「聖化の道を究めてⅢ」
聖書:ローマ6章1節~14節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
キリストを信じているクリスチャンがキリストのような人格者に日々変えられていくという「聖化の道」を究め、実際にキリストのような「正しい生活」「聖なる生活」「愛に満ちた生活」「謙遜な生活」を送るようになれば、キリストを否定している多くのユダヤ人がそのクリスチャンに妬みを感じて、キリストの救いに導かれるのです。現代の多くの「メシヤニックジュウ」と呼ばれているユダヤ人キリスト者は、「愛に満ちた異邦人キリスト者」に妬みを感じて、キリストに関心を持った事がきっかけでキリストを信じるようになったと言われています。「聖化の道を究め」て歩む事は、イスラエルを祝福する者として相応しい生き方です。
1、ローマ書のテーマは「神の義」
①1章1節~5章11節迄のテーマ「信仰義認」とルターの目覚め
ロマ書のテーマは「神の義」です。1:1~5:11までは、神は、罪びとをどのようにして義と認められるのかが重要なテーマとなっています。それは、イエス・キリストを信じる人がその信仰によって「義と認められる」という事をパウロは教えています。昔、宗教改革者のルターは、善行に努める者を神は義と認めて下さると思って、命がけで難行苦行に励み善行に努めていました。しかし、そのようにいくら努力しても神さまによって「義と認められた」という確信が持てず、不安に支配されていました。。ルターは、修道院で聖書を教える教師の働きをしていましたが、ある時、旧約聖書のハバクク書2章4節に「正しい人はその信仰によって生きる。」と書いてあることにはっと目が留まり、その後、彼は、ロマ書でも教えられている通り、罪びとが神さまによって「義と認められ」、罪が赦されるのは難行苦行や善行によらず、キリストを信じる信仰のみによるという事を知ったのです。そこから、当時のカトリック教会が間違った事を教えている事に気が付き、人が救われるのは難行苦行や善行によらず「キリストを信じる信仰のみ」を旗印に、宗教改革運動を進めるようになったと言われています。
②5章12節~8章39節迄のテーマ「聖化の道」とパウロの目覚め
以上のように、キリストを信じる信仰のみによって義とされ、罪赦されたキリスト者に対して、神は、神の聖なる御心に叶った道徳的に正しく生きる事、聖く生きる事、愛によって生きる事、謙遜に生きる事が神が求められている義だというのが、ロマ5章12節~8章39節のテーマとなっています。その、神の義に叶った道徳的に「正しい生き方」「聖なる生き方」「愛に生きる生き方」「謙遜な生き方」を、パウロは、救われた当初は、自分の意志の力によるものだと思い、罪びとを義として下さった神さまの愛に答えて、神さまの義に叶う道徳的に「正しい生き方」、「聖なる生き方」、「愛に生きる生き方」、「謙遜な生き方」を意志の力で努力し頑張り始めました。彼は、生まれた時からパリサイ人として育てられラビとなったユダヤ人の指導者でした。彼は、ユダヤ人の模範となってラビの仕事に打ち込んでいました。モーセ律法613の中で、「貪ってはならない」という、十戒の十戒め以外の、戒めは全部守っていると自信があったのです。彼は。キリストを信じて義とされる前の自分の人生を振りかえって次のように語っています。「ピリ3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」と。彼の意志がどれほど強かったことでしょうか。彼は、パリサイ人としていつも意志の力を尽くして、律法を守ってきたというのです。そのような習慣がありましたので、クリスチャンになっても彼は、自分の意志の力を使って「貪るな」という戒めをまもって道徳的に「正しい生活」「聖なる生活」「愛の生活「謙遜な生活」にチャレンジするようになりました。ところが、いくら、意志の力を振り絞って貪らないように努力しても、その努力とは裏腹に、何かあると「すぐに欲しがっている自分」がそこにいたのです。何度も何度も意志の力を振り絞って「貪らない」ように努めましたが、また、同じように自然と欲しがっている貪欲な自分がそこにいたのです。よく、「隣に蔵が建てば腹が立つ」と言いますが、私たちは、人を妬んだり恨んだりしてはいけないと思いつつも、隣人が幸福になり、人から褒められたり、称賛を受ければすぐに「妬み」の感情が湧いてきます。その妬みの感情は、貪欲である「幸福欲」や「称賛欲」が原因して湧いてくるとても自然な邪悪な感情です。妬みの感情で、素直に人の幸福を喜べない自分がそこにいる事を多くの人は体験的に知っていると思います。パウロは、道徳的に良くない、「妬み」「恨み」「憎しみ」という邪悪な感情は、「肉欲」「物質欲」「金銭欲」と共に「褒められたい」という「称賛の欲求」が貪りとなった結果だという事は良く知っていたのです。人間のからだの中にある「肉欲」「物質欲」「金銭欲」「称賛欲」等が貪欲になる事が、「道徳的罪」の根源なのです。ヤコブ書は「ヤコブ1:15欲がはらんで罪を生み」と、罪の根源は人間の自然な欲求の「貪欲」だとは教えています。そこで、パウロはなんとしても、からだの中にある肉欲と称賛欲が貪りにならないように、意志の力で抑え、自分の心が神の御心に叶った「正しい心」「聖い心」「愛の心」「謙遜な心」で生き、神の義にかなった生活をして聖なる神さまをお喜ばせしようと思ったわけです。しかし、熱意は持てても、現実は、いつも何かあるとすぐに「貪っている」自分を発見し、彼は「ああ悩めるかな」と、絶望の声をあげるようになったのです。その彼は、聖霊様によって次から次と諭しを与えられ、貪りから解放されて、道徳的に「正しく生きる道」「聖く生きる道」「愛に生きる道」「謙遜に生きる道」を見出すようになったのです。
