「万物は御子の為に造られた」
聖書:コロサイ1:15~16
牧師:佐藤勝徳
「1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
1、世界の荒廃は人類の創造主への背きの罪の結果である
今年は、ウクライナにおける戦争継続に加えて、パレスチナのガザ地区のハマスとイスラエル間の激しい戦闘がおこり、世界は、大変厳しい局面に置かれています。また飢餓が拡大し飢餓人口は8億2千万以上、難民の増大で難民人口は1億1千万以上、暴君的な専制君主による抑圧的な国や地域の増大で、キリスト教徒の迫害人口は3億6千万以上となっています。更に、自然界は、2023年度はハワイ、カナダ、ギリシャ、ロシアなどで大森林火災が多発し20年で世界の森林の喪失は2倍になったと言われています。今年は火山大爆発もハワイ、インドネシヤ、アイルランド、アイスランドで起きました。その他、大洪水、大干ばつ、大地震などで自然界は大荒れに荒れ、世界は増々混沌の中に沈んで行くような様相を呈しています。なぜ、世界はこんなに恐ろしい荒廃した世界になり果ててきたのでしょうか。その最も根本的な原因は、天地万物を創造された創造主に対して多くの罪を重ねてきた結果です。創造主は、怒る事を遅く慈しみ深いお方ですが、いつまでも忍耐されるお方ではありません。忍耐の限りを尽くしても、人間が罪を悔い改めなければ、厳しい裁きをもって臨まれるお方です。(ナホム1:2~3)
①創造主への背きの罪とは
では、創造主に対する背きの罪とは何でしょうか。それは、創造主の聖なる御心、正義の御心に叶わない在り方をする事です。つまり、創造主への不従順こそが、罪の本質なんです。ではなせ、私たちは、創造主に従わなければならないのでしょうか。それは、創造主が人間を創造主の愛と正義と知恵と力という創造主の栄光を顕す為に造られたからです。私たちの所有権は、創造主にあります。所有権が創造主にあるという事は、私たちは自分の思いや欲などで勝手に生きてはならないと言う事です。
昔、今から約2500年程前に、イスラエルにマラキという預言者がいました。彼は、イスラエルの民が、神のものを盗んでいる罪を取り上げました。それは、モーセ律法により、畑の毎年の収穫物の10分の1は神さまのものとして、神さまにお捧げする義務がありました。ところが、預言者マラキが生きていた時代の北イスラエルの人々は、その掟を守っていなかったのです。その事を、マラキは「神のものを盗んでいる」と、厳しく糾弾したのです。しかし、北イスラエルの民は、そのような罪を犯していると思っていなかったのです。「マラ 3:8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。
②現代の人類の背きの罪とは
現代の私たちには、自分のものと言えるものは実は一つもないのです。万物は全て神に所有権があるのです。神に自分の所有権がある事を認めず自分勝手に生きる事は、神のものを盗んでいる背きの罪となっているのです。聖書は、万物は万物を造られた創造主のものだと教えています。
◆詩 95:4 地の深みは御手のうちにあり山々の頂も主のものである。
◆詩 95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った。
◆詩 100:3 知れ。【主】こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。
◆Ⅰコリ 10:26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
人間を含め天地万物は、それを造られた方のものとして創造されたという事を私たちは忘れてはならないのです。私たち人間は知恵を使って色々なものを作ります。その作られたもの所有権は、作った人間にありますか。それとも作られたものにありますか。当然、作人間にあります。例えばですが、人間は自動車を作っていますが、その自動車の所有権は当然作った人間にあります。作られた自動車にありません。
2、生きる意味と目的を求めて
私は、19歳で洗礼を受けましたが、それでも人生の目的が分からず苦しんでいました。その悩みの中で、人の生きる目的はなんだろうかと繰り返し繰り返し考えました。進化論の教えによると人は偶然によって誕生してきたのだから、人生には目的がない事をうすうす理解していました。しかし、もし人が聖書の教える通りに創造主によって創造されたとすれば、人には生きる意味や目的があるともうすうす理解していました。ある日、私は自分の家の中で、テーブルの上のお茶わんや湯飲みをみて、これらはちゃんと目的をもって作られているなあと思いました。その他、ラジオ、扇風機など、家にあるものを一つ一つ見まわして、作られた物には、全て目的があるなあと思いました。