「神の武具/真理の帯⑤」
聖書:エペソ6章10節~24節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】

悪魔の策略に、キリスト者が堅く立って対抗して勝利を収める為に、前回は真理の帯として「聖書

を正しく解釈する為の原則」を五つお伝えしました。①聖書は神の霊感の書である。②聖霊の諭しを祈り求める。③主と対話しながら聖書を読む。④ユダヤ的・へブル的背景を重んじる。⑤聖書は、著者が伝えようとしている事を読み取る、の以上です。今日は、続いて6~10をお伝えします。

◆聖書を正しく解釈する為の原則

⑥聖書は字義通り文字通りに読み解釈する

聖書の言葉が象徴的に書かれているのか、寓話的に書かれているのか、例えで書かれているのか、それとも文字通

り書かれているのか、よくよく注意しながら読み、字義通りに文字通りに解釈を施さなければなりません。象徴的に書かれていたり、象徴を暗示していたりすれば「象徴的」に解釈する必要があります。また、文字通りの言葉に対して、霊的解釈だとして象徴的解釈を施さないように注意が必要です。字義通り、文字通りに聖書を解釈するという解釈方法は、キリストや弟子達、そしてパウロの行っている解釈方法となっています。例えば、創世記の「ノアの大洪水」の出来事を文字通りに「歴史的事実」として解釈しながら、終末のメッセージをキリストもペテロも語っています。(マタイ24:37~39、Ⅰペテロ3:20、Ⅱペテロ2:5、3:6)。アダムの創造物語、堕落物語をも、キリストもパウロもルカも旧約聖書から文字通り字義通りに解釈して教えています。例えば、アダムが創造された歴史出来事を、ルカはキリストの系図に遡って「・・アダム、そして神にいたる」(口語訳ルカ3:38)とし、創世記の言葉を文字通りに解釈して記述しています。パウロは創世記の創造物語や堕落物語を字義通り文字通りに歴史的出来事として解釈し、自分の書簡の中で語っています。(ローマ5:12、Ⅰコリン11:8、15:22、45、Ⅱコリント11:3)。キリストは、アダムとエバの結婚の出来事が啓示されている創世記の御言葉を、字義通り文字通りに解釈されて結婚について教えておられます。(マタイ19:5)。

キリストの地上の生涯に関しての初臨の預言に関して、福音書の著者たちは、旧約聖書の預言を文字通り字義通りに解釈して旧約聖書の多くの言葉を引用しています。例えば、キリストが、アブラハムの子孫としてイスラエルのユダ部族の中のダビデの家系から誕生されるという、旧約聖書の預言が字義通り文字通りに成就した事を、マタイによる福音書は伝えています。新約聖書の著者たちは、全て、旧約聖書の言葉や出来事を引用する時、文字通り字義通りに解釈して引用をしているのです。聖書を「字義通りに文字通りに解釈する」という解釈方法は「絶対的解釈方法」として、聖書自身が教えている解釈方法です。

中世の有名な神学者で宗教改革者の一人あるでる「ジャン・カルヴァン」は、今も教会に大きな影響を与えています。最近、カルヴァンの「イザヤ書註解Ⅰ」が発行されましたが、字義通り文字通り解釈しなければならないイザヤの預言を「象徴的」に解釈しているのです。例えば、イザヤ2章1節~5節の「終わりの日に成就するメシヤ的王国」の預言を、霊的、象徴的解釈を行っています。カルヴァンはイザヤが「メシヤ的王国」の主の家の山(エルサレム/シオン)が世界で最高峰になると預言している事を、文字通り字義通りに「最高峰の山」になると解釈せず「霊的に非常に勝っている山」だと解釈しています。「預言者は今、高きシオンの山について、とてもとても壮大に告げ知らせているわけだが、それは当然である。なぜなら、神の御心にを光輝かす福音が発せられる場所こそ、シオンであるのだから。確かに実際の高さでは、他の山々の方が勝っていよう。しかし、神の御栄光は、シオンの山でこそ一番光輝く。よって、神の御栄光が現れるシオンは、当然全ての場所に秀でていなくてはならない。・・・」(同P126)