2、ロマ書6章のテーマは単数形の罪「アマルティア」からの解放です
神さまの御心に叶った「正しい生き方」「聖い生き方」「愛の生き方」謙遜な生き方」を求めるパウロが、先ず知らされたのが、これまでお伝えしてきました単数形の罪「アマルティア」の存在でした。人が、貪って多くの邪悪な罪を犯しているのは、ギリシア語で単数形の罪で表現されている「アマルティア」にあるのです。その「アマルティア」は、アダムが罪を犯したときに、悪魔がこの世界にもたらしたのです。パウロはその事を、聖霊様によって知らされました。自分がどんなに意志の力を振り絞って頑張っても「アマルティア」には勝てない事をパウロは知ったのです。そのアマルティアの事をパウロはロマ書で何度でも教えています。
1)「ロマ3:19 私たちは前に、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」
2)「ロマ 5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、・・」
ロマ書6章では単数形の罪は「アマルティア」の奴隷になっている罪びとの人間が、どうすれば「罪(アマルティア)からの解放されるのか」というのがテーマになっています。6章で単数形の罪「アマルティア」が以下の通り15回も使用されているのです。
1)「6:1私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2) 6:2。罪に対して死んだ私たちが、・・」
3)「6:6、・・罪のからだが滅びて、・・」
4)「6:6 私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、」
5)「6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
6)「6:10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり」。
7)「6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、・・」
8)「6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
9)「6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。・・」
10)「6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです、」
11)「6:16・・あるいは罪の奴隷となって死に至り、・・」
12)「6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、・・」
13)「6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。 ・・ 」
14)「6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。・・」
15)「6:23 罪から来る報酬は死です。・・」
①キリスト以外の全ての人は「アマルティア」の奴隷である
ロマ6章では罪と訳されいるギリシア語の複数形が一度使用されています。それは15節の「罪を犯そう」の「罪」が複数形動詞「アマルタノー」が使用されています。
私たちは、この世界にはキリストにも働きかけて「貪欲」の罪を犯せようとした単数形の罪「アマルティア」が、キリスト以外の全ての人を自分の奴隷にしているのです。悪魔は、その罪の正体を隠しているようです。しかし、その正体を暴く人が出てきたのです。それがパウロです。パウロは神の御心に叶った道徳的に「正しい生き方」「聖なる生き方」「愛に満ちた生き方」「謙遜な生き方」を必死に追い求めた末に、知ったのが「アマルティア」の実態でした。パウロはそれを人格化して、その支配を受けて罪を犯している人間を「罪の奴隷」になっていると教えました。では、なぜ、人間はキリストを除いて全部「罪の奴隷」になって、繰り返し貪りの罪を初め、多くの恐ろしい罪を犯しているのでしょうか。それは、その人の性質が単数形の罪「アマルティア」の力に負ける性質を、アダムから遺伝によって受け継いでることにあります。その人間をパウロは「古い人」と呼んだのです。
