「健全な主従(上下)関係の構築」
聖書:エペソ6章1節~9節
牧師:佐藤勝徳

1、古代ローマの奴隷制度

今日は、キリストを信じているキリスト者が現代の一般社会においての「主従(上下」関係」の中でどのように生きて行くべきなのか「健全な主従(上下)関係」の構築について学びたいと思います。パウロが生きていた古代のローマ社会において「奴隷制度」が存在していました。ローマが支配していた地域ではその時代の約3分の1に相当する約6000万人の奴隷が存在していたと言われます。色々な理由で多くの人が奴隷になりました。ローマに負けた国の兵隊が捕虜となり奴隷にされました。私生児が奴隷にされました。犯罪人やローマへの反逆者が奴隷にされました。多額の借金の為に返済不能者が奴隷とされました。等々。奴隷を職業別に分けると、「農場奴隷」、「一般家内奴隷」、「高度専門職奴隷(教師、会計士、医師、貴族の秘書など)」、「剣闘士奴隷」、「役人・官吏奴隷(上級官吏の貴族に下級官吏)」、「従者奴隷」、「公有奴隷(公共事業に仕える奴隷)」等に区分されていました。ラッセル・クロウ主人公の米国映画「クラディエータ」は古代ローマの剣闘士奴隷が描かれいます。又、チャールトン・ヘストン主演の映画「ベン・ハー」では、古代ローマのガレイ船の奴隷たちが描かれています。

以上の様に、古代ローマでは奴隷と言っても色々な役割を担った奴隷が存在し、全ての奴隷が過酷な労働を強いられていたわけではないのです。しかし、奴隷は奴隷であって、奴隷の人権は認めらす、多くは物として、財産として、道具として扱われたいたと言われます。信仰の自由は認められていたようですが、多くの自由は認められていなかったのです。

2、キリストの福音に心の自由を見つけた古代の奴隷たち

以上のような、古代のローマ社会にあった奴隷制度の中で、多くの奴隷の人達や奴隷の主人達にキリストの十字架の「罪の赦しの福音」とエゴからの解放という「きよめの福音」が伝えられました。そのキリストの福音を通して、キリストを信じた奴隷の人達は、一番欲しかった「心の平安と喜びと自由」を得る事ができました。その喜びにより、奴隷から奴隷、奴隷から主人、主人から奴隷、主人から主人へとキリストの福音がローマ社会全体に広がり、多くの奴隷の人たちと多くの主人たちが、キリストの福音を信じ、教会に属するようになったのです。パウロは、そのようなキリスト者となった奴隷の人達や主人達が属するエペソ教会が、召しにふさわしく「御霊の一致を熱心に保つ」為には、キリスト者の奴隷とキリスト者の主人が共に、主のみ心に叶った健全な関係を構築する必要だと教えたのです。

3、全ての人が平等である

その時代に生き奴隷キリスト者の主人への正しい在り方についての教えは、パウロがエペソ5章21節で教えている「平等の教え」を土台としています。人間は全て、創造主の愛によって創造され、平等に愛されるべき尊い存在であるという事を前提に、パウロは、主従(上下)の関係は神から役割として与えられている事を教えました。現代の家庭での夫婦の役割では、夫が主で妻が従、親子の関係では親が主で子どもが従、兄弟の関係では兄が主で弟が従、会社の職場では上司が主で部下が従、学校では先生が主で生徒は従となるでしょう。教会では、指導者が主で信徒の聖徒の兄弟姉妹が従となります。