地上に再臨されたキリストが王となって世界を支配するメシヤ的王国の主の家の山「エルサレム(シオン)」はもちろん霊的に非常に優れた山になりますが、文字通り字義通りに世界で最高峰の山となるのです(イザヤ2:2、参照エゼキエル40:2)

「字義通り、文字通り」の解釈は、普通一般的な文書を理解する時の「通常の方法」による解釈です。算数の授業で「1+1は2です」と先生が教えれば、生徒はそのように「1+1は2だ」と理解します。聖書の言葉も、特別な説明や暗示がなければ、「通常の文書を理解する、通常の方法」で理解できるように書かれています。ただし、僅かですが新約聖書の著者が旧約聖書の言葉を「字義通り、文字通りに」解釈しないで「象徴的解釈」を施して引用している箇所があります。例えば、レビ記23章で教えられている過ぎ越し祭の小羊を「十字架のキリストの象徴」として、ラッパの祭りはのラッパは「教会携挙の時のラッパの象徴」として(Ⅰコリント15:52、Ⅰテサロニケ4:16)パウロは解釈して教えています。では、新約聖書で、僅かな旧約聖書の言葉が象徴的に解釈されて引用されているのだから、私たちもそのようにして良いのかというと、そうではないのです。あくまでも、新約聖書の著者たちは、聖霊の導きと管理と守りの中で、旧約聖書の言葉に対して限定的に「象徴的に解釈」するように導かれたのです。チャールズ・C・ライリーが次のように警告をしています。「しかしながら、問題の確信はこうです。私たちは聖書解釈者として、非字義的に見える旧約聖書の例外的でまれな用例を参考にして、聖書記者たちの例に倣って良いのでしょうか。もちろん、そうしたければ、それも可能でしょう。しかし、もしそうするなら、使徒的権威なしに、個人的権威で行うだけですから、十分な権威とはとても言えません。新約聖書記者たちの「旧約からの引用」は、どれも全て神の霊感に導かれていたので、正確で権威があります。しかし、もし私たちが聖書本文の明白な意味を逸脱すれば、それは不正確で、しかも、何の権威もありません。聖書記者たちの記した内容は無誤ですが、解釈者は誰もが誤りを犯す可能性があります」(ライリー著「ベーシック セオロジー」P171~172)

⑦神学者や牧師方の解釈は参考にとどめる

神学者や牧師方の聖書解釈を鵜呑みにしないように気を付けましょう。多くの神学者や牧師方が間違った「神学」や

「教理」や「科学」や「思い込み」を前提に聖書を解釈している事が良くあるので注意が必要です。わたしはこれまで出会った多くの牧師方に「ノアの箱舟に入った動物のペアは何組ですか」と尋ねてきました。私から質問を受けた全ての牧師方が「1ペア」だと答えました。それは、牧師方の「思い込み」です。聖書は、きよい動物と空の鳥は7ペアだと教えています(創7:2~3)。ノアの箱舟に入った動物のペアの数の思い込みは左程大きな問題ではありませんが、如何に多くのクリスチャンが「思い込み」で聖書を読んでいるかを教えている良き例だと思います。自分の信じる「神学」「教理」「哲学」「科学」「思い込み」で聖書を読み込み解釈しないようにする必要があります。わたしは、これまで間違いないと信じてきた多くの優秀な神学者や牧師方の聖書解釈の中には、間違いが含まれている事に最近気が付くようになりました。例えば、わたしが最も尊敬を払ってきた中国の偉大な霊的指導者「ウオッチマン・ニー」の書かれた「栄光の教会」を何度も読み、聖書的だと信じ多くの影響を受けてきました。しかし、ある時から、疑問を持つようになりました。その一つは黙示録12章で啓示されている赤い龍に追われている「女」を、「教会」を象徴していると解釈している事です。その解釈は「契約神学」による教会観に基づく解釈となっています。黙示録12章の女を「ユダヤ的、へブル的背景」に基づいて読むときに、「女」は「教会」ではなく「イスラエル」を象徴している事が分かります。黙示録を書いたのはユダヤ人のヨハネですので、ヨハネは「ユダヤ的、へブル的背景」でヨハネの黙示録を書いている事は間違いありません。又、岡山英雄牧師が書かれた終末論「小羊の王国」(いのちのことば社発行)の教えは、自分の信じる「神学」を前提に聖書を読みこんで聖書を解釈している典型的な教えだと思います。その結果間違った「教会観」、間違った「イスラエル観」、間違った「終末論」が構築されるようになりました。その問題点をこれまで9回にわたってレポートに纏めました。優秀な神学者や牧師方の聖書解釈は、時に間違っている事があるので、あくまでも参考にとどめておく必要があります。