②古い人とは
古い人という用語はパウロ書簡で3度だけ使用されています。
1)「ロマ 6:6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
2)「エペ 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、
3)「コロ 3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて」
以上のように、エペソ書では「古い人」の事を「人を欺く情欲によって腐敗していく古い人」と呼んでいます。
コロサイ書でも「コロ3:5地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。 3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。 3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。 3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 3:9 互いに偽りを言ってはいけません。」と古い人のからだを「地上のからだ」といい、その古い人のからだの諸部分である手足口鼻目口耳などが多くの罪を犯している事を教えています。
③古い人となった全人類は罪に堕落したアダムからの遺伝によって罪の性質を受け継いでいる
古い人が「アマルティア」の力に負ける傾向性という罪の性質は、アダムからの遺伝によって受け継がれた来た罪の性質ですので、改善の使用がないのです。その事を神さまはご存知ですが、人間がそれを知らないので、改善できると思って、一生懸命に難行苦行に励み、罪を犯さない人間になるように懸命に努力をするのです。しかし、どれだけ難行苦行を重ねて修行を積んでも、古い人の罪の性質は誕生した時から受け継いでいますので全く改善できません。それほど古い人は腐れ切っているのです。パウロは、そのことも発見したのです。彼は、自分の意志の力で「貪らないように」、難行苦行を重ねれば、やがて改善されて、貪らない人間になる事を期待したのですが、駄目だったのです。そして、ついに自分に絶望し「ああ悩めるかな」と叫んだのです。
④古い人のからだ中に住んでいる罪「アマルティア」
ロマ7章でパウロは、単数形の罪「アマルティア」が自分の内に住んでいると2回語っています。
1)「7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」
2)「7:20 それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」。
単数形の罪「アマルティア」は単に外側で働いているのでなく、古い人のからだ中に入り込んで働いている事をパウロは教えています。古い人のからだ中に入り込んで貪りを起こさせている罪「アマルティア」は、法則となって自分の体の中に宿っている事もパウロは知ったのです。
1)(新共同訳)「7:21それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」
2)(新共同訳)「7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」
アダムから罪の性質をもって生まれた人間である「古い人」は罪の性質と共にそのからだの中に単数形の罪である「アマルティア」を宿しているのです。それは同時に、からだの各器官に「罪の法則」が宿っている事だとパウロは知ったのです。
3、古い人をキリストと結び合わせる事が、単数形の罪「アマルティア」からの解放の道
古い人は、罪「アマルティア」を宿し、いつもその力によって罪を犯している存在で、改善のしようがないほど腐れ切っているのです。古い人はまるで罪の生産工場のようです。そこで、神さまが、古い人である罪人をアマルティアから解放し、アマルティアの力に負けない神の性質を持つ新しい人にする為にとられたのが、キリストを人類の最後の代表者として遣わして、キリストの中に古い人の全人類を包含させ、キリストと共に十字架で死なせ、キリストと共に葬り、キリストと共に復活をさせるという方法でした。
私たちは、キリストと共に、2000年昔十字架で共に死んだのです。その時に、アダムの罪によってこの世界に入り、古い人のからだ中に宿っている罪アマルティアに対して死んで、罪から解放され、罪の奴隷でなくなりました。その事を、聖霊によって諭されて知ったキリスト者が初めて洗礼を受ける事が可能となったのです。キリストに結ばれる洗礼を受けたそのキリスト者に対して神さまは、2000年昔、キリストと共に死に、共に葬られ、共に甦ったという、救いの御業を聖霊によって適用されるのです。
4、残存している古い人と古い人から湧いてくる貪欲に対処する方法
