「聖化の道を究めてⅡ」
聖書:ローマ6章1節~14節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】

先週に続いて「聖化の道」を学びたいと思います。キリスト者が神さまによって祝福される為には「聖化の道」を聖霊様によって諭して頂いて、自分のものとする必要があります。ローマ書のテーマは「神の義」です。神さまの聖なる性質の一部である神の義という性質に、罪びとの私たちが、どのようにあれば叶うのか、聖書の中で唯一組織的に論じているのがローマ書だと言われています。パウロ書簡を初め、その他の新約聖書の教えで説かれているキリスト者の生活の土台はローマ書にあります。ローマ書をきちんと学び、聖霊によって諭されて初めてキリスト者がキリスト者として相応しいダイナミックの生き方が可能となるのです。現代のキリスト教会において、どれだけのキリスト者が聖霊の諭しにより「聖化の道」を究めて、日々キリスト者としてダイナミックな生き方をしているでしょうか。父なる神さまがご準備下さった「聖化の道」をまだ聖霊様によって諭されず、究めていないと思う人は、聖霊様による諭しを父なる神さまに祈り求めて下さい。

1,ローマ1章1節~5章11節迄の主要テーマは「信仰義認」

ローマ書1章1節から5章11節迄の主要なテーマは、罪びとの私たちが、どのようにあれば神の義に叶って、罪が赦され「義」と認められるのかが教えられています。それは、律法を行うという「行い」によってではなく、信仰による事が教えられています。いわゆる「信仰義認」です。旧約時代のアブラハムとダビデが信仰によって永遠に義とされたという例によって、新約の時代に生かされている私達罪びとも、善行や難行苦行や律法を守るという行いによるのでなく、十字架で私たちの全ての罪を背負って身代わりに刑罰をうけ、罪なき尊い血を流され、三日目にご復活をされたイエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰による事をパウロは教えています。「ローマ3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

「ローマ5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

以上のように、ローマ書1章1節~5章11節迄には、多くの罪を犯している罪びとの私たちが、神さまによって永遠に罪が赦されて義と認められ、永遠に神さまとの愛の交わりの中に生かされる道は、イエス・キリストを信じる信仰だけによるという事が明確に説かれています。

2,罪が増すところ恵みが増し加わるのならば、さらに多くの罪を犯しても良いのか、というのは愚問である

キリストを信じる信仰によって「義」とされたということは、神の律法が増し、その為に人の罪も増し加わって来ました。しかし、怒る事遅く恵み深い神さまは、罪が増し加わって来た世界に恵みを増し加えられてきました。その事から「罪が増すところ、恵みが増し加えられる」という真理を、パウロはローマのキリスト者に伝えました。すると、その真理を聞いたキリスト者の中に、「では、恵みが増し加えられる為にもっと罪を犯しても良いのか」という、愚かな質問をする人が出てきたのです。その愚問にパウロは、「断じてそうではない」と強く否定をし、その理由を、キリスト者は単数形の罪「アルマティア」に対して死んでいるからだと教えました。

ではなぜ、キリスト者には単数形の罪(アマルティア)に対して死んだと言えるのでしょうか。それは、キリスト者はキリストに与る洗礼を受けた時に、キリストと共に十字架で死に葬られた事によって、世界に入り込んでいる単数形の罪「アマルティア」に対して既に死んだからだとパウロは教えています。

3, 信仰によって義とされたキリスト者に神さまは「義の生活」「聖なる生活」「愛の生活」を求めておられる

神さまによって、キリストを信じる信仰によって罪赦され永遠に義と認められたキリスト者が、神の義に叶う「聖なる生活」を送る事を神は求めておられる事をパウロは6章19節で教えています。「ローマ6:19聖潔に進みなさい」と。

「聖潔に進む」という「聖化の道」を歩む秘訣を、パウロが洗礼の意義を通して説いたのが、ローマ6:1節~8章39節迄の教えです。神さまは罪に対しては非常に厳格なお方ですので、罪赦されたキリスト者が日々の生活で罪を厳格に退け、ご自身の義の性質にかなった「義の生活」「聖なる生活」「愛の生活」を送る事を強く願っておられるのです。その為に、義とされた罪びとの私たちが、神の義の性質に叶った「義の生活」「聖なる生活」「愛の生活」を送る事が出来るように、父なる神はキリストによってその道を設けられたのです。

4, 神の義の性質に叶った「義の生活」「」聖なる生活」「愛の生活」を送るための道

①キリストの十字架による共同の死によって

神の義の性質に叶った「義の生活」「聖なる生活」「愛の生活」を送る事が出来る為の道を神さまはどのようにして設けられたのでしょうか。それは、キリストにあって単数形の罪「アマルティア」に対して死ぬようにして下さった事によります。

