「聖化の道を究めてⅢ」
聖書:ローマ6章1節~14節
牧師:佐藤勝徳

 【はじめに】

お腹の中に子どもが宿れば、無事健康で元気な赤ちゃんが生まれる事を願います。無事、赤ちゃんが生まれれば、今度は、心身ともに健やかに育ち、社会に役に立つ、道徳的に正しい人として成長する事を願って、子育ての戦いが始まります。そのように、神様は、人が無地誕生した後、親の如く社会に役に立つ道徳的に正しい人として成長する事を願われます。その上でもう一つ神さまの願いがあります。それは、その子どもがいつかの時点で、十字架のキリストを自分の救い主として信じて、つみが永遠に赦され義人と認められる救いに与る事です。また、人が、キリストを信じて永遠の滅びから救われたあとは、そのキリスト者の人格が「キリストの如き人格者」へと「聖化」される事を願われます。。その願いは、私達伝道者、牧者の願いでもあります。パウロはその事を願って、宣教している事を証しています。「コロ1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。 1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」

1、聖化とは

それでは、救われたキリスト者が「キリストの如き人格者に成長する」という、聖化というのは具体的にそのキリスト者に何が起きるのでしょうか。その事を、わきまえておかないと、いつまでも聖化が進まない「幼子のキリスト者」に留まってしまいます。最初に、間違った聖化論をご紹介しておきます。「聖化というのは、生まれながらの人間の罪の性質が、だんだんときよめられて、キリストのような人格に変えられていく事」。この聖化の定義は間違った「聖化論」です。ですから、その聖化論に立っていくら自分がキリストの如く成長しますようにと祈っても、神様は何の応答もされません。なぜでしょうか。パウロは生まれながらの人間の事を「古い人」だと教えています。その古い人は、罪を犯したアダムからの遺伝により罪の性質を受け継いでいる存在で、改善が出来なく年を取ればとるほどに腐りきって行く存在だとパウロは教えています。その事は先週もお伝えしましたが、改めてお伝えしておきます。「エペ 4:22・・人を欺く情欲によって腐敗していく古い人・・」とパウロは教えています。生まれながらの罪の性質を持った古い人は「情欲」と呼ばれる貪欲によって増々腐敗が進んで行くのです、では、古い人が改善されて、良くなっていくという事が聖化でなければ、本当の聖化とは何でしょうか。それは、キリストを信じた時にそのキリスト者に永遠の命と共に神の性質が造りこまれます。その神の性質こそキリストが持っておられた聖なる性質です。聖化とは、キリスト者に残存する古い人の性質が段々と力を失い、それによって植え込まれた神の聖なる性質が明確に顕されてくることを意味します。聖化は聖なる神の性質が成長するのでなく、だんだんと明確になっていく事を意味しています。キリスト者はすでに神の聖なる性質に満ち満ちているのです。「コロ2:9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。」

2、聖化の恵みに与る基準

①第1の基準(キリストにあっての霊的事実を聖霊によって知る)

その、聖化の恵みに与るの為の第1の基準は、2000年昔、キリストが十字架で死んだ時に、古い自分が共に死んだ事、キリストと共に葬られた事、キリスと共に甦った事、キリストと共に天の座に着き、父なる神に仕えるものとされているという事を、聖霊の諭しによって知るという事です。これが「聖化」の恵みに与る第1の基準です。多くの説教者が「聖化論」を説くときに、その事を強調しないので、多くのキリスト者が聖化の道を究める事が出来ずに、苦しんでいるのではないかと思います。2000年昔の、キリストの十字架の死の中に自分が含まれている事、キリストの葬りの中に自分が含まれている事、キリストの復活に自分が含まれている事、キリストの昇天に自分が含まれている事を聖霊によって諭された知ったキリスト者が、その事実に基づいて、地上の歩みをすることを、パウロは、6章17節で「ロマ伝えられた教えの規準に心から服従し・・」と教えています。その基準に従って歩むキリスト者が栄光から栄光へと「キリストの姿」が明確に顕されて行くのです。それ故に、パウロはその基準に従って歩むキリスト者に神の祝福があるように祈っているとガラテヤ書で教えています。「ガラ14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。6:16 この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

②第2の基準(キリストにあっての霊的事実を認め続ける)

