「聖化の道を究めてⅤ」
聖書:ローマ6章15節~23節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】

今朝は、ローマ6章15節から23節のみ言葉から「聖化の道を究めてⅤ」という事で、「聖化の道」を学びたいと思います。ローマ6:19に「聖潔に進みなさい」とありますが、「聖潔」の事を神学的には「聖化」と呼んでいます。ではキリスト者が「聖化」されるというのはどういう意味でしょうか。それは、生まれながらの人間、つまり罪の性質をもって生まれた古い人が、聖書を毎日読んで、毎日祈って、毎週礼拝に出席をして、またいろいろな聖会や修練会などに参加して、良きメッセージをたくさん聞いて、時に徹夜で祈ったり、断食して祈ったりしてだんだんと改善され、道徳的に良い人間になっていく事でしょうか。そうではないのです。その事を知る為に、創造主の神さまが、人間を創造された目的を知っておく事が重要です。

1、人間が創造された目的は神の栄光を顕す事です

人間が創造された目的は、神の栄光を顕す存在として生きる事です。神の栄光である神さまの正義、神さまの聖、神さまの愛、神さまの謙遜を顕し、神の栄光を輝かせる事が人間の創造された目的です。ローマ書では神さまと関連して「栄光」という言葉が18回も使用されています。「9:23 しかもそれが、栄光のため」とか、「ローマ 15:7 ですから、神の栄光のため」とあります。パウロはローマのキリスト者達が「神の栄光の為に神にお仕えする」事を命じています。

しかし、人間はアダムにあって罪に堕落して多くの罪を犯すようになり、神の栄光である「神の正義」「神の聖」「神の愛」「神の謙遜」を顕して生きて行く事が出来なくなりました。そのことをパウロは次のように教えています。

「ローマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、・・」と。堕落というのは、、神の聖なる命と性質によって顕される「神の正義」「神の聖「」神の愛」「神の謙遜」を顕さない存在になっている事を言います。どんなに人間が良い人となって人間の正義、人間の聖、人間の愛、人間の謙遜を表わしても、それは人間に栄光を帰するだけで、神に栄光を帰する事はできません。人間は自分の栄光を顕し、自分に栄光を帰する為に創造されたのではないのです。あくまでも、神の栄光である神の永遠の命と神の聖なる性質によって顕される「神の正義」「神の聖」「神の愛」「神の謙遜」を顕して、神が賛美され、神に栄光を帰する為に創造されたのです。その為には、人間は神の永遠の命と神の聖なる性質を持つ必要があるのです。卑近な例ですが、有る訓練された大変立派な犬がいたとします。その犬は、どんなに立派な良い犬であっても、人間ではありませんので、人間の栄光を顕す事はできません。犬の栄光だけです。もし、その犬に人間の心や知恵や意志という人間の命が与えられて、姿は犬でありながら、アニメに出てくるような人間のように語り、人間のような振る舞いをすれば、その犬は犬でありながら人間の栄光を顕している事になります。そのようなに神さまは、人間が人間の形と姿をしたままで神の永遠の命と神の聖なる性質をもって、神のように生きて神の栄光を顕す事を願われたのです。それが最初の、アダムが創造された時の神さまの御心でした。神さまが、人間をご自分の霊の形に似せて創造されたのは、その為であったのです。神さまは霊ですが人間のからだに似た形をお持ちなのです。神さまが霊でありながら、人間のような体の形をお持ちであった事は、創世記3章で神さまがエデンの園を歩きまわっておられる事で教えられています。また、イザヤ書6章でも、天にいます神さまが衣を着ておられ、その裾をイザヤが見ております。神さまが衣を着ておられた事は、神さまは無限のお方でありながらも人間のからだのような形をお持ちだという事を聖書は教えています。人間の霊とからだは霊である神さまがお持ちであった霊の形に似せて創造され、それに人間としての人格性や道徳性が付与されたのです。その人間が、単に道徳的に立派な存在としての人間として生きるのでなく、神の栄光である神の永遠の命と神の聖なる性質から顕される神の正義と神の聖と神の愛と神の謙遜により、神の栄光を顕しつつ万物を統治し、万物を支配する事を神さまは願われたのです。その為に、神様はエデンの園に「神の永遠の命」に与り、「神の聖なる性質」を造りこむ「いのちの木」を植えておられたのです。しかし、アダムとエバは、、そのいのちの木から実をとって食べて神の命と性質に与る前に、サタンの罠によって善悪を知る木から獲って食べてしまい、神から離れて、人間の知恵や賢さや力で生きて行く「人間中心主義」のヒューマニズムによって生きる存在になったのです。それが人間の堕落です。堕落というのは、邪悪な罪を犯す事だけでなく、創造主の神さまに栄光を帰さないで「人間中心主義」の博愛主義に生きる事も、聖書は罪であり堕落だと教えています。