罪に対して死んだの「罪」を、先週にお伝えしましたようにギリシャ語原語では「アマルティア」という、単数形で表されています。この単数形の罪「アマルティア」は、罪びとの人間に強力に働き、罪びとを貪欲にさせて多くの罪を犯させる力を持っているのです。この世界の全ての人間が貪欲により多くの罪を犯している原因は、単数形の罪「アマルティア」の力によっているのです。単数形の罪「アマルティア」力の影響を受けて、キリスト者も多くの罪を犯してきたです。その、単数形の罪「アマルティア」は、アダムが罪を犯して堕落した時に、悪魔がこの世界に侵入させたのです。「ローマ5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、」と教えられています。その罪に対して、キリスト者は死んだというのです。ではどのようにして死んだのでしょうか。パウロが、それは、洗礼を受けた時に、キリストの十字架の死に与り、キリスとト共に葬られた事によって死んだ」と教えています。「ローマ6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」と。

②聖霊の諭しが必要である

「あなた方は知らないのですか」というのは、単に知的に知らないのですかと言う事でなく、聖霊の諭しによって知らされていないのですかという体験的知を意味して使用されています。それは6章6節の「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」の「知っています」も同じです。

「私たちも知っています」という、聖霊の諭しで自分がキリスとト共に十字架で死に葬られたという事を知る事は、洗礼を受ける全てのキリスト者に、或いは洗礼を受けた全てのキリスト者に共通して求められている体験的知を意味しています。

③洗礼を受ける資格

洗礼を受けるという事は、自分が2000年前、キリストが十字架で死なれた時に共に死んだという霊的事実を聖霊によって諭していただいた人が、自分はキリストと共に死んだので「葬って下さい」と、申し出があって初めて授けるものです。単にキリストを信じたからと言って授けるものではないのです。死んでいない人を葬る事は、罪となりますように、自分がキリストと共に死んだという霊的事実を聖霊によって諭されていない人に「葬りの儀式である」洗礼を授ける事は、生きている人を「葬る事」と同じことをしているので絶対に差し控えなければならないのです。洗礼はそれほど重要な「聖礼典」なのです。洗礼の本質的意義は「葬り」です。コロサイ書でもそのように教えられています。「コロ2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ」と教えられています。

キリストを信じていない人が「聖餐式」に与れないように、自分がキリストと共に死んでいる事を聖霊によって諭されていない人には、洗礼を差し控えるべきなのです。しかし、私も含めて、多くの牧師方がそこまで厳格に洗礼の基準をもって、洗礼を授けてきたのかと言いますと、そうではないように思います。それは、神学校でも、そこまで厳格に洗礼の基準を教えていない事にあるからだと思います。そのような洗礼の厳格な基準を私も教わった事がありません。パウロの教えによれば、洗礼は2000年昔にキリストと共に死んだという事を聖霊によって諭されたという体験的知があって初めて洗礼の意義を悟る事が出来るわけです。洗礼で水の中につかる事は、パウロがコロサイ書で教えている通りに、「葬り」を意味しているのです。

④キリストが2000年昔に十字架で死んだ時、なぜ私たちも死んだのか

では、どうして、私たちは、2000年昔にキリストと共に死んだと言えるのでしょう。先ずその真理を知的に理解しておく必要があります。それによって、聖霊によって諭して頂くという体験的知に導かれます。

キリストは、全人類の代表者として遣わされている事を、パウロはローマ5章12節から19節において教えています。5章14節で「アダムは来るべき方のひな型」だと教えています。「来るべきお方」というのは、アダムが創造されてから約4000年後に、ユダヤのベツレヘムにお生まれになったイエス・キリストの事を意味しています。アダムは、なんと約4000年後に誕生されるであろうキリストを原型に創造されたのです。その、アダムは人類の代表者として創造された事が、、彼がエデンの園で罪を犯した時に、その後に誕生する全ての人類が罪を犯した事になり、有罪になったと、パウロが教えている事で分かります。人類が最初のアダムの中に包含されていた事をパウロは「アダムにあって」と教えています。「Ⅰコリ15:22すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいる」と。人類はアダムの中にあって、つまりアダムに包含されて霊的に神との交わりを失っているという霊的死の中にあるというのです。

アダムは一人で人類を全て包含する人類の代表者として創造されたのは、やがて約4000年後にユダヤのベツレヘムで誕生される人類の代表者であるキリストのひな型として創造されたという事です。

キリストは、人類を代表する人としては最後の方でしたので、「最後のアダム」と呼ばれました。キリストが最後のアダムとしてユダヤのベツレヘムに誕生されたその時にキリストに包含されたのです。つまり、全人類は罪の血統を持つ最初のアダムから切り離されて、最後のアダムである罪なきキリストに結ばれ包含されたのです。私たちが、キリストと共に十字架で死んだという歴史的事実を聖霊によって諭して頂く第1段階は、2000年の昔、キリストがユダヤのベツレヘムにお生まれになったときに、全人類は赤ちゃんのキリストに包含されたと言う事実を知っておく必要があるのです。ユダヤのベツレヘムは、キリスト誕生の地ですが、同時に人類がキリストに包含された特別な記念の地でもあるのです。