4、キリスト者の奴隷の主人に対する正しい在り方

①キリストに従うように

奴隷キリスト者の主人に対する正しい在り方は、第1に、主人に対して「キリストにお仕えするようにお仕えする事」でした。パウロは、奴隷キリスト者がキリストに対して、最大の尊敬と愛と喜びをもって仕えているように、自分の地上の主人に仕えなさいと教えました。私たちの現代社会において、役割として従(下)の立場にあるキリスト者は、役割として主(上)の立場にある人に対しては、「キリストにお仕えするようにお仕えする」事が求められています。キリストは、私達罪びとの罪の赦しと祝福を願って、ベストを尽くして、細心の注意と最大の努力を払って、愛のご生涯を歩んで下さいました。最後には、十字架で身も心も共に地獄の苦しみを受けながら、人類の罪を取り除く為の贖罪の御業を全うして下さいました。その犠牲の愛、その命がけのベストの愛をキリストは今も私たちに注いでおられます。そのお方が、キリスト者の霊の中に主として、頭として住んで下さっているのです。そのような、純粋な愛をもって私たちを愛して下さっているキリストに対して、「最大の尊敬と愛と喜びをもってお仕えする事」がキリスト者の正しい在り方です。その、キリストにお仕えするように、従(下)の役割を担っているキリスト者は主(上)人の役割を担っている人達にお仕えする事が正しい在り方だとパウロは教えました。

②恐れおののいて真心こめて

次に「恐れおののいて真心から主人に従いなさい」とパウロは教えました。キリストは、故意の不正や悪に対して、悔い改めなければ厳格に裁きをなさるので、そのキリストの厳格さに対して畏敬の念をもって恐れおののくように、奴隷キリスト者は「恐れおののきつつ真心をもって主人い従いなさい」とパウロは教えました。今日においても、下の役割を担っているキリスト者は、上の役割を担っている人に対して「キリストに仕えるように仕える」必要があるのです。

③神のみ心を行いなさい

第3番目に、パウロは奴隷キリスト者に「心から神のみ心を行いなさい」と教えました。地上の主人がもし、奴隷キリスト者に神のみ心とは異なった罪を犯すよように、悪を行うように命じた時は、頑固として反対をして良かったのです。その時、主人から厳しい仕打ちを受けるかもしれないのですが、あくまでも、奴隷キリスト者が主人に仕えるのは、神の栄光の為ですので、神の栄光にならない事には逆らって良かったのです。現在、ある自動車修理販売の会社が様々な不正によって利益を上げていた事が発覚して、その問題が繰り返し報道されています。その会社の部下の人達は、上司からの指示が不正で間違っていると分かっていても、自分の会社での立場を守る為に、上司の命令に従って不正を繰り返してきたわけです。今日において、もし、上司が、不正を働くように仕向けた時は、その下に働くキリスト者は自分の立場が悪くなっても頑として反対をしなければなりません。それが、上司に対する正しい在り方なのです。私達は、上司にキリストのように仕えなければならないとしても、神の御心に反してまで仕えてはならないのです。下の役割を任っているキリスト者は上の人に盲従であってはならないのです。あくまでも、キリストの僕として神の御心を行う事が大事なのです。

④人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

第4番目に、パウロは奴隷キリスト者は、「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と教えました。奴隷キリスト者が、「人に仕えるのでなく」というのは、どういう事でしょうか。人というのは、神のように全知ではありません。そうした人の限界に乗じて、いい加減な仕え方をすることが「人に仕える仕え方」です。主人に分からないからと言って手抜き的な働きをする事は、古代の奴隷の間では当然のように行われていたようです。全知で、全てをご存知のキリストに仕えるように、奴隷キリスト者は裏表なく、ご主人の祝福と幸いを心から願う純粋な善意と喜びをもって仕えるようにとパウロは教えました。 今日、私たちはキリスト者は、上の人に対しては、裏表なく、上の人たちの祝福と幸いを純粋に心から願う善意と喜びをもってお仕えする事が求められています。

⑤主からの良き報いを求めて

第5番目に、パウロは奴隷キリスト者は、神のみ心に従って主人に真心を込め、善意をもって仕える時に、「主からの良き報いがある事を知っているでしょう」と、改めて、主からの良き報いを求めて働くことを教えました。「6:8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています」。

