「神の武具/真理の帯②」
聖書:エペソ6章10節~24節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
悪魔の策略に対抗する為に、神の武具で身を固めなさいと、パウロはキリスト者に教えていますが、キリスト者が、悪魔の策略に陥っている姿は、不安、恐れ、思い煩い、いらだち、妬み、恨み、憎しみ、悪意、嘘、不法、争い、喧嘩、罵りあい、いがみ合い、悪口、陰口、貪欲、無慈悲などの罪に陥っている姿です。それ以外に、イスラエルを祝福する祈りがささげられていない状態、イスラエルを物心両面から支援をしていない状態、更に反ユダヤ主義や「置換神学」に染まっている状態は悪魔に策略に陥っている姿です。悪魔を退散させる力ある姿は御霊の実である「愛、喜び、平安、忠実、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、謙遜」に満ちた姿で生活を送っている事、従順である事、また、イスラエルの祝福、エルサレムの平和のために積極的に祈り、イスラエルを物心両面から支援している姿です。その為に、パウロは神の武具で身を固めなさいと教えているのです。先週は、その神の武具として心の腰に締める「真理の帯」を7つ学びましたが、今回は8番目として「キリストの内住/御霊の内住」について、9番目の真理の帯として「正しい教会観」学びます。パウロは「では、しっかりと立ちなさい」と励ましています。それは、「強い決心と意志をふるい立たせて!」という意味です。キリスト者は、悪魔との霊的戦いに勝ち抜いて、悪魔を退散させるには、強い意思を持って神の武具を身に着ける事が求められています。
1,8番目の真理の帯(霊なるキリストと聖霊の内住)
8番目の真理の帯、キリスト者の頭のてっぺんから足のつま先まで覆っている人の霊の中には、偉大なる霊なるキリストと聖霊が一つになって内住されているという真理です。キリストの内住についてパウロはコロサイ書で次のように教えています。「コロ 1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と。キリスト者の霊の中におられるキリストをパウロは「あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みの事です」と教えています。その内住のキリストが何故キリスト者にとって「栄光の望み」なのでしょうか。それは、十字架の犠牲の愛に満ちているキリストは、偉大な神の子であり、全知全能の万物の創造者であり、万物の所有者でり、万物の保持者でからです。(参照:コロサイ1:16~17)十字架で人類の罪を背負って身代わりの刑罰をお受けになって、人類への永遠の愛を示されたナザレのイエス・キリストは全知全能の神様だとパウロは教えています。そのような愛に満ちた全知全能の神であるお方が、信じる者の霊に永遠に内住し、あらゆる事でいつも最善の祝福に導き満たそうといつも心を燃やされているのです。その事を思うと、パウロは内住されているキリストは、キリスト者にとって「栄光の望みである」としか言いようがなかったのです。愛する兄弟姉妹、あなたにとって永遠にあなたの霊の中に住んで下さっているキリストを、日々あなたの栄光の望みとして喜びたたえておられるでしょうか。悪魔の策略に対抗して、悪魔を退散させ「御霊の実」で満たされた勝利の生活を送る秘訣は「内住のキリスト」を自分の栄光の望みとして、毎日喜び賛美する事にあるのです。その喜びと賛美に聖霊が働き、悪魔を退散させるのです。次に、聖霊の内住についてですが、霊なるキリストと聖霊は一体ですので、霊なるキリストがキリスト者のの霊に内住されている事は同時に、別の助け主である聖霊も共に内住されている事を意味しています。パウロは、聖霊がキリスト者の人の霊に内住にされている事を、キリスト者が神の子とされている事の証印であり、御国を受け継ぐことの保証だと教えています(参照エペソ 1:13 ~14)。」
