「聖化の道を究めよう」
聖書:ローマ8:1~4
牧師:佐藤勝徳
人類の全ての罪を背負って十字架で身代わりの刑罰をお受けになり、三日目に甦られたイエス・キリストを信じる人に、神さまは三つの恵みを備えておられます。第1は人生で犯す全ての罪が赦され永遠に「義人」と認められ、永遠に喜びと平安が続く神の御国へ導かれる事です。第2は、そのキリスト者の人格がキリストの人格に似せられるという「聖化」の恵みに与る事です。第3番目は、その人がキリストのように完全な人格になるという「栄化」の恵みに与る事です。人生において犯す全ての罪が、キリス著を信じるだけで永遠に赦される事は驚くべき恵みですが、その上に「聖化」と「栄化」の恵みがキリストを信じる者に備えられているという事は、さらに驚くべき恵みと言わざるをえません。ローマ8章1節から4節は、キリスト者が「聖化の道」を歩む為に、神が何をして下さったかが教えられています。
1,「キリスト・イエスにある者」とは
ローマ8:1の「キリスト・イエスにある者」というのは、2000年昔、人類の代表者として父なる神さまがこの地上に遣わされたイエス・キリストに人類が包含され、キリストが十字架で死なれた時に人類も共に死んだという真理に、聖霊によって諭された人の事を言います。その人は、自分がキリストと共に死んだものとして、葬りの儀式である洗礼に与る事により、その人が改めて2000年昔のキリストと共に十字架に死に、共に甦ったという救いの適用を受けます。ローマ8:1の「キリストイエスにある者」というのは、2000年昔のキリストとの十字架の共同の死と共同の復活に与った人の事を言います。その人は罪に定められないのです。
2、「罪に定められない」とは
「罪に定められない」のギリシャ語は「ウーデン アラ ヌン カタクリマ」で「有罪の判決を受けない」という意味です。なぜそう言えるのか、その理由をパウロは2節で、「なぜなら、キリスト・イエスにある者は、キリスト・イエスにある「いのちの御霊の法則が、罪と死の法則から、あなたを解放したからだ」と教えています。つまり、「いのちの御霊の法則」によって、罪犯さない人間になったという事で、「有罪の判決を受けない」という事を意味しています。ここでは「キリストを信じる信仰によって義とされた結果「有罪にならない」という意味ではなく、罪を犯さない人になり、良心の呵責に苦しまないものとなったという意味で「有罪の判決を受けない」とパウロは教えているのです。
3,「いのちの御霊の法則」
では、そのキリスト・イエスにある「いのちの御霊の法則」とは何でしょうか。「法則」と訳されているギリシャ語は律法を意味するノモスが使用されています。このノモスは、日本語訳では「原理とか「法則」と訳されています。パウロがここで使用している「ノモス」私たちが実行しなければならない数々の戒めとしての律法の事ではありません。パウロは、律法の下にある者をそれは守らなければならない義務の力で拘束している、縛っている、捕らえている力を意味して「ノモス」使用をしています。そこから「「法則」という意訳がなされているわけです。キリスト・イエスの中におかれている人たちは、「いのちの御霊の法則」という、御霊の力に拘束され、束縛され、捕らえられて「「罪と死のノモス」の力から解放されて、生かされているとパウロは教えています。「いのちの御霊の法則」は、キリストイエスの中にある者を「罪と死の法則」から既に解放し、罪を犯さない人にしているとパウロは教えています。では「罪と死の法則」とは何でしょうか
4、罪の法則とは
「罪の法則」のその罪は、ギリシャ語では単数形の「アマルティア」が使用されています。英訳では単数形の「sin」となっています。十字架の血によって赦される多くの罪である複数形の罪sinsはギリシャ語では「アマルティアイ」です。罪びとの人間に法則となって働き多くの罪を犯させる単数形の罪の「アマルティア」と複数形の罪である「アマルティアイ」の違いを明確にしておかないと、パウロの教える「聖化」の教理を正しく理解出来ません。
複数形の罪「アマルティアイ」は、誰もがすぐに理解できる罪です。それは、思いにおいて言葉において行いにおいて犯す全ての罪を意味しています。単数形の罪「アマルティア」は、生まれながらの古い人と呼ばれる罪びとに法則となって働いて「貪欲」の罪を繰り返し犯させる力がある「罪」です。罪に堕落している全人類は単数形の罪である「アマルティア」の下に置かれており、誰もが多くのお罪を犯しているのです。「ローマ3:9私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪(アマルティア)の下にあると責めたのです」。