しかし、洗礼を受け、2000年昔の、キリストとの共同の死、共同の葬り、共同の復活に与ったキリスト者には、依然として古い人が残存しており、その為に古い人からの貪欲な思いが湧いてきます。また、その貪欲により様々な邪悪な思いが湧いてきて、からだの手足や口目鼻耳によって罪を犯させます。しかし、その残存している古い人は、キリストと共に2000年昔に十字架で死んだ事と、その救いを洗礼によって適用された事を知っているキリスト者は、それによって恐れる事をしません。その古い人と古い人の貪欲によって湧き上がる様々な邪悪な思いや感情は既に十字架で死んだ事を知っているからです。その知識に基づいて、古い人と古い人から起こって来る貪欲という情欲や様々な邪悪な思いを死んだものとしてキリストとの十字架の共同の死と共同の葬りに委ねて安んじるのです。その信仰に聖霊が働き、キリストにあって2000年昔に古い人が死んだ事を具現化し、そのキリスト者に罪「アマルティア」の力が及ばないようにして罪から解放し、そのキリスト者の思いとからだが罪を犯さないようにするのです。その事をパウロは「ロマ 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と教えました。
5、キリスト者に残存する古い人の死は、2000年昔のキリストの十字架の死の中にある
私たちは、自分のうちに「古い人の死」を見つける事は出来ません。2000年昔、キリストがわたしたちの罪を背負って十字架で死なれたと同じように、2000年昔、キリストは私たち古い人を背負って十字架で死なれたのです。そのキリストの十字架の死の中に私たちの古い人の死があるのです。キリストがわたしたちの罪を背負って下さったという事を私たちは実感で知る事はできませんが、聖霊の諭して頂いてその霊的事実を知るのです。キリストの贖罪の御業は、私たちが生まれる前の事ですので余計に実感で知る事は出来ません。それと同じで、キリストの十字架の死の中に私たちが含まれている事を感じて知る事はできません。それは、神がなされた目に見えない霊的出来事として起こったので、聖霊の諭しによって知るのです。キリストが誕生をされ、33年の生涯を歩み、十字架に死なれてから約2000年の歳月が過ぎましたが、この時代に生きているものだけでなく、既に亡くなった過去の人も含めて、さらにこれから誕生するであろう全ての人も含めて、キリストは目に見えない霊的事実として、見たり感じたり触ったりできない霊的事実として、人類を包含し、人類を背負って十字架で死なれたので、人類は全てその時に死んだのです。神さまはそれがお出来になるお方なのです。
6、神のなされた霊的事実としての救いの御業
私たちは、からだの中に心と霊を宿しています。その私たちを、神さまは目に見えない霊的事実として、2000年昔にキリストがユダヤのベツレヘムにお生まれになった時に包含され。キリストが十字架で死なれた時に、共に死に、キリストが葬られた時に共に葬られ、罪の力から解放され、罪を犯さない者とされたのです。どんなに古い人の邪悪な思いが現実に湧き起こって来ても、その事を聖霊によって諭して頂いて知っているキリスト者は、古い人と共にその邪悪な感情はキリストにあって死んだものとしてすぐに十字架に委ねて、安んじるのです。自分の意志の力で邪悪な感情を抑えようと闘う事はしません。キリストと共に十字架死んだ者として、十字架の死と葬りに委ねて、安んじて神に委ねるのです。神のなされたキリストにあっての霊的な救いの御業を聖霊が具現化して下さるのを信じて待つのです。そのキリスト者の信仰に聖霊が働き、十字架の死の力を働かせて実際に罪から解放された新しい人を体験させて下さるのです。
正にイザヤが言うように「イザヤ30:15 穏やかにして信頼しているならば力を得る」のです
7、自分の中に死はない
聖霊によって実際にキリストとの共同の死を体験するという意味では、十字架の死を体験しますが、その体験の前にいくら自分の中に古い人の死を見つけようとしても見つける事はできません。聖霊によって十字架の死を体験しようがしまいが関係なく、私たちは2000年昔のキリストの十字架の死によって死んだのです。キリストとの共同の死を自分の中に見つけようとすると、逆に聖霊による十字架の死の体験が遠ざかるのです。それ不信仰だからです。
「聖化の道」を歩み、キリストの如き人格者に変えられて正しい生活」「聖なる生活」「愛に満ちた生活」「謙遜な生活」に生きる為に、先ず必要な事は、2000年昔のキリストの十字架の死と、葬りと、甦りの中に、罪の性質をもって生まれた古い人である自分が含まれている事を、聖霊の諭しによって知るという「体験的知」に導かれる事です。
聖霊によって、2000年昔のキリストの十字架の死と、葬りと、甦りの中に、罪の性質をもって生まれた古い人である自分が含まれている事を聖霊が諭して下さるようにお祈り下さい。キリスト者の霊の中におられる聖霊は、その祈りに応答して必ず諭して下さるのです。信じましょう。
あなたも、キリストを信じて永遠の罪の赦しに預かり、同時に、「聖化の道を究めて」キリストのような人格者に変えられていく人となりますようにお祈りしています。