キリスト者が受け継ぐ神の御国は三つあります。一つは死後において霊なるキリストと聖霊が内住されている霊が導かれる天の御国です。二つ目はこの地上に実現する「1000年のメシヤ的王国」です。三つめは黙示録21章の新天新地の神の御国です。そのキリスト者のもう一つの特権的希望は、罪に堕落した肉体が、永遠に朽ちない、永遠に罪を犯さない栄光の体に変えられる事です。。それをパウロは「(エペ1:14これは神の民の贖いのためである」と教えています。しかしここで新改訳聖書が訳出している「神の民」はギリシャ語原語にはありませんので注意が必要です。「神の民と」と訳出されているギリシャ語では「ペリポイエシス」が使用されています。その意味は「所有」です。ですから口語訳聖書では「神につける者」、新共同訳では「神のもの」と訳されています。あとでも少しお伝えしますが、聖書は、キリスト者や教会を指して「神の民」と単数形で呼んでいる箇所は一つもないのです。キリスト者や教会の事を「神の民」と単数形で呼ぶ習慣は、「契約神学」や反ユダヤ主義から生まれた「置換神学」の影響によると思われます。
内住の霊なるキリストを、パウロはⅠコリント15章で、信じる者を神との交わりの中に「生かす」お方として「生かす霊」と呼んでいます。「Ⅰコリ15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」「Ⅰコリ15:45 聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました」と。「生かす御霊」というのは、聖霊の事でなく、霊なるキリストの事を意味しています。他の訳では、「生かす霊」と翻訳されています。キリストが「生かす霊」となったという事は、キリストそのものが霊となってキリスト者の霊の中におられるという事です。パウロは霊なるキリストと聖霊とを区別して教えています。霊なるキリストが、キリスト者の内に住んで下さって、魂の監督者として牧者として日々お人お一人の生活において、神さまと共に生きる為に必要な導きの御声と助けを聖霊によって与えておられるのです。内住のキリストは、キリスト者が日々従がう事を通して、キリスト者に残存している「古い人」の影響力を段々と弱め減少させ、神の聖なる性質を段々と作り上げ拡大して、最終的にはキリストご自身のような人格者へ変えて下さるのです。その内住の霊なるキリストと内住の聖霊を堅く信じて、私たちが日々聞き従う時に、悪魔は私たちから退散せざるを得ないのです。
2、9番目の真理の帯(正しい教会観)
1)置換神学による教会観の間違い
9番目の真理の帯は「正しい教会観」です。正しい教会観を真理の帯として心の腰にしっかりと締める時、悪魔は退散するのです。しかし、今日、聖書の教えとは異なる「教会観」が日本と世界の諸教会に蔓延しているのです。それは先ず「置換神学」に基づ教会観です。AD1世紀終わり頃からAD4世紀頃のキリスト教初期の時代に、教会教父と呼ばれる教会の多くの有名な指導者たちが考えた教会観は「置換神学」でした。それは、ユダヤ人はキリストを十字架にかけて殺した罪の故に、神さまが彼らと交わされた祝福の契約を失った。その祝福の契約は新しい霊的イスラエルである教会に置き換えられたと考えたのです。それが「置換神学」です。その置換神学では教会を「新しいイスラエル」と呼んでいるのです。AD1世紀後半から4世紀の教会初期の有名な教父で置換神学者であったのは誰かについて、マービン・R・ウイルソンの著書「私たちの父アブラハム」に詳細に教えられています。そこで教えられている教父たちの名や書籍をご紹介しておきます。
2)教会初期の置換神学者達(順不同)
①アンテオケのイグナチウス②殉教者ユスチヌスと著書(ユダヤ人とトリュウホンとの対話) ③バルナバの手紙 ④オリゲネス ⑤ヒエロニムス ⑥アウグスティヌス ⑦キプリアヌスと著書「ユダヤ人対する3部作」 ⑧ヒッポリュトスと著書「ユダヤ人に対する解説的論文」 ⑨テルトゥリアヌスと著書「ユダヤ人への反論」 ⑩イレナエウス ⑪ミラノのアンブローズ司教 ⑫黄金の口と言われた名説教で有名なアンテオケのジョン・クリソストムと著書「ユダヤ人に反対する説教」
以上の反ユダヤ主義者であった教会初期の教父たちについて、マービン・R・ウイルソンは次のように批判をしています。「彼(パウロ)は、神がご自分の民(イスラエル民族)を拒絶されない、と強く主張しました。なぜなら『』神の賜物と召命は変わる事がない』」(ローマ11:29)からです。しかし異邦人は、自分達こそが旧いイスラエルに置き換わる、真のイスラエルである、と公言したのです。異邦人教会は『新しいイスラエル」として、イスラエルに与えられている地位を、霊的に彼らから取り上げたのです。このような置き換えの解釈の幾つかは・・初期教父たちの著作の中で、より一層発展した」