2000年昔のキリストの十字架の死と葬りと復活と昇天に自分が含まれている霊的事実を聖霊によって諭され知ったという第1の基準の次は、その霊的事実を霊的事実として認め続ける事が絶対的に正しい事として安んじる事です。例えば、誰か隣人が人から賞賛を受け時、その事を妬み、隣人が称賛を受けた事を一緒に喜べない古き自分に気づいた時に、キリストにある霊的事実を即自分に適用して安んじるんです。妬む古い自分はキリストと共に死に、人の幸福を共に喜ぶものとなっていると安んじるのです。その信仰に聖霊が働き、古き人に十字架の死を働かせ、罪から解放し、人の幸福を喜ぶ御霊の実を魂に実現して下さるのです。日々、その事を自分の生活の基準にして生きて行くと、古き人は段々と力を失い、植え込まれた聖なる神の性質が段々と明確にあらわれてくるようにして下さるのです。聖霊によって、知らされたキリストにある霊的事実を認め続け信じ続けて安んじる事が必要です。しかし、聖霊によってその霊的事実を諭されて知らされていない人は、知的に理解しているだけですので、実際に死んでいない古き人に気づくと、死んでいないと思ってしまうのです。悪魔がその時に、ささやくのです。あなたは死んでいないと。しかし、聖霊によって諭され知った人も、悪魔の嘘に騙されてしまう可能性があるのです。古い自分に気づいたときに、やはり死んでいないのかなあと疑ってしますのです。 思い続ける事は、先に聖霊によって知らされた後に行う在り方です。その事を、聖霊によって知らされていない人に、いくらキリストと共に十字架で死に葬られ甦り昇天したと思いけなさいと語っても、その人に何の力もならないのです。

キリスト者が「聖化」の恵みに与る基準は第1に、聖霊によってキリストにある霊的事実を諭されて知る事、第2の基準はは知らされた事を認め続けて安んじる事です。

③第3の基準(死ぬべきからだを罪に支配させない)

では第3の基準は何でしょうか。それは、「ロマ6:12 死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。」という事です。その基準の意味する事はこういう事です。私たちのからだはアダムの罪によって罪と死がこの世界に入ってきましたので、死ぬべきからだとなっています。単数形の罪「アマルティア」は、私たちの死ぬべきからだを支配して、貪欲を起こさせそれに従うように仕向けてきます。その事について私の体験を証すれば、より分かりやすいと思います。私は、キリストにある霊的事実を聖霊によって諭されたあと、有る会議である人の発言でイライラさせられたのです。しかし、私は、イライラする古き自分がキリストと共に十字架で死んだ事を知っていましたので、私は、その古き自分を冷静に見つめ、こいつは死んでいるんだから、イライラする自分を否定して十字架に委ねて安んじればよいという事を聖霊は教えて下さったので、イライラした事を会議の同席の皆様に謝罪し、それ以上に悩むことをしないようにしたのです。そして、私は、古きイライラする自分はキリストと共に死んだと思い続け、安んじ続ける事にしたのです。同時にイライラさせられた出来事も感謝したのです。するとイライラから解放されていったのです。死んだからだを罪に支配させないで、貪欲にならないようにするための基準は、古い自分に気づけば、それは十字架でキリストと共に死んだものとしてすぐに否定し、十字架の死に委ねて安んじる事です。そして古い自分が湧き起こって来るような出来事に対して感謝を捧げるのです。そうすれば、聖霊によって罪から解放され、死ぬべきからだが貪欲の罪を犯す事から解放される事を体験していくのです。そのような生き方が聖化の為の第3の基準です。もし、皆さんが家庭や職場や学校や地域社会で、会議の時に、イライラさせられるような発言や行動に遭遇した時、イライラしている古き自分を、キリストにある霊的事実に立って、否定せずに十字架に委ねなければ、罪「アマルティア」によって増々支配されて、死ぬべきからだがさらに情欲と貪欲に囚われて、人間関係をこじらせてしまう結果を生み出すのです。そうすれば、聖霊の働きは消えて「聖化」の恵みを失うのです。そのような事に遭遇すれば、すぐにキリストにある事実に基づいてイライラする古き自分を否定し、十字架に委ねて安んじ、同時に、自分をイライラさせている人を、心から尊び喜び愛するものとされているという霊的事実に立って、私はその人を喜び尊び愛するものですと宣言して安んじるのです。そして、いつでも感謝するものとされているという事実に安んじて、だから感謝しますと宣言し安んじましょう。。その信仰に、聖霊が働き、御霊の実によってその人を愛し喜んでいる自分を体験させて下さるのです。そのようにして、私たちは死ぬべきからだを罪の支配から解放し、貪欲を持たないものとするのです。

