「正義の胸当て」
聖書:エペソ6章10節~24節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
悪魔は、現在のイスラエルとハマスの軍事衝突を使って、世界に「反ユダヤ主義」を拡大させる為に、悪霊共をつかって世界と教会を荒しまわっています。その超自然的な力と知恵を持つ悪魔と悪霊共との戦いに召されている私たちは、霊的な神の武具を身に着けることによって、悪魔と悪霊どもに勝利する事が出来るとパウロは教えています。これまで11の真理の帯について学んできました。その11の真理の帯を心の腰にしっかりと締めれば、悪魔は退散するのです。続けて、悪魔と悪霊どもを退散させる神の武具として今日は心の胸につける「正義の胸当て」という神の武具について学びたいと思います。
1,正義の胸当て
①ヘブル語原語が教える正義
聖書が教える正義とは何でしょうか。預言者アモスの有名な言葉ですが彼は「アモ 5:24 公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」と教えました。では、聖書が教える正義とは何かを最初に学びましょう。聖書の正義を考察する上で大事なのはヘブル語の名詞「ミシュパト」、「ツェデク」、「ツェダカ」、そして形容詞の「ヤシャル」です。「ミシュパト」は424回使用されていますが主に「公正な裁き」という意味があります。ツェデクは119回使用されていますが、国を治める王や指導者の正しい在り方を意味して使用されています。エレミヤ書23章6節で、メシヤ的王国のメシヤの名前が「正義」と呼ばれていますが、その正義は「ツェデク」が使用されています。ツァダカは159回使用されていますが、主にイスラエルの人々が霊的に道徳的に正しい在り方を意味して使用されています。アモス書5章24節の「義を絶えず谷川のように流れさせよ」の正義は「ツァダカ」が使用されています。形容詞のヤシャルは119回使用され、その意味は霊的に道徳的に正しい、まっすぐな、実直なという意味があります。
②ギリシャ語原語が教える正義
新約聖書のギリシャ語では正義或いは「正しい」と訳されている言葉の主なものは名詞「ディカイオスネー」と「アレーセイア」と「クリシス」です。名詞ディカイオスネーは92回使用され、その他に形容詞や動詞が多く使用されています。主な意味は、霊的に道徳的に正しい在り方を意味して使用されています。正義の胸当ての正義はディカイオスネーが使用されています。信仰によって義とされるの義もディカイオスネーです。アレーセイアは名詞で109か使用され、形容詞や動詞も多くされています。その意味は「真実とか真理」です。名詞のクリシスは47回使用されています。その動詞クリノーは114回使用されています。それは、公正な裁きを意味する裁判用語として使用されていいます。
2、モーセの十戒が教える正義
①霊的正義と道徳的正義
原語に続いて、私たちが、聖書の教える正義について考察する上で、最も重要なのはモーセの十戒です。モーセの十戒は、先ず神様との正しい関係を教える霊的正義を教えています。第1の、汝、わが顔の前に、われのほか何物も神とすべからず。第2の、汝、おのれの為に何の偶像を造ってはならない。第3の、汝の神、主の名をみだりに朽ちにあぐべからずの3つの戒めで教えています。第5の、汝のと母を敬えまえ、第6の、汝殺すなかれ、第7の、汝姦淫するなかれ、第8の、汝盗むなかれ、第9の、汝隣人に対して偽りの証を立つるなかれ、第10の、隣人の家を貪るなかれ、の6つの戒めによって人間と人間の関係における正しい在り方を意味する道徳的正義を教えています。モーセの十戒の第4番目の「安息日」の戒めを除いての9つの戒めは創造主が天地万物を造られてから、永遠に続く神さまの正義として、全人類に向かって教えられている偉大な戒めとなっています。正義の胸当てを心の胸につけると言うのは、モーセの十戒において示された「安息日」の戒め以外の、神さまとの正しい関係を教える第1の戒めから第3の戒め迄の霊的正義と、第5の戒めから第10までの道徳的戒めを、キリストの律法として胸に刻み、聖霊の力で実践することを意味しています。
②正義の胸当てを付ける目的は神の栄光為です
では、何故創造主の神さまは、霊的正義と道徳的正義を大事な戒めとしてモーセの十戒で示されたのでしょうか。第1の理由は、それが神の栄光だからです。詩篇19篇で「詩 19:1 天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる」と、天は神の栄光を語っていると歌っていますが、モーセの十戒に示された神の正義は神の御性質の栄光を表しているのです。それは、聖書の神さまは父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神であられるからです。三位一体の父なる神、子なる神、聖霊なる神は別々の人格を持たれている独立したお方ですが同時に一つのお方です。父と子と聖霊の間には関係が築かれていた事が分かります。つまり父と子と聖霊は常に互いに愛しあい、互いに正しい関係を持たれていたという事です。そこから、正義とは、正しい関係の中に生きる事を意味している事が分かります。