(「私たちの父アブラハム」P138~14)
旧約聖書でイスラエルに約束されている様々な祝福を、教会に置き換えて適用する為に、旧約聖書のみ言葉を「象徴的に、霊的に解釈する」という解釈方法が主流となり、字義通り文字通りに解釈するという、本来の正しい聖書解釈の在り方が、脇に追いやられてきました。そうした「置換神学」に基づく教会観による、聖書の「象徴的、霊的解釈」を教会に拡大させたのがオリゲネスであり、教会に根付かせたのがアウグスチヌスでした。彼らはギリシャ人でした。その彼らの、影響力は今も続いており、今年6月に30巻ほどのアウグスチヌスの著作集が完成し販売されています。わたしの書斎にある多くの聖書注解書は置換神学の影響による解釈がなされています。イスラエルという言葉は新約聖書では70回ほどです。その全部を私は調べましたが、一度も教会を指して「イスラエル」と呼んでいる箇所はありません。全て「イスラエル民族」つまり血統的なユダヤ人をさして使用されているのです。また、イスラエルの民が「神の民」と呼ばれていいるので、置換神学者を初め、その他の神学者や牧師方はキリスト者や教会を単数形で「神の民」とか「主の民」と呼んでいます。しかし、新約聖書では、単数形でキリスト者や教会を指して「神の民」とか「主の民」と呼んでいる箇所はありません。全て複数形で呼んでいるのです。それは、教会は複数の民族のキリスト者で構成されているからです。聖書が単数形で「神の民」とか「主の民」という時は全て「血統的なイスラエル民族」をさして使用しているのです。ローマ書4章とガラテヤ書3章でパウロはキリスト者を「アブラハムの霊的子孫」だと教えていますが、だからと言ってキリスト者を「霊的イスラエル」とは呼んでいないのです。
3)契約神学の恵みの契約の間違い
次に「契約神学」の教会観をお伝えしておきます。契約神学というのは要約しますと「罪びとの私たちが神さまによって罪が赦されて義とされるのは、十字架で贖罪の御業をなして下さった、イエス・キリストを信じる信仰のみによるのである。その契約は旧約時代から新約時代に至るまで一貫している契約である」という事です。契約神学の「恵みの契約」について、ウイキペディアで次のように説明されています。
「・・恵みの契約は、罪びとを救う唯一の契約であって、この契約の外に救いはない。罪人を救い得る名は、イエス・キリストを別にしては誰にも与えられていないからである。旧約時代の人々も新約時代の人々も同一の恵みの契約により、イエス・キリストの贖いのみわざに基づき救われる。イエス・キリストは旧約時代終了後に、受肉されて十字架にかかり、旧約時代の選びの民の罪も十字架で、贖われた。旧約の時代の、恵みの契約は、約束、預言、いけにえ、割礼、などの形によってなされた。それらは、イエス・キリストを指し示すもので、これらに信仰をもって応答する者を起こし、彼らをイエス・キリストに結び付けて、救いの恵みを与えるものある」と。旧約時代の人々は、やがて将来の十字架のキリストを信じて救われた。新約時代の私たちは約2000年の昔の過去の十字架のキリストを信じて救われた、というのが「契約神学」の中心的な教えです。しかし、その恵みの契約は間違っているのです。旧約時代におて、十字架のキリストを信じて救われた聖徒は一人もいません。アブラハムが「義とされた」のは、アブラハムから多くの子孫が星のように多く与えるという神の約束を信じたからだと創世記でもローマ書でも教えられています。(創世記15:5~6、ロマ4:3)。旧約時代も新約時代聖書が一貫して教えている「義認」の道は「信仰のみ」です。ただし、何を信じるかは、旧約時代と新約時代とでは信じる内容が異なるのです。
旧約時代では、その時、その時に神が示された約束を信じた時に、永遠に罪が赦され義とされたのですが、中心的な事は、天地万物を創造された創造主を信じる事と、創造主は罪を心から悔い改める者を赦されるという、創造主の罪の赦しの愛を信じる信仰によって義とされたのです。しかし、キリストの十字架の死後以後の新約時代では、十字架で全人類の罪を取り除かれたナザレのイエスをキリストだと信じる信仰のみによって「義認」の恵みに与るのです。
4)契約神学の教会観の間違い