同時に、作られた物は、作った人間に所有権があるということも、分かるようになりました。しかし、まだ自分が100%創造主によって創造されたという確信が持てていなかったので、人生の意味が分からず深く苦しみ悶えたのです。そんな苦悩の中で、聖書を開いて読み始めました。それがイザヤ書43章1節でした。その1節を読んだ時に思わず私は「はいそうです!」と創造主に向かって叫びました。私は創造された創造主のものであり、創造主が私の人生の目的をご存知だと100%確信できたのです。そうすると、心底から喜びが湧き上がり、見るもの全てが美しく輝い見えるようになったのです。イザヤ43章1節に次のようにあります。「イザ43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」
ヤコブとか、イスラエルに自分の名前を当てはめて読んだのです。「イザ43:1 だが、今、佐藤勝徳よ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。佐藤勝徳よ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの』」。そのようにして読んだ時に、私は自分が神さまに創造された事と、自分は創造主のものだと心底から思いました。そうすると、私の生き方が180度変わったのです。私は、私のものでないので、100%っ創造主の神さまのものとして神さまに当然の事として自分を捧げる事が出来たのです。それは、誰かから教えられたのでなく、19歳の私が、自分でそのように生きる事が正しい人間の当然の在り方だ分かった事によるのです。その時から、私は喜んで献金を始めるようになりました。日曜日は教会学校で奉仕をし、その後礼拝をささげ、午後は青年会、夕方はトラクト配布、夜は夕礼拝に出席をし、家に帰るのは夜の10時という教会中心の生活を何の苦も無く、当然の事として送るようになったのです。わたしは、キリスト教という宗教に生きるものでなく、創造主の所有物として、創造主に献身をし、創造主に仕える生活を送る事は人間として自然な事、当然の事だと思って信仰生活を送るようになったのです。今思えば不思議としか言いようがありません。その時は、父なる神の御心に従って万物を造られたのが、神の御子だとは知りませんでしたが、聖書を学ぶうちにその事を知りました。コロサイ書ではっきりと「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」と教えられています。その時から、神の御子であるキリストは人であり神である。神であり人である。というキリストの神人論が真理だと分かってきました。
3、御子なる神がなぜ人となったのでしょうか
では何故、万物を創造された神の御子が人となる必要があったのでしょうか。それは、創造主に全てをささげて、日々創造主に従って、創造主と共に歩むという、人間として当然の生き方に背いてきた全人類の罪の赦し為に、神の御子はどうしても人間となる必要があったのです。それは、神に背く罪は神に裁かれて「永遠に滅び、火の池に投じられて永遠に苦しむ」という、代価を払わなければならなかった事にあります。そのような代価に値する罪人が一人も滅びず救われる事を、父なる神は願ってこられました。その為に、罪なき人間が、神が決められた時に、神の決められた方法で、身代わりに刑罰を受けなければならないというのが、神の愛と正義に基づく御心でした。その御心を実現する為に、人間を含め万物を創造された御子なる神が、自分が人となり、神の御心を実現する事を申し出られたのです。なぜなら人類は全て罪の性質をもって生まれ、多くの背きの罪を犯しているので、人類の背きの罪を背負って身代わりに刑罰を受ける資格のあるものは一人もいないからです。その為に、聖なる罪なき神の御子が、聖霊によって身ごもったマリヤさんによって約2000年昔、ユダヤのベツレヘムに人としてお生まれになったのです。それが、ナザレ人と呼ばれるイエス・キリストです。イエス・キリストは33年間のご生涯の間、思いにおいて、言葉において、感情において、知性において、意志において、欲において、行いにおいて、何一つ罪を犯すことなく、十字架で人類の永遠の刑罰に値する神への背きの罪を全部背負って身代わりに刑罰をお受け下さり、人類の罪を取り除かれました。その、キリストの十字架の死によって人類を永遠の刑罰から救い出すという、贖いの御業がなされたのです。
4、キリストの救いの御業を適用される人は誰か
その、救いの御業、贖いの御業の適用を受ける人は、キリストを救い主と信じた全てのキリスト者です。パウロはその事を次のように教えています。「コロ1:13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