今日において、自分が仕えている上に立つ人が、一生懸命に働いても、それに相応しい良き報いを与えないかもしれないですが、キリストはそれに相応しい良き報いを必ず与えて下さるというのがパウロの教えです。キリスト者は、上に立つ人から良き報いを期待して良いいのですが、それ以上に、キリストからの良き報いを期待するようにパウロは教えました。その良き報いがどのような形で顕れるか分かりませんが、いつの日か必ず、これは、あの時一生懸命に上に立つ人に仕えた事に対するキリストの良き報いだと知る時が来るのです。キリストは決して失望をさせられません。私たちは、人からの報いを求める以上に、キリストから良き報いを期待して、上にある人にお仕えしましょう。

5,奴隷に対する主人の正しい在り方

①キリストに喜ばれるように

パウロは奴隷に対するキリスト者の主人の正しいあり方を、第1に、「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。」と教えました。奴隷キリスト者がキリストに喜ばれる事を願って主人に仕えるように、キリスト者の主人は「キリストに喜ばれる事を願って、奴隷に対して振る舞う事」をパウロは教えました。私達キリスト者は、下の役割を担っている人に対していつも「キリストに喜ばれるように、振る舞う事」が求められているのです。

②脅すことをしてはいけない

第2番目に、キリスト者の主人は奴隷の人たちを道具や動物のように思っていたずらに脅してはならないとパウロは教えました。当時の奴隷の人たちを抱えている多くの主人は、奴隷の人たちを自分の道具や財産と思っていましたから、奴隷の人たちが故意ではなく、弱さによる過失や不可抗力な事でミスをしたりして、自分の気持ちにそぐわない事をすると、すぐに厳しく鞭をあてたり、厳しく怒鳴りつけ脅す事があったようです。キリスト者の主人はそうであってはならないというのがパウロの教えでした。奴隷の人たちが故意によって犯した罪や悪を悔い改めなければ厳しく対応しても良方tのですが、そうではない事に関して、いつも鞭を厳しくあてたり、厳しく怒鳴りつけ脅す事はは良くないとパウロは教えました。今日、私達キリスト者は下の役割を担っている人に対して、決してそのような脅しをしてはいけないのです。

③差別扱いをしてはいけない

第3番目に、キリスト者の主人は奴隷の人たちを人間として差別扱いをしてはいけないパウロは教えました。奴隷の人たちも、神の形に似せて創造された尊い存在です。又、キリストを信じる奴隷の人たちの霊の中には霊なるキリストが住んでおられ、奴隷のキリスト者と一体となっておられます。奴隷キリスト者に対して行う事は、キリストに対して行う事です。キリスト者の主人は、奴隷のキリスト者をキリストのように高く尊ぶ心を持って振る舞う事が求められていたのです。当時の一般の主人は、奴隷の人たちの人権を認めず、自分の財産の一部として物のように、時には犬家畜のように扱っていましたが、キリスト者の主人は決して奴隷の人たちをそのように扱って、人間として見下すような差別をしていけないとパウロは厳しく戒めたのです。「彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」と。 奴隷キリスト者と主人キリスト者の創造主であり、救い主であるイエス・キリストが天におられて、その人が奴隷であろうが、主人であろうが、人間としての価値において違いがあるという差別をされていないのです。その事を知っているキリスト者の主人は奴隷の人たちを差別扱いしないようにとパウロは教えました。今日、私達キリスト者は下の役割を担っている人を決して「差別扱い」をしてはならないのです。

【おわりに】

教会が召しにふさわしく、御霊の一致を熱心に保つ為には、役割として神が与えておられる「上下関係」「主従関係」を一人ひとりのキリスト者が共に正しく構築する事が求められています。 その為には、キリストの十字架の「罪の赦しの福音」と古い人がキリストと共に十字架に死に、キリスト共に甦り、神の聖なる性質に与り新しい人にされいているという「きよめの福音」の中にいつも自分を置き、主との深い愛の交わりの中に生きるている事が必要となります。そうでなけれな、キリストにある「上下関係」「主従関係」を聖霊によって正しく構築する事が出来なくなるのです。

あなたが、キリストを信じて「罪の赦しの福音」と「きよめの福音」に導かれ、キリストとの深い愛の交わりの中に生かされつつ、あなたの生活の中での「上下関係」「主従関係」が聖霊によって正しく構築されますようにお祈りしています。