5,単数形の罪「アマルティア」はいつ世界に入って来たのか
この単数形の罪「アマルティア」は、いつどのようにしてこの世界に入って来たのでしょうか。パウロは、ローマ5章12節でアダムが罪を犯した時に入って来たと教えています。「ロマ5:12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪(アマルティア)が世界に入り、」と。罪の法則とは、アダムの罪の堕落によってこの世界に入って来た罪「アマルティア」の力が繰り返し生まれながらの古い人である罪びとに繰り返し働いているので、パウロは「罪の法則」と呼びました。
6,死の法則とは
「死の法則」の死というのは、肉体が死んだときの「死」ではなく、「無力の極み」という意味で使用されています。それは、生まれながらの古い人である罪びとが、モーセの十戒の「貪ってはならない」という律法を守る事において、無力の極みである「死」という「弱さ」の中におかれています。単数形の罪「アマルティア」によって、繰り返し「貪り」の罪を犯す事は同時に「貪ってなならない」という、律法をいつも守れない「無力の極み」である「死」に拘束され支配されている事を意味しています。単数形の罪である「アマルティア」の罪の法則は、同時「無力の極みである「死」を古い人である罪びとに働かせて、「貪ってはならない」という律法を繰り返し守れないようにしているので「死の法則」とパウロは呼んだのです。
7、古い人の罪のからだ
パウロはローマ書6章6節で「古い人の罪のからだ」の事を論じています。罪のからだというのは、単数形の罪「アマルティア」の力が法則となって生まれながらの古い人に働きかけ、その結果、生まれながらの古い人のからだはいつも積極的に、からだの手足、耳鼻口、その他、からだの中にある思いにおいて罪を自然と犯しています。いわば、古い人のからだは罪の生産工場になっているので「罪のからだ」とパウロは呼びました。しかし、その6章6節で罪のからだを持つ古い人はキリストと共に十字架で死んだと教えています。パウロは、キリスト・イエスにある者がキリストと共に十字架に死んだという事を「私たちの古い人がキリストと共に十字架で死んだ」と言い換えています。それは、キリスト者はキリストを信じて罪が赦され新生し、神の性質に与った新しい人にされているのですが、それでも罪の性質をもって生まれた古い人が残存している事をパウロは教えています。それでパウロは古い人の事を「オ パライオス エモーン アンスローポス」と言っております。直訳すると「わたしたちに属する古い人」です。。新生をしたキリスト者には古い人が残存しているのです。しかし、その残存している「古い人」は既にキリストと共に十字架につけられ死んで葬られた存在なのです。
8、古い人がキリストと共に十字架で死んだのはなぜ
ではなぜ、古い人はキリストと共に十字架で死ぬ必要があったのでしょうか。それは、私たちの罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれから「罪の奴隷」でなくなるためであったとおパウロは教えています。パウロは、キリスト者のからだを「罪のからだ」と呼んでいます。からだはギリシャ語では「ソーマ」です。ソーマは人の心を内住させている「からだ」そのものです。罪のからだを持っている人間が、罪を犯さない状態になった事を「罪のからだが滅びて」と表現しています。罪のからだが滅びの滅びというのはギリシャ語「カタルゲオー」で「実を結ばなくなる」とか「絶やす」という意味の言葉で、罪のからだが罪の実を結ばない、罪を犯さない、罪を絶やすという意味になります。それによって、私達キリスト者が「罪の奴隷でなくなる為である」と続けてパウロは教えています。その後に、「死んでしまった者は罪から解放されているのです」と、教えています。死んだからだに単数形の罪「アマルティア」がいくら罪を犯すように働きかけても、応答はありません。キリストと共に古い人が十字架で死んだ結果、罪の性質をもって生まれた人間の罪のからだも死んで、罪の力に対して何の反応もしなくなったのです。それによって、キリスト者の罪のからだは罪の奴隷から解放されたとパウロは教えています。
9、死のからだの意味
死のからだというのは、生まれながらの古い人である罪びとがどんなに意志の力を振り絞って「貪らないぞ」と決心しても、からだの中に気が付けばすぐに律法にに反して「貪り」が生じているので、そのからだをパウロは律法を決して守れない無力の極みである「死」に拘束され支配されているので「死のからだ」と呼びました。その死のからだの事をパウロはローマ7章で論じ、自分がその死のからだに支配されている事を知って「絶望の声」をあげたのです。「ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」