では、人がキリストを信じた結果、罪が赦されたのは何の為でしょうか。それは、それまで神に背いてきた罪の為に失ってきた「神のものとして生きる」という、本来の生き方をする為です。神のものとして、神の栄光のために、神に喜んで頂くため、全てを神に捧げ献身の生活を送る事は、最も光栄な事として感謝して生きる為にキリスト者は救われたのです。そのような生き方をする神の僕がこの地上に多く増える事を願って、キリストは人として誕生され、人として十字架の道を歩まれたのです。そのキリストを信じた全てのキリスト者は、キリストの十字架の血を代価として、永遠の滅びから救われ、再び神のものとなったのです。キリストの血がその贖いの代価だと聖書は教えています。
「マタ 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
「Ⅰコリ 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」
「Ⅰコリ 7:23 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。」
「Ⅰテモ 2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」
教会はキリストの血によって贖われた者の群れですので、パウロは教会をキリストの血で贖われた教会と呼んでいます。「使 20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」
5、救われたキリスト者に求められるのは献身と従順です
罪とは、自分が造られた方のものであるにも関わらず、造られた方のものとして100%捧げない事です。自分の全てを手放して神さまに所有して頂き、使って頂く事をしない事が背きの罪です。自分のものは、何一つ自由になるものはないにも関わらず、自分勝手に自由に時間と能力と体力を使って生きてる事が背きの罪であり、所有者である神への盗みの罪です。創造主の神さまが自分を所有し、自分の内も外もご支配下さって神さまが自由にお使い下さるように全てをささげる事が、人間の正しい最も幸福な生き方です。それは、特別の事ではないのです。自動車は、人格がないので、いちいち自動車に、今日は米子に行くぞ、鳥取に行くぞと呼びかけ同意を求めるようなことはしません。自動車は人格のない機械ですので、ロボットのように自由に扱って良いわけです。しかし、人間は人格があります。自由意思があります。神さまが、人間の所有者だという真理に基づいて神さまに全てをささげても、神さまは人間の自由意思を無視して、ロボットのようにして人間をご支配されてお使いになるという事はされません。日々の生活で、ご自分のものである人間に、所有者としての権利で、このようにして下さい、あのようにして下さいと、ご自分がお喜びなる事を示されます。その、呼びかけに、人間は、自分は所有者の神さまの喜びの為に生かされている事を自覚して、自分の自由意思でそのお方に従うのです。それが、正しい生き方です。そのような、正しくて最も幸福な生き方を与える為に、キリストは十字架で贖いの代価としてご自分の命、ご自分の尊い血を私たちの為にお捧げ下さったのです。
6、内住のキリストの細き御声に聞き従う
所有者の神さまに聞き従う事が可能となる為に、信じる全てのキリスト者の霊の中に、キリストは内住されて、所有者の権利としてご自分愛と正義の栄光の為に、日々細き御声をかけながら一人一人を導かれています。(コロ1:27)
愛する兄弟姉妹、今年1年を、あなたは自分が自分をお造りになったキリストものであり、また、十字架の血で永遠の刑罰から贖い取って下さったキリストのものであり、キリストに使って頂く為に生かされている事を深く自覚して、日々献身の道を歩み、日々従順に徹してこられたでしょうか。創造主の神であり、救い主であるキリストが、あなたの所有者です。私たちはその所有者が喜んでご使用して下さる為に造られ、救われ、生かされているのです。その真理を無視する事は背きの罪ですので、その人には神さまは祝福を差し控えられます。
【終わりに】
新しい年を大いに祝福されて生きる為に、この一年の背きの罪を徹底して悔い改め、全てを神さまにおささげして、新しい年を迎えましょう。私達本来の光栄ある生き方である、創造主の所有として、御子なる神の所有として神さまに使って頂く生き方の回復のために、神の御子が2000年昔人としてお生まれになった事を感謝しましょう。また、混沌の中にある、全ての人、パレスチナとイスラエル人々、ウクライナとロシアの人々がキリストを信じて、創造主への背きの罪を悔い改め、神さまとの平和の中へ救われますように祈りましょう。
あなたも、創造主への背きの罪、盗みの罪を悔い改め、キリストを信じて罪赦され、創造主のもの、キリストのものとして使っていただく光栄ある人生へと導かれますようにお祈りしています。