 

⑧いくつかの翻訳の聖書を比較したりして調べ、できれば原語も調べる

 日本語に翻訳された聖書に、数は多くありませんが翻訳者が自らの神学を読み込んでの翻訳があります。例えば、ガ

ラテヤ6:16の「神のイスラエル」を置換神学的に「教会」を意味していると解釈しての翻訳と、「キリストを信じている血統的な真のイスラエル人」と解釈しての翻訳の二つに分かれます。

1)新改訳改訂第3版「「ガラ 6:16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」。

2)新改訳2017年版「ガラ6:16 この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」。

3)口語訳「ガラ6:16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように」

4)新共同訳「ガラ6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」。

5)創造主訳「この原則に従って生きる全てのクリスチャン、また創造主の教会に、創造主からの平安とあわれみがあるように」

以上のような翻訳の内、どの翻訳が正しいのか、それを検証する為には原語にまでさかのぼる必要があるのです。聖書の5%は原語を調べなければ正しい解釈はできないと言われていますので、出来れば聖書のソフトを利用して

「原語」を調べられることをお勧めします。特に、教会で指導的な立場にある人々にお勧めします。わたしは、原語と、

ガラテヤ書の全体の文脈と、新約聖書全体で「イスラエル」がどのような意味で使用されているのかを調べた結果、ガラ

テヤ書6:16の「神のイスラエル」は「教会」を意味しているのでなく、「キリストを信じている血統的な真のイスラエル」を意味していると理解できるようになりました。

⑨聖書語句大辞典(コンコルダンス)を利用する

聖書をより正しく解釈する為には、文法と直近の文脈とその書全体と、更に聖書全体を調べる必要があります。復活

の主は弟子達にご自身の受難と復活について、聖書全体から体系的に事を教えられています。主に倣って。私たちも聖書全体から体系的に聖書の教える真理を正しく知る為に有効なのが「聖書語句大辞典」(コンコルダンス)を利用する事です。私たちは聖書全体を暗記する事はほぼ不可能だと思います。その弱さを補ってくれるのが「聖書語句大辞典」です。聖書語句大辞典には、重要な聖書の言葉が詳細に引用されており、聖書を体系的に研究する為には欠かせないものです。現代では、聖書ソフトが開発され、それを「聖書語句大辞典」代わりに利用し、聖句を早く検索できます。難解な聖句や色々と見解が分かれる聖句は、聖書ソフトを利用すれば答えが見つかる事が結構あるのです。例えば創世記1章2節の「地は形がなく、何もなかった」を、どのように解釈するかによって「無間隙説」か「有間隙説」かどちらが正しいのかが見えてきます。無間隙説とは、創世記1章1節~2と3節の間には、時間的隔たり(間隙)がなく、1節は3節以降の創造物語を簡潔に述べているのであるという説です。間隙説は、1節の「天地万物の創造」と3節以降の「創造物語」は別々のもので、時間的隔たり(間隙)があったという説です。そこで、問題となるのが2節のヘブル語の「トーフ ワ ボーフ」の解釈です。無間隙説をとる神学者は「トーフ ワ ボーフ」には否定的な意味はなく、天地万物が創造される前に、何もなかったという事を強調しているに過ぎないと解釈します。それに対して「有間隙説」をとる神学者は「トーフ ワ ボーフ」には肯定的な意味はなく、堕落して悪魔となったみ使いケルブを裁く神の裁きによって荒廃した否定的な状態意味すると解釈します。どちらが、正しいのかを判断するには「トーフ ワ ボーフ」或いは「トーフ」と「ボーフ」が旧約聖書全体でどのように使用されているのか聖書語句大辞典か、語句辞典機能がついている聖書ソフトで調べる必要があるわけです。そのようにした結果、私は「トーフ ワ ボーフ」は神の裁きによって荒れた否定的な状態を意味すると解釈出来るようになりました。私は「間隙説」の立場が聖書的だと判断しています。

 

