。ご自身の死んだ体をご自分で甦らせる事が出来たお方です。そのお方の生きたみ言葉であるレーマは、私たちキリスト者の内に残存する古い人の罪の性質を取り除き、きよめる力があるのです。その事を信じて、日々キリストのレーマを求め、そのレーマに聞き従いましょう。
キリスト者の霊の中に永遠に内住されているキリストは、常にキリスト者の妻の姉妹方に、優しく「あなたの夫に私に喜んで仕えるように、仕えましょう」と呼びかけておられます。また、夫の兄弟方には厳しく強く「あなたの妻を私が愛したように命がけで愛しなさい。一体となっている妻を自分の体と思って愛さなければならない義務があなたにあります」と御声をかけておられます。キリスト者の夫婦がそれぞれ聖書の教えと内住のキリストの御声に忠実に従ってそれぞれの役割を果たすときに、教会の御霊の一致は保たれて、教会は多くの人々を救いに導き、多くの祝福をこの世界の人々にもたらす使命を果たすことができるのです。
あなたも、キリストを信じて、キリスト者の男女にあたえられている「お互いに仕え合う」という謙遜な在り方と、キリスト者の夫婦に求められている「夫婦の健全な在り方」を得とくされますようにお祈りしています。