三位一体の神さまが、天使を造り、天地万物を造り、人間をお造りになったのは、ご自分に満たされない何かがあって、それを満たすために創造されたのではないのです。愛されない寂しさとか、愛する事の不十分さが心にあったので、被造物によってその満たされない思いを満たすために創造されたのではないのです。父・子・聖霊の三位一体の神の関係の中で、愛される事の喜び、愛する事の喜び、互いに愛しあう事の喜びは充満していたのです。また、お互いにいつも正しい関係を保持されていたのです。その栄光を、被造物を通して顕すことを神さまは最善と判断され、その結果、天使を含め、天地万物を創造されたのです。パウロは、創造主の神さまが、天地万物を創造されたのは、何か不足があって被造物にその不足を満たす為に、仕えさせようとして創造されたのではないと使徒行伝で教えています。「使 17:25 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから」。
神さまは無から有を呼び出すことが出来る全知全能の神さまですので、物質に何か不足されて、何かを捧げるように人間に命じられる事は一切ありません。又、精神的に三位一体の神さまとして相互愛の喜びに満たされていますので、被造物から愛されないと寂しい思いを持てれる事もないのです。神さま、人間をどんな被造物からも仕えられる事を必要とされない十全のおかた、何ひとつかけがない完全なお方なのです。
私たちが、神の求められておられる正義の胸当てを付けて、正義に生きるのは、それが神の栄光の為です。それが、人間にとって最善の生き方であり、最高に喜ばしい幸福な生き方であるのです。
3、正義の胸当ての種類
①霊的正義
私たちは、まず、創造主の神を創造主の神として崇める霊的正義を胸当てとして心に刻むことが必要です。それは、何よりも私たちの霊の中に住んで下さっているキリストの愛の導きの御声に日々忠実に従う事です。聖書は不従順は偶像崇拝に等しいと教えています。不従順はキリストの律法として与えられているモーセの第1から第3の偶像崇拝を禁じる戒めを破っていると教えています。神さまに対して不従順だったイスラエルの初代の王、サウルに向かって預言者サムエルは次のように警告をしました。「Ⅰサム5:22見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」。神さまに日々聞き従う中で最も重要なことは、創造主の父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さま朝起きた時から寝るまで、絶えず喜ぶ事を忘れてはならない事です。同時に、私たちが体験する万事は創造主の最善の御業として、万事を喜び感謝する事を忘れてはならない事です。キリストの導きの細き御声に日々従がいつつ、三位一体の神さまをいつも喜ぶj事、万事をいつも喜び感謝する事が、神に栄光を帰する生き方で、それが正義の胸当てなのです。す。
②道徳的正義
次に、隣人との正しい関係の中に生きるという、道徳的正義をむねあてとして心に刻みつつ生きる事です。それは第1に父母を心から敬う事です。両親を敬うという事は、両親の存在をどんな人間に優って尊い存在として喜び、愛し、両親の良き教えには従う事です。また、両親の必要が何かを見極めて、その必要を満たすように心がける事です。第2に、人を殺さない事です。人を殺すという事は人の肉体の命を奪う事です。又、人を憎む事です。憎しみは人を心で殺している殺人になるのです。聖書は「Ⅰヨハ 3:15兄弟を憎む者は人殺しである」と教えています。人殺しである憎しみの範疇に入るのは、人を軽蔑したり侮辱したりする事です。ペテロは全ての人を尊びなさいと教えています。キリストが全ての人の罪を背負って十字架におかかりになったのは、全ての人がご自分の命に匹敵する尊い存在だと心から尊んで下さっていたからです。全ての人はキリストの聖なる命に値する尊い存在ですので、その事実を喜んで受け入れて、全ての人をキリストの如く尊びましょう。その心を持たない事は、人殺しだとヨハネは教えているのです。第3に、姦淫を犯してはならない事です。姦淫というのは、結婚をしているのに、他人の夫や妻と肉体的関係を持つことです。また、夫や妻以外の男性及び女性と肉体的関係を持つ事です。しかし、姦淫は単に間違った肉体的性関係だけの事でなく、異性に対して情欲を持つ事が姦淫だとキリストは教えておられます。「マタ 5:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。マタ 5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」。心に情欲を抱かない事が、姦淫の罪を犯していない事になります。第4に、盗まない事です。盗みというのは、他人の所有物を盗む事です。雇い主が労働者に正当な賃金を払わなかったり、間違った釣銭を店員さんから多く受け取ったときに、正直に返さなかったり、治めるべき税金を納める事が出来るのに故意に納めなかったり、裏金操作でお金を受け取ったり、わいろを受けとったり、支援すべき人に必要な支援を怠ったりするこ事も盗みの罪となるのです。