私たちの住んでいる世界は、性的誘惑が沢山あります。古き人というのは男性も女性も、淫らな映画や本や絵画を見て楽しんだり、淫らな会話を楽しんだり傾向性があります。もし、そのような淫らな事を楽しもうとする古き自分に気づいたら、その古き自分はキリストと共に十字架で死んだものとして、すぐに否定し、十字架に委ねて安んじ、情欲に囚われないきよい自分にされている事に安んじ、感謝しましょう。そうすれば、聖霊によってその淫らな情欲を楽しもうとする古き自分に聖霊が十字架の死の力を働かせ、罪(アマルテ4ィア)から解放し、死ぬべきからだを情欲という貪欲から解放し、聖きに生きる新しい自分を体験させて下さるのです。

④第4の基準(手足を不義の道具として罪に捧げない)

続けて、第4の基準を学びましょう。それは「ロマ6:13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。」という事です。手足と訳されているギリシャ語は体の一部を意味する「メロス」の複数形「メレー」が使用されていますので、直訳すればからだの諸部分となります。口語訳では「肢体」と訳され、共同訳では「五体」と訳され、リビングバイブルでは「体のどんな部分」と訳しています。つまり、死ぬべきからだの各器官とからだの中にある心も含めて不義の道具として単数形の罪「アマルティア」にささげてはいけないとパウロは命じています。罪「アマルティア」は、私たちのからだの手、足、目、耳、鼻、口、思いを不義の道具として罪を犯させようとしているわけです。そのような、罪「アマルティア」に献身して、自分の手と足と耳と鼻と口と思いがいつも罪を犯すようなことが絶対にあってはならないというのがパウロの教えです。例えば、手で誰かを叩こうとするとします。それをそのまま放置している事は、罪の支配に手を捧げた事になり、その手で、人を叩くという暴力の罪を犯す事になるのです。その手で、何かを盗もうと考えたたします。その考えを放置する事は、罪に手を捧げた事になり、盗みの罪を犯すことになるのです。また、足で誰かを蹴飛ばそうとします。それを放置している事は、罪に足を捧げた事になり、人を蹴飛ばす暴力の罪を犯す事になります。目で、誰かに向かって恨みの思いのこもったきつい目を向けたりしようとようとしたとき、それを放置していると、それは目を罪にささげた事になり、その目で人を傷つける罪を犯すことになります。人がだれかの陰口や悪口を言っている事を楽しもうとして耳を傾けると、それは耳を罪にささげた事になり、耳を悪の為に使った事になります。鼻で、人を「ふーっん」と小ばかにしたり、鼻であしらったりして人を見下げたりすることもあります。そのように鼻を使う事は罪に鼻を捧げた事になります。また、人の悪口陰口を言いたいときに、その口を放置している事は罪に口を捧げた事になり、陰口悪口の罪を犯すことになります。それら罪を犯す諸器官は全て古き人に属し、罪の(アマルティア)に支配された古き人のなす罪です。そのようにツミ(アマルティア)に支配された罪を犯さない為に、罪を犯す体の諸器官と心を持つ古き人は、キリストと共に十字架で死に葬られたものであり、罪に対して死んだものだとして、十字架に委ねて安んじましょう。そうすれば、聖霊が私たちのからだの諸部分を、罪(アマルティア)の支配から解放され、不義の道具とはならないようにするのです。例えば、誰かの陰口悪口を自分の口がしゃべろうとしている事に気づいたときに、その悪口陰口を言うとする邪悪な思いと口はキリストと共に十字架に死んだものとして否定し、十字架の死に委ねて安んじて感謝しましょう。そうすれば、キリスト者に内住されている聖霊が働き、邪悪な思いを取り除き、口が悪口陰口を言わないように十字架の死の力を働かせてくださるのです。

⑤第5の基準(新しい自分を捧げる献身)

第五の基準は、古き自分がキリストと共に死に、共に葬られ、共に甦って神の性質に満ち満ちた新しい人にされたという、霊的事実に基づいて、その新しい自分を全て神さまに捧げる事です。パウロが次のように教えています。「ロマ6:13bむしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。」