2、信仰によって義と認められたキリスト者が神の子となって聖化の道を歩む

聖化というのは、神の永遠の命と神の聖なる性質もって約33年間地上を歩まれたイエス・キリストのように生きる人間になる事です。その聖化の道を歩む為には、先ず「神の永遠いのち」を持ち「神の聖なる性質」を造りこんでいただく必要があります。神さまの「永遠の命」に与らせ、「神の聖なる性質」を造りこんで下さるのが聖霊の働きです。では、聖霊の働きで、「神の永遠の命」に与り、「神の聖なる性質」を造りこんで頂くにはどうすれば良いのでしょうか。それは聖霊の助けにより、2000年昔に、旧約聖書に預言されている通り、人類の全て罪を背負って十字架にかかり身代わりの刑罰を受けて血を流し、葬られ、三日目にご復活をされたイエス・キリストを自分の救い主だと信じる信仰によるのです。その信仰に聖霊が働き、その人に神の永遠の命を付与し、神の聖なる性質を造りこみ、神の栄光を顕し、神の栄光の為に生きる事が可能となる神の子として下さるのです。キリストのように神の永遠の命を持ち、神の聖なる性質に満ち満ち、神の栄光の為に生きる神の子となったキリスト者が「聖化の道」を歩むのです。パウロは、神の賜物は「永遠の命」だと教えていますが、聖化の道を歩むキリスト者は増々神さまの永遠の命が溢れるようになるのです。

パウロはローマ3章で、信仰義認を教えていますが、人はキリストを神の永遠の裁きからの救い主だと信じる信仰によって義とされ、永遠に罪赦され、神の永遠の命に与り、神の聖なる性質を造りこまれ神の子となるのです。

「ロマ3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

3,人となられたキリストとキリスト者は共に神の子である

信仰によって義と認められて永遠の命を得、神の聖なる性質が造りこまれ、新生した神の子には、聖霊とキリストが内住しておられる事も、聖書は教えています。「エペ1:13この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」「コロ1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

神さまが人間を創造された永遠の目的は、人間となったキリストのような神の子を沢山造り、それによって神の栄光を顕す事です。キリストは神の永遠の命に満ち溢れ、神の聖なる性質に満ち満ちておられ、それによって神の栄光である「神の正義」「神の聖」「神の愛」「神の謙遜」を顕しながら、地上の生涯を歩まれました。そのキリストが持たれていたように、神の永遠の命に与り、神の聖なる性質を造りこまれて地上を歩んでいるのが、キリストを信じて罪が赦され永遠に義と認められたキリスト者です。キリスト者は神の子ですが、その神の子の長子が人なれれたキリストです。キリストは、神の子となったキリスト者のお兄さんであり、又、兄弟なのです。キリストとキリスト者は大変親しい間柄にされた神の家族なのです。