多く得るのもは、ない人に分け与える為に与え、神は互いに物質的に平等になる事を御心とされているとパウロは教えています。「Ⅱコリ8:14 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。 8:15 「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。第5に、隣人に対して偽証をしてはならない事です。人間は、物質欲や金銭欲や名誉欲に囚われると、大変巧妙、大変巧妙に嘘をつくのです。貪欲になると、嘘をつきたくないと思っていても、嘘をついてしまうのです。アメリカで、嘘つき大会がありました。一番面白い嘘をついた人に賞品が贈られるのです。ある年の嘘つき大会で優勝したのは高齢の御婆さんでした。おばあさんは静かにまじめに言いました「わたしは一度も嘘をついたことがございません」と。その嘘が、大爆笑を買い優勝したというのです。私たちは、生まれてからどれだけ多くの嘘をついてきた事でしょうか。嘘つきは泥棒の始まりと教えられ戒められながらも。沢山の嘘をついてきたのではないでしょうか。第6に、貪ってはらない事です。「貪るな」という戒めは、人の内面に起きる間違った不必要な「欲」を禁じるものです。ヤコブは。全ての罪は貪りから起こっていると教えています。「ヤコブ1:15欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」と。使徒パウロは悩ませた最大の罪は内面に起こって来る間違った不必要な「欲」という貪りでした。彼は、貪りが、心にあらゆる邪悪な罪を生みだし、又、多くの罪を犯す根源だと良く知っていたのです。そこで、なんとしても、意志の力の限りを尽くして心に「貪り」の罪を犯さないように努力したのです。しかし、努力しても努力しても、断食して祈っても気が付いたら「貪り」自分の願いや意志とは関係なしに自然と心に湧いてきたので、ついに絶望の声をあげたのです。「ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。パウロは、「貪り」は、人間の意思や難行苦行などの修業では制御できないもので、人間の罪の傾向性になっている事を知ったのです。
4、正義の胸当てを心の胸につける秘訣
①人が貪りの罪を犯すカラクリとは
では、どのようにすれば、正義の胸当てを心につけることが出来るのでしょうか。その為には、人がなぜ自然にむさぼってしまうのか、その目に見えないカラクリを知っておく必要があります。第1のカラクリは、アダムが罪に堕落した時に、この世に人に「貪り」を起こさせる「罪の力」が入ってきた事です。第2のカラクリは、アダムが罪に堕落した結果、人は「貪り」を起こさせる「罪の力」に負けてしまうという「罪の性質」を遺伝的に受け継いでいる事です。この、二つのカラクリで人は誰もが自分の意志とは関係なしに自然と「貪り」の罪を犯すのです。パウロは、悩みの果てにそのカラクリを知ったのです。ですから、自分の意志の力ではどうしようもないので、絶望の叫び声をあげざるを得なかったのです。
②人が貪りの罪を犯すカラクリから解放される道
人が、貪りの罪を自然と犯すカラクリから解放される道は、キリストの十字架の死と復活にあります。キ全人類の代表者として、キリストは人類の犯す全ての罪を背負って十字架にかかり、身代わりの刑罰をお受けになって全ての罪を取り除かれました。その時、同時に、罪の力に負けて「貪り」の罪を犯す罪の性質をもって生まれた生まれながらの人間(古い人)を全て背負って死なれ、三日目に甦られました。キリストの十字架の死の中に、全人類が含まれ、キリストが死なれた時に全人類も共に死んだのです。その目に見えない歴史的事実に、心の目が聖霊によって開かれて諭して頂く必要があるのです。パウロが次のように教えています。「Ⅱコリひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」。キリスト罪の性質を持つ全人類を背負って十字架で死なれただけでなく、全人類を背負ったまま墓の中より三日目に甦られたのです。その時に、全人類は罪の力に負ける事が無い、決して「貪らない」神の聖なる性質に与ってキリストと共に甦ったのです。パウロは、その事に心の目が開かれて、既に、貪りの罪を犯さない「新しい人」にされている事に安んじれば、聖霊が働き、聖霊の力で貪りの罪を犯さずに神の御心に叶った聖なる生き方ができると悟ったのです。その喜びを次のように告白しています。「ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」。
罪を決して犯す事が無い「神の聖なる性質」に既にキリストにあって与っている者、つまり、私は「正義の胸当て」を付けて生きる者と既にされていると確信して、「正義に生きます」と決断をする事です。その信仰と決断に、聖霊が働き、聖霊の力で気づけば貪っていない「正義の胸当て」を心に付けて歩んでいる新しい自分を傍らに見るようにして生きる事が出来るのです。
あなたが、貪りの罪を犯さないキリストにあっての霊的カラクリを聖霊によって諭され、その諭しに立って正義の胸当てを付けて悪魔の策略に対抗し、勝利の日々を歩まれますようにお祈りしています。