献身というのは、古い自分を捧げる事ではありません。キリストと共に死に、共に葬られ、共に甦り共に天の座に着いた新しい自分を捧げなさいとパウロは教えています。献身というと、よく伝道者や牧師になる事を意味して使われますが、ロマ書の意味する献身はそうではありません。自分が、キリストにあって新しくされたので、自分の能力、自分の時間、自分の財産、自分のパソコン、自分の自動車、自分の服、自分の家、自分の趣味、自分の家族、自分の仕事等全てを神さまに捧げ、何一つ自分のものとして使う事を否定する事です。それがロマ書の教える「献身」です。キリストにあって、新しくされた者として献身に生きる事が、聖化の為の第5の基準です。 私たちは、創造主によって、全ては神のものとして創造された事に基づいて献身をしなければなりませんでしたが、神から離れ、全てを自分勝手に使うようになり、罪に堕落してしまい、献身の道を失いました。しかし、神はもう一度献身の道を開いて下さいました。それは、キリストの十字架の血によって人類の罪を取り除くという贖罪によって、その道が開かれました。しかし、神に献身するというのは、古い自分を捧げる事でなく、キリストにあって新しくされた自分をささげる事だとパウロは教えています。その献身について6章19節では「ロマ6:19 今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」と教えています。。聖潔と訳されているギリシャ語は「アギアスモス」ですが、英訳では「ホーリネス)」と訳されています。キリスト教会の中に「ホーリネス教団」とか「ホーリネスの群れ」と呼ばれるグループがあり、キリスト者が「聖化の道」を歩むことを熱しに説いています。そのホーリネスが日本語訳では「聖潔」とか「聖」と訳されています。聖というのは、何の罪も無いという意味と共に、もう一つ大事な意味があります。それは、神のものとして特別に区別されたという意味です。神のために区別されたという意味の「聖」には、汚れがないとか、問題が無いという事は問われず、例え問題があっても神のものとして特別に区別されたという意味の「聖」なる存在として、神さまが喜ばれるわけです。私たちキリスト者は、主にあって古きは過ぎ去り、新しい聖なる者として天の座に導かれています。しかし、同時に地上では現実的には様々な欠点や汚れや問題を抱えています。それでも、神の御前には特別に区別された「聖なる者」なので、聖徒と呼ばれています。私たちはキリストにあっては神の聖なる性質に満ち満ちたものとして聖なるものですが、同時に、まだ古き人を残存させているという欠点があります。それでも神のものとして特別に聖別された聖なる者です。私たちはキリストにあって新しい人にされているという事と、神のものとして聖別されているという理由で、神さまに自分の全てをささげる事が求められているのです。

3、献身して生きるとは

ある時、一人のキリスト者が友人のキリスト者に、有るキリスト者の欠点ついて批判をし始めました。その後、他人の欠点を批判した兄弟が、自分の口を使って他者に対して愛の無い批判してしまった事を悔いて、二度とこの口を愛の無い批判の為に使わないぞと決心ました。また、その批判を黙って聞いていた友人に向かって二度と無意味に他者の批判をしませんと誓いました。それが献身でありホーリネスなのです。また、ある3人の人たちが、トランプしようと思いました。しかし、そのトランプの為には、4人必要だったので、もう一人の友人に仲間に加わるように頼みました。しかし頼まれた友人は断りました。彼は「すみませんが、私にはトランプをする手がないのです」と言って断ったのです。三人の友人はびっくりして、「え。それはどう意味だ」と、たずねると、「私の手は神さまに捧げたもので、私の自由にはならないのです」と説明したのです。彼は聖徒のクリスチャンだったのです。その態度が、献身している事であり、ホーリネスに生きている事であり、「聖化の道」を歩んでいる事なのです。

【終わりに】

キリストにある者は、キリストと共に十字架で死に、葬られ、甦り、キリストと共に父なる神の右の座に座すものとされています。キリストにあるキリスト者は、キリストにあって天において父なる神に仕える完全な者とされているのです。キリストにある者はキリストにあって天に属し完全な者とされていると自覚しましょう。しかし、この地上にあっては罪を犯す可能性を持つ不完全なものです。その不完全な地上にあるキリスト者である私たちが神さまに聖別された聖徒として、聖化の道を歩んで行くには、今日学びました5つの基準を身に着けて歩む事が必要なのです

聖霊様によって「聖化の道を究めて歩み」、キリストの如き人格にお互いが変えられていく道は、キリストにあっての生きる基準に従順に従う事にあるのです。