キリストは、人類の罪を背負って十字架で死なれましたが、同時に罪びとの全人類を背負って死なれたのです。十字架のキリストに全人類が包含されていたのです。2000年昔キリストがカルバリ山の十字架で死んだ時、あなたも私も、人類全体を意味する世界も死んだのです。十字架によって世界は私に対して十字架につけられ、私に対して世界は十字架につけられたのです。「ガラ 6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」。私たち全人類を包含しているキリストの十字架の死によって、私は世界に私に対して死に。世界は私に対して死んでいるのです。キリストが十字架で死んだときに、全ての人は死んだのです。「Ⅱコリ5:14bひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」

罪の性質をアダムからの遺伝によって受け継ぎ、単数形の罪の力に負けて繰りかえし貪欲の罪と多くの罪を犯している古き人である自分が、2000年昔にユダヤのベツレヘムにお生まれになったキリストに、神さまの一方的な恵みによって結びつけられ包含されたことを先ず感謝しましょう。その包含された古き人である私たちを背って、キリストが2000年昔にカルバルの丘で十字架にかかれた時に、キリストと共に死に、罪から解放されたのです。よく単数形の罪である「アマルティアが死んだ」とメッセージされる時がありますが。それは間違っています。罪が死んだのでなく、私たちがキリストと共に十字架で死んだ時に、罪に対して死んだのです。死んだ人間に、どんなに単数形の罪であるアマルティアが罪を犯すように仕掛けても何の反応もしません。その事をパウロは6章2節で「ロマ 6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」と言ったのです。

⑤キリストが復活をされた時に、キリスト者も共に復活をした

キリストとの共同の死という救いに与るのは、その事を聖霊によって諭され、洗礼を受けた人に限ります。洗礼によってキリストと共に十字架で死んだキリスト者は、死んで葬られただけでなく、キリストと共に復活をし、神の聖なる性質に満たされた新しい人として甦ったのです。洗礼を受けたキリスト者はキリストとの共同の十字架の死によって、罪に対して死に、キリストとの共同の復活で、罪の力が及ばないいのちの御霊の法則が働くいている復活の領域の中に移され、御霊により、神のいのちで生きて行くものとされたのです。それをパウロは6章3節から5節で教えています。「ロマ6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」

【終わりに】

私たちが、神の義に叶った「正しい生活」「聖なる生活」「愛の生活」を歩み、私たちの人格がキリストに似せられていくという「聖化の道」を歩む為の第1歩は、2000年昔のキリストの十字架の死と復活に、罪の性質をもって生まれた古い自分を含む共同の死と復活であったということを聖霊によって諭して頂く体験的知にあるのです。その体験的知に従って洗礼を受けるキリスト者に、その2000年昔のキリストとの共同の死と復活が適用されるのです。

私がその体験的に知に導かれた証をさせて頂いて、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。私は、知的にはキリストトの共同の死と共同の復活を知っていましたが、聖霊によって諭して頂く体験的知がなかったので、実際の生活には何の影響もありませんでした。相変わらず、罪深い生活を送っていたのです。ある会合で、私は後輩の牧師から私のプライドが傷つけられる暴言を受けました。その時、私は怒り心頭になり、その後輩の牧師に向かって「お前何を言ってるんだ、その言葉はどっから出てるんや。直せ!」と、思いっきり怒鳴ったのです。私は、次の朝その牧師に謝りましたが、彼も謝ってくれました。しかし、彼の暴言は終わる事がありませんでした。その後輩の牧師を、「私は愛せるだろうか」と自問自答し時に、私は「無理やなあ」と思いました。その時から、Ⅰコリント15章の「無条件の愛がなければ、全てが空しくなる」というみ言葉を思い出して、悩むようになり、暗い気持ちで悶々としてソファーに座っていました。その時に、聖霊の細き御声がかかったのです。「あなたは既にどんな人も愛する人になっています」という声でした。私は、その細き御声によって、はっと気づいたのです。「キリストにあって私は既にキリストのようにどんな人も愛する事が出来る『神の徳』で満ち満ちたものとされているんだ」と。私は自分に残存している、「人を愛せない古き人」がキリストと共に十字架で死に、どんな人も愛せる人としてキリスと共に甦って、神の徳で満ち満ちているという事実を、知的にでなく聖霊によって諭されて知らされたのです。それが私の聖霊の諭しによる「体験的知」でした。その時から、「どんな人も愛されている人にされているという事実に安んじる」ようになり、愛する事において心配する事をやめました。その信仰に私の心に内住されている聖霊が働き、御霊の実である「愛、喜び、平安、・・」を結んで生かされる事を体験するようになったのです。

「イザ 30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。

神さまは、神さまの義に叶った「義の生活」「聖なる生活」「愛の生活」に飢え渇く者を、聖霊によってキリストとの共同の十字架の死と復活に与り、単数形の罪「アマルティア」から解放されている霊的事実に目が開かれ「聖化の道」を歩むようにそのキリスト者を導かれるのです。あなたも、聖霊の諭しを求めて、神の義に叶う「義の生活」「聖なる生活」「愛の生活」に飢え渇いて下さい。