罪に堕落している人間の知性や感情や意志を絶対化しない

聖書は人間の知性、感情、意志は罪に堕落している事を教えていますので、どんなに学問を治めていても、多くの知識を持っていても、それらはすべてを相対化し、聖書の言葉の上に置かないようにする必要があります。人は自分の経験や知識によって作用する感情や理性を優先させ、自分の感情や理性にあえば聖書の教えを肯定し、合わなければ否定するという、巧妙な罠に陥って聖書を解釈している事が良くあります。その為に、多くの間違った教理が構築されてきました。自分の感情や理性に合わなくても、聖書に書いてある事は、素直に真理として受け入れる必要があります。アドベンチストが信じる「条件不滅説」という教理がその一つです。「条件不滅説」では、未信者の人々の霊魂は「永遠性(不死性)」でないので、未信者の人々が最後の審判で裁かれた後、「火の池」(ゲヘナ)に投じられても、永遠に苦しみ続けるのでなく、しばらく苦しんだ後完全に消滅する、と教えています。人の霊が永遠性(不死性)を持つのは、キリストを信じたという条件満たした人だけである。未信者の人々の霊魂が不滅であれば、火の池で永遠に苦しみ続けなければならなくなる。それは神の愛と正義に調和しないと教えています。「従って、神は新しい世界の一つの仕組みとして、地獄と呼ばれる永遠に意識のある拷問の場所に、悪と悪人をいつまでもいつまでも保ち続けることを要求される筋合いはありません」(日本アドベントキリスト教団発行「われ信ず」P17)。「永遠に悪を保持している神の悲しげな絵というのは、聖書と良識に合わない」(同P94)。

アドベントの教理の本である「われ信ず」では、ゲドニー博士が以上の「条件不滅説」が聖書的であるという事を、キリスト教初期の時代に入り込んだ「ギリシャ的思想」の二元論の問題を取り上げながら、多くの聖書の言葉を例証に論じています。しかし、「条件不滅説」が人間の優しさを聖書の言葉の上において生まれて来た間違った教理だという事は、引用された聖書の言葉を原語に遡って解釈した結果明らかになりました。私はその為のレポートを作成をしました。ゲドニー博士の「調和のとれた人間観の検証」です。

また、聖書を「神の霊感の書」として絶対化しない神学者は、人間の知性は堕落していないとして、人間の知性で聖書を正 しく解釈できると思っています。その為に、自由主義神学が生まれて来たと言われています。その問題をフランシス・A・シュエファー博士が「では、如何に生きるべきか」などの著書で論じています。「アクイナスは、人間は神に背いた、従って堕落したと考えた。しかしアクイナスは堕落(Fall)に対する見方が不完全であった。彼は、堕落は人間全体としての影響を及ぼすのではなく、部分的に影響を及ぼすと考えた。彼の見方では意志は堕落した又は罪に落ちた、しかし知性はその影響を受けなかった。このようにして、人間はそれぞれ自身の人間的知性に信頼を置くことが出来た。そしてそれは同時に、人々に聖書の教えと非キリスト教の哲学者達の教えとを自由に混合してよい、ということを意味した」(「それでは如何に生きるべきか」P50/1979年4月30日発行)。近代の西洋哲学や神学や芸術の背後にある思想はトマス・アクイナスが「神学大全」で論じた「人間の知性は堕落していない」と説いた言葉が泉となって発展したものだと、シェーファー博士は論じています。

【おわりに】

現代の世界が、聖書が預言する終末の様相を呈している事は、多くのキリスト者が認識しています。しかし、多くのキリスト者が、終末の時代に偽りの父である悪魔が、機会があれば偽りをキリスト者に教えこもうとして手下の悪霊を教会に忍び込ませようとしている事に気が付いていません。その為に、現代キリスト教会では今もユダヤ人を呪う「置換神学」と、間違った「恵みの契約」と「教会観」とを教える「契約神学」による聖書解釈が主流となっています。私たちは、悪魔の偽りの策略に対して、堅く立って対抗して悪魔を退散させるために、しんどい作業ですが、聖書が教える「聖書を正しく解釈する原則」に基づいて、聖書を正しく読み取っていく努力が求められています。

「Ⅰテモ4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ・・・」

「Ⅱテサ 2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。」