「ローマ8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

「ヘブル2:1主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない・・・・」

アダムは、人間となった神の御子を原型に創造されました。人間のからだと霊の形は、御子からだと霊の形に創造されましたが、私達キリスト者は天地の造られる前から、人となられた形のあるからだと霊をお持ちの御子のように、形のあるからだと霊を持ち、また同じ姿である「永遠の命を宿し、神の聖なる性質を持つ者」として、あらかじめ定められていたのです。そのようなキリスト者が初めて「聖化」の道を歩み、キリストのような神の子の人格に栄光から栄光へと変えられていくのです。

4,聖化の為の基準

その聖化の道を、パウロは聖潔に至る為の「基準」だと教えたのです。その基準を、パウロは6章で教えています。

その聖化の恵みに与る為の第1の基準は2千年昔、キリストが十字架で死んだ時に罪の性質を持って生まれた古い自分が共に死んだ事、キリストと共に葬られた事、キリスと共に甦った事、キリストと共に天の座に着き、父なる神に仕えるものとされているという事を、聖霊の諭しによって知るという事です。第2の基準は、2千年昔のキリストの十字架の死と葬りと復活と昇天に自分が含まれている霊的事実を聖霊によって諭され知った霊的事実を、サタンが「嘘だ!」と言いますので、それに惑わされずに、認め続ける事です。第3の基準、それは、「死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません」」という事です。第4の基準は、 「あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません」という事です。第5の基準は、古き自分がキリストと共に死に、共に葬られ、共に甦って神の性質に満ち満ちた新しい人にされたという、霊的事実に基づいて、その新しい自分と手足を義の道具として神に捧げる事です。「むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」。

5,罪「アマルティア」の奴隷からの解放の道

ローマ6:15~23は、「献身」の意味を更に詳しく教えています。この献身の意味を正しく理解するには、「罪の奴隷」という言葉の意味を正しく知っておく必要があります。パウロは6:15~23で「罪の奴隷」ということばを3回使っています。

罪の奴隷の「罪」というのは、日本語訳では、それが複数形なのか単数形なのか分かりませんが、原語のギリシア語で単数形の罪「アマルティア」が使用されています。この単数形の罪「アマルティア」と、複数形の罪「アマルティア」とでは意味が異なります。「ローマ 4:7幸いなことよ、不法を赦され、をおおわれた人たち・・」の罪は、複数形の罪「アマルティアイ」が使用されています。複数形の罪「アマルティアイ」は英訳では「sins」シンズと訳されています。複数形の罪「アマルティアイ」は、人間が犯す多くの罪の事を意味しています。では、単数形の罪「アマルティア」の意味は何でしょうか。それは、アダムが罪に堕落した時にこの世界に悪魔によって入りこんで来たもので、罪に堕落した人間を支配して貪欲の罪を犯させ、その貪欲によって人間に多くの罪を犯させている悪の力の事を意味しています。その強大な悪の力である罪の支配下にある事をパウロは次のように教えています。「ローマ3:9・・私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです」。その強大な悪の力である罪はアダムの堕落によって世界に入って来たとパウロは教えています。「ローマ5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、・・」

アダムの堕落によってこの世界に入って来て、全ての人間を支配し、奴隷にし、「貪欲の罪」を犯させ、それによって罪を犯させている強大な悪の力をパウロは単数形の罪「アマルティア」で表しているわけです。キリストもその悪の力である罪の働きを受けましたが、すべて退けられました。しかし、キリスト以外の人間である「古い人」と呼ばれる罪の性質をアダムから受け継いでいる人間は、誰もがその強大な悪である罪「アマルティア」に支配され奴隷となっているのです。この、「アマルティア」から解放されない限り、私たち人間は、貪欲の罪と貪欲から湧き起こって来る様々な邪悪な思いと、その邪悪な思いによって私たちの手足が多く罪を犯す事から解放されません。そこで、神さまは、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちを罪「アマルティア」から解放して、キリストのように神の栄光である「神の正義」「神の聖」「神の愛」「神の謙遜」を顕しながら生きるキリスト者にする為の救いの御業をなされました。それが、人類の最後の代表者である「最後のアダム」としてキリストをこの世界に遣わし、そのキリストの中に古い人であるに全人類を包含させ、キリストが十字架で死ぬ時に、共に死ぬうようにされたという事です。罪の奴隷である「古い人」は、2000年昔に、キリストが十字架で死んだ時に共に死んだのです。死んだという事は、罪「アマルティア」から解放された事を意味しています。罪「アマルティア」が、死んでいる古い人に貪欲を持つように働いても、古い人は何の反応もしません。死んだ古い人は罪から解放されたのです。「ロマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです」。罪の奴隷である私たち人間は、2000年昔、キリストと共に十字架で死んで罪から解放されたのです。これから解放されるのでなく、キリストにあって既に解放されたのです。同時に、キリストと共に甦り、共に天座に座し父なる神に喜ばれる生き方をするものとなったのです。これからなるのでなく、既になったのです。「ロマ6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」。同じことをパウロはエペソ書でも教えています。「エペ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです── 2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」

