2023年4月16日メッセージ要約
「主の空中再臨の恵み」
Ⅰテサロニケ5:12~28
牧師:佐藤勝徳

キリストの再臨の約束には、空中再臨と地上再臨の二つがあり、それぞれ目的が異なります。空中再臨は、キリストの花嫁なる教会(全てのキリスト者)を、天で行われる花婿なるキリストとの婚礼に導くことを目的しての再臨です。地上再臨は、神がイスラエルと結ばれた四つの無条件契約である「アブラハム契約」「土地の契約」「ダビデ契約」「新しい契約」の成就として、イスラエルを中心とした再臨のキリストを王とする平和な「メシヤ的王国」をこの世界に実現するためです。テサロニケの手紙は「主の空中再臨の書」と呼んで良いほど、主の空中再臨の事が8回も啓示されています。その代表的な聖書個所がⅠテサロニケ4章15節~17節です。「Ⅰテサ 4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」。空中に来られたイエス・キリストのもとに永遠に朽ちない栄光の体で引き上げられた全てのキリスト者は、栄光に輝くキリストの姿を見て驚嘆して、爆発的な喜びと感動で満たされるとパウロは教えています。その理由は、キリストが空中に来られた時に、全てのキリスト者が完全な人間に変えられるからだと教えています。それを次のように教えています。「Ⅰテサ5:23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」。キリストが空中に来られた時に、キリスト者は神の聖なる性質が満ち溢れる恵みに預かります。又、霊と魂の知情意が健全に機能する完全なものとされ、肉体は永遠に朽ちない、病気をしない、罪を犯さない栄光の体に変えられるのです。それによって、空中に再臨された栄光に輝くキリストを栄光に輝くキリストとして完全に知り、御顔に輝くキリストの愛の美しさ、目の瞳に輝く愛の優しさ、燃えるような愛の情熱のすごさに驚嘆して、涙に溢れて喜びの感動が爆発し、美しい賛美の歌声が宇宙に響き渡るのです。もし、キリスト者が罪に堕落した影響を持っている不完全な霊、不完全な魂、朽ちる肉体のままであれば、その感動の喜びは不完全なものとなります。それは、人間の罪への堕落の影響により、善いものを善いとして、美しいものを美しいとして、感動的なものを感動的なものとして100%受けとめる感受性が健全でないからです。霊と魂と体が不完全であれば、栄光に輝く美しい天国に導かれても、天国に導かれたという感動は乏しいのです。それは天国の素晴らしさをキャッチする感受性が不完全だからです。昔から、豚に真珠、猫に小判と言いますが、猫たちの知情意の魂では、小判の価値が分かりませんので千両を猫に与えても喜びや感動ありません。猫を喜ばせるには千両でなく、鰹節を与えた方が良いのです。豚は、どれほど高価な真珠を与えても彼の魂は何の喜びも感動もありません。美味しい餌を与えると喜び感動するのです。人間の霊と魂と体の感性は罪に堕落した影響があり、そのままだと、空中に再臨された栄光に輝くキリストと顔と顔を合わせてあっても、さほど喜びはないのです。猫に小判、豚に真珠なのです。

キリストが、空中に再臨された時に、全てのキリスト者は創造の神が求めておられる本来の人間へと完全に変えて下さるのです。それを神学用語では「栄化」と呼びます。主の空中再臨の恵みは、キリストの福音を信じて、霊の中に聖霊を宿している全てのキリスト者が栄化されて、空中に再臨された主の所に導かれ集めらる事です。栄化されたキリスト者は、真理を真理として認め喜ぶ本来の人間性が完全に回復されていますので、キリストの手にある十字架の釘跡の傷をみて、キリストの十字架の愛の深さを完璧に知って、その十字架の愛ゆえに、この地上では決して味わう事が出来ない、大きな大きな、深い深い喜びの感動に支配され、キリストと顔と顔と合わせて見つめつつ力限りを尽くしてキリストを賛美するのです。そこには、一点の陰りも曇りも疑いも躓きもありません。栄光に輝く主の栄光を全身に感じ取ってその素晴らしさに圧倒されるのです。その事をパウロはⅠコリント13章で次のように教えています。「Ⅰコリ 13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」。

人間の肉体には味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚と言う五つの感覚がありますが、人間の感覚には肉体の五感以外に、人の良さとか愛とか善意と言うものを感じ取る直感とか、心の感受性と言うものがあります。しかし、罪に堕落した影響で人間の肉体の五感と人間の人格性の良さを感じ取りる感受性は十分機能していない状態あります。もともと、人間の肉体の五感は大変健全でした。また、神の人格の良さや人間の人格の良さを十分感じ取る感受性も健全でした。それによって、目に見えない霊なる神を良いお方を良いお方として喜び愛の交わりができていたのです。人との関係も同じでした。しかし、罪に堕落して、悪を欲する傾向性を持つようになり、神の良さ、人の良さの良いものを良いものとして感動を覚えたり、美しいものを美しいとして喜んだりする感受性が大変弱くなったのです。知性と感情と意志とがバランスの悪い人間となってしまったのです。霊や魂や肉体が不完全であれば、罪が一切ない天国に導かれても、空中に再臨された栄光のキリストに出会っても、その価値が十分わかりませんので、喜びや感動は乏しいのです。空中のキリストに出会い天の御国へ導かれて、驚嘆するほどに喜びと感動を覚えるには、霊と魂と肉体が罪に堕落する前以上に完全なものとされておく必要があるのです。それによってキリストを顔と顔と合わせた時に、キリストの愛を完全に感じ取って愛されている喜びが爆発し、おのずと全身全霊でキリストを賛美するのです。それがキリストを完全に知るという意味です。テサロニケの手紙でも次のように教えています。「Ⅱテサ1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。」

空中に再臨されたキリストは、栄化され、空中に携挙された全てのキリスト者の感嘆の的となるのです。「感嘆の的となられます」訳されているギリシャ語はスワマッシナイで、感嘆よりももっと強い爆発的な感動と喜びが伴う「驚嘆される」という意味があります。栄化されてから空中に携挙された全てのキリスト者は、キリストの栄光に輝く愛の満ち溢れた、祝福に満ち溢れたその栄光に輝く優しき御顔、瞳を見て、驚嘆するのです。愛に満ち溢れ、祝福に満ち溢れたキリストの優しき御顔、優しく透き通った美しい瞳、燃えるような愛に溢れた熱い熱いまなざしに驚愕し、全員が声をそれえて「ワーーーー!」と喜びの叫び声をあげ、「アーメンハレルヤ」「アーメンハレルヤ」アーメンハレルヤ」と美しい賛美を歌うのです。その賛美は宇宙響きるでしょう。その賛美が続く中で、栄化された全てのキリスト者が、キリストが弟子たちにヨハネ伝14章2節3節で約束された天の父の家である「天の都エルサレムに設けられた新居」に導かれるのです。キリストは栄化された全ての聖徒の兄弟姉妹から「驚愕」をもって喜び賛美される為に空中に来臨されるのです。

私たちは、今は、おぼろげにではあっても、不完全であってもキリストの御顔を拝し、キリストの愛や正義や善意を信じて喜びたたえています。その信仰の喜びが霊と魂と体が栄化される事によって、空中においで下さったキリストと出会った時に爆発的なものとなるのです。あなたもキリストを信じて、キリストが空中に再臨される時の爆発的な喜びに預かって下さい。