以上の契約神学の恵みの契約の教えによると、旧約時代から、キリストの教会は存在し、旧約聖書に教会が啓示されているという事になります。それは、真理ではありません。新約聖書で「教会」「集会」と訳されているギリシャ語の「エクレシイア」はマタイによる福音書で初めて使用されています。ペテロが、イエス様に向かって「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白した時に、イエス様は次のようにお答えになりました。「マタ 16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」と。キリストは、「この岩の上に、教会を建ててきました、これからも建て続けます」と言われず、未来において「教会を建てます」と約束されたのです。キリストのそのことばから、「教会」は旧約時代に存在せず、新約になって初めて啓示され事が分かります。次にパウロは、キリストが教会の頭で、教会がその御身体であり、花嫁なる教会であるという事を、「奥義」として示されたと教えています。「エペ 5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。 5:31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」 5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」。 奥義というのは、旧約時代には一切誰にも知らされておらず、新約時代になって初めて示された神のみ心、神のご計画、神の真理の事です。それがパウロの教える奥義の定義です。(「ロマ 16:25、エペ 3:9 また、コロ 1:26 」 パウロがエペソ2章及び5章で説いている教会は、約2000年の昔、エルサレムでペンテコステの日に聖霊が弟子達にくだって初めて誕生したのです。ペンテコステは、教会の誕生日です。旧約時代に教会が誕生した事は一切聖書に啓示されていません。ですから、旧約聖書の中に教会の事を読みとろうとすると、旧約聖書の言葉を「象徴的」「霊的」に解釈するという、間違った解釈が生まれてきます。その典型的な例の一つは、ノアの箱舟を象徴的に教会として解釈し、教会が人々を救うのだと霊的適用をするようになった事です。
「大洪水によるその恐怖なる期間には、箱舟だけが、全世界でただ唯一の教会でした。・・ノアの箱舟は見ばえのしない、黒く古めかしい物でした。 しかし、それは喜び、友好、そして愛に満ちた場所でもありました。 教会の家に入りなさい! 私達と一緒に、このさげすまれ、古めかしいローカルの教会なる箱舟に入りなさい! あなた方は救われるでしょう。 そして、私達と共に幸せな暮らしを体験出来るでしょう!」(R. L.ハイマーズJr.神学博士の説教/2017年6月18日/ネットより)
契約神学では、イスラエル民族に対する神のご計画と教会に対する神のご計画の区別がなくなり、最終的には、キリストを信じたユダヤ人と異邦人で構成される教会を通してのみ、神は栄光を現されていくという結論に達するようになりました。
以上の置換神学と契約神学の間違った「教会観」をご理解いただけたでしょうか。聖書の教える正しい教会観は、教会を決して「新しいイスラエル」とか「神の民(単数形)」とは呼ばないのです。また、「教会は旧約時代から存在していた」と決して言わないのです。教会は、ペンテコステの時に初めて誕生し、教会はイスラエル民族とは区別され、教会は教会として独自のご計画を神はお持ちなのです。また、イスラエル民族には教会とは区別された独自の御計画を神はお持ちなのです。 正しい教会観を真理としてしっかりと心に刻み、心の帯として締める時に、その人はイスラエルの祝福とエルサレムの平和の為に祈り、イスラエルを霊的にも経済的物資的にも支援をするキリスト者に変えられていくのです。正しい教会観に基づいて、イスラエルを祝福するキリスト者は、悪魔の策略に打ち勝って、悪魔を退散させるのです。しっかりと立って、これまで学んできました9つの真理の帯を腰に締め、日々御霊に満たされ、御霊の実によって生きる勝利の生活を送りましょう。真理の帯にはその勝利をもたらす力があるのです。
あなたも、イエス・キリストを救い主だと信じ、9つの真理の帯を心の腰に締めて、悪魔を退散させる力ある生涯を歩まされますようにお祈りしています。