6、開かれた献身の道を歩むとは

2000年昔にキリストと共に死に、共に葬られ、共に甦り、共に天の座に導かれたものとなったという、霊的事実を聖霊によって諭されて、知ったキリスト者が初めて、ローマ6章に15節から23節の献身の道に生きる事が可能となるのです。パウロは、キリストと共に天に導かれた新しい自分を捧げなさいと明確に教えています。献身というのは、古い何かを捧げるのでなく、地上の自分がキリストにあって新しくなり天に導かれているものだという、霊的事実に基づいて自己の全てを100%ささげきる事が献身です。五つのパンと二匹の魚をキリストにささげた少年のように、キリストにあって、罪が赦され、永遠の命が与えられ、神の聖なる性質にあずかり、キリストと共に天に導かれている故に、自分の全てを父なる神にささげる事がパウロの教える「献身」です。パウロは、キリストにあって天に導かれて初めて献身の道を歩む人となった新しい人は、律法の下にでなく恵みの下に生かされていると教えています。律法の下にいないというのは、どういう意味でしょうか。それは、生まれながらの人間の意思の力で守らなければならない、モーセの十戒の中で教えられている安息日の掟を除いた9つの道徳的律法の下にいないという事です。では恵みの下に置かれているというのはどういう事でしょうか。それは、モーセの十戒の中の9つの律法「偶像を造るな」「偶像を拝むな」「神の聖なる聖名を汚すな」「両親を敬え」「姦淫するな」「盗むな」「殺すな」「嘘をつくな」「貪るな」を神の恵みによって実行できるようにされているという事です。キリストと共に十字架にかかり、共に葬られ、共に甦り、共に天の父なる神の座に着いたキリスト者は、律法の下にでなく恵みの下にあって神の9つ律法を守り実行できる存在にされているというのがパウロの教えです。その、福音を聞いた人の中に、「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。」という疑問を持つ者が出てきました。つまり、神の恵みによって律法守る事が出来れば、私たちは何もしなくても良いのか。邪悪な貪欲や思いが起こって来て罪を犯していても何もしなくても良いのか。何もしなくても、神の恵みで、罪を犯さないようになるのだろうか」という質問です。それに対してパウロは「断じてそうではない」と宣言しました。地上にあるキリスト者は確かに、キリストにあってキリストと共に天に導かれ天に属し、恵みの下にあるのですが、同時に地上にあるキリスト者は罪(マルティアイ)に仕える古い人を残存させています。その古い人が「アマルティア」によって持たされる貪欲とその貪欲による様々な妬みや憎しみや恨みなどの邪悪な思いが湧起き起こって来た時は、それらは古い人と共にキリストにあって死んで葬られたものとして否定し、キリストの十字架の死と葬りに委ねて安んじるという、信仰の意思を働かせる必要があるのです。その信仰に聖霊が働き、その時その時、十字架の死の力を古い人に働かせて、罪「アマルティア」の支配から解放するのです。罪の支配に任せて罪の奴隷にならないように、いつも古い人と古い