10、単数形の罪「アマルティア」と古い人の関係
サタンが、この単数形で表現されている罪「アマルティア」をこの世界にアダムによって持ち込んだ理由は、罪の性質をもって生まれている古い人に働かせて、多くの罪、複数の罪「アマルティアイ」を犯させる為であったのです。
パウロは5章14節でアダムの事をアダムはきたるべき方のひな型です」と教えています。つまりアダムは人類の代表者として遣わされたキリストを原型に、人類の代表者として創造された事を意味します。アダムは人類の代表者ですので、彼の中に人類が包含されていたのです。アダムが、人類を包含する人類の代表者として創造された結果、彼がエデンの園で罪を犯した事は、同時に全人類の罪となりました。「ロマ5:18こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」
また、彼は罪を犯した結果、からだに罪の性質がサタンによって造りこまれました。その結果、彼のからだは、自分が犯した罪によって世界に入り込んできた単数形の罪「アマルティア」の力の影響を繰り返し受けて積極的に罪を犯す「罪のからだ」となりました。また同時に、神の律法を守れな「無力の極みである「死のからだ」を持つ者となったのです。その性質が、遺伝によって全人類に受け継がれてきました。その罪の性質をもって生まれる人間をパウロは「古い人」と呼んだのです。「古い人」は、単数形の罪「アマルティア」の法則の力で、繰り返し「貪り」の罪を犯しています。また、「死の法則で「貪ってはならない」という律法を守れなくしているのです。
以上のように、単数形の罪(アマルティア)の法則というのは、生まれながらの人間である古い人の貪欲の傾向性を持つからだに働いて、貪りを繰り返す犯させる力を意味しています。ちょうど、引力の力に私たちは勝つ事が出来ないように、古い人である私たちは罪の力に意志の力で勝つ事は出来ないのです。私たちが、鳥のように自由に飛びたいと体ををがんばって飛び跳ねさせても、からだには引力に勝つ力がなくすぐに落ちてしまいます。何度、飛び跳ねてもすぐにまた落とされますので、その落とす力を引力の法則と呼んでいます。そのように、生まれながらの人間が、肉体的に、精神的に必要のない欲望に囚われないぞ!貪らないぞ!と、意志の力で頑張って抑えようとしても、気が付けば、欲しがらなくても良いのに、性欲、食欲、金銭欲、物質欲、名誉欲などが湧いてきて貪欲の罪を犯してしまっているのです。それは、罪「アマルティア」の力に引っ張られる性質をもって生まれた人間のからだに、単数形の罪(アマルティア)が繰り返し法則として働いている結果なのです。
11、罪の法則と死の法則から解放したキリストにあるいのちの御霊の法則
以上の、人間の罪に堕落したからだに働いて積極的に貪りの罪を犯させている「罪の法則」と、神の律法を決して守れないようにしている「死の法則」から、私たちを解放し、決して貪欲の罪犯さないで、神の御前に聖い生活をさせて下さるのが、キリストにある「いのちの御霊の法則」だとパウロは教えています。つまり、洗礼によりキリストと共に十字架で死に、キリストと共に甦ったキリスト者は、キリストにあっての「いのちの御霊の法則」の中に置かれており、「罪と死の法則」から既に解放されているとパウロはの教えています。これから解放されるのでなく、すでに解放されているのです。。その解放の事実に立って、わたしは決して貪りの罪を犯さない者にされていると安んじると、その信仰にいつもいのちの御霊が法則となってその人に働き、実際に貪りから解放され、聖なる生活を送る事が出来るようにして下さるのです。その事を、パウロは次のように教えています。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」と。
「肉によって無力になったため」というのはどういう意味でしょうか。罪に堕落した人間をパウロは(サルクス)「肉」と呼んでいます。その肉の人間の意思の力は、罪の法則と死の法則に勝てない無力なもとなっています。また、「貪るな」という律法は、生まれながらの人間の意志にはその力がないので、「貪るな」という戒めを守らせる事が出来ません。その事をパウロは「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていること」と教えました。
12、神は単数形の罪から人間を解放して下さる為に御子を聖なるからだを持つ人間として遣わされた
ところが、人間が「貪るな」という戒めを守って「聖なる生活」を送る事が出来るように神はして下さいました。それは「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」とパウロは教えています。
◆「罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり」というのはどういう意味でしょうか。
「罪のため」の罪は単数形の罪「アマルティア」の事です。人間に「貪欲の罪」を犯せ、人間を奴隷にしている「罪」から解放する為、父なる神さまは、自分の御子を、罪深い人間の肉体と同じような形でこの世界にお遣わしになったというのです。キリストのからだからは罪に堕落していない聖なるからだで、単数形の罪の力が働いても決して貪欲の罪を犯さないからだです。キリストは罪に堕落した人間のからだと異なる、聖なるからだをもって誕生され、父なる神さまから遣わされたのです。キリストが、聖霊によって身ごもってマリヤさんにより肉体となって誕生された目的は、私たちが人生において犯す全ての罪が赦される為でしたが、もう一つの目的は、罪に堕落した人間を単数形の罪「アマルティア」から解放するためであったのです。
◆「肉において罪を処罰された」というのはどういう意味でしょうか。キリストのからだである肉体の中には、全人類が包含されています。全人類は、キリストが十字架で肉体で死なれた時に共に死に、単数形の罪「アマルティア」から解放されました。また、全人類はキリストと共に神の性質をもって新しい人として甦りました。新しい人となった全人類は、いのちの御霊の法則により、罪の法則と死の法則から解放されました。そのようにして、単数形の罪「アマルティア」の力が全人類に及ばないようにされました。その事を、意味して、パウロは「キリストの肉において、単数形の罪「アマルティア」を処罰した」と言っているのです。
以上の救いの御業、解放の御業が適用される人はは、キリストを救い主として信じて、洗礼を受けたキリスト者です。キリストの十字架の血による罪の赦しの恵みに与るには、キリストを信じる事が必要なように、キリストと共に死に、共に甦り、罪と死の法則から解放されたという全人類の為の救いの御業の適用を受けるのは、キリストを信じて洗礼を受けた者です。それ故に、パウロはローマ書6章1節から4節で洗礼の意義を、キリストに与るバプテスマによって、キリスト者はキリスト共に死に共に葬られた事だと教えたのです。
私たちが、キリストのように栄光から栄光へと人格が似せられていく「聖化の道」を歩んで行くためには、私たちが、キリストに与ったバプテスマによって、キリストと共に十字架で死に、キリストと共に葬られ、キリストと共に新しい人して甦り、いのちの御霊の法則により、既に「罪と死の法則」から解放されているという、解放の福音を聖霊によって諭して頂くことが不可欠です。つまり、既にキリストのように貪らない聖なる者とされているという事に、心の目が開かれておくことですまだ、キリストにあっての解放の福音を悟っていない人は、是非、知恵と啓示の霊である聖霊によって諭していただけるように祈って頂きたいと思います。
からだの貪欲の罪は、殺人の罪、親不孝の罪、姦淫の罪、盗みの罪、嘘の罪、憎しみの罪、妬みの罪、など、様々な精神的罪を含めて、全ての罪の根源的原因となっているのです。その、貪りの罪を犯さない、「聖なる生き方」を、キリストは私たちとの共同の十字架の死と葬りと復活によって、実現をして下さったのです。私たちは、キリストにあって、いのちの御霊の原則により、「貪欲の罪」を犯さない者と既にされているのです。自分の肉の意志の力では、「貪欲」を抑える事はできません。キリストの救いの事実に立って「貪欲」の罪を犯さないもの既にされていると、安んじる信仰に、聖霊がその人に働き、その人は御霊によって導かれ、御霊に従うように力が与えられて実際に「聖なる生き方」をさせて頂くのです。その事を、パウロは次のように教えています。「8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
肉に従ってと言うのは、生まれながらの自分の力に頼って生きる事を意味しています。御霊に従って歩むというのは、キリストと共に十字架に死に、共に甦っているものに働く、御霊のいのちの法則により既に、「罪と死の法則」から解放されているという、「解放の福音」を信じて安んじる信仰の人に働く「御霊の力」に信頼して生きる事を意味しています。
あなたも、キリストを信じて「聖化の道」を究め、「聖化の道」を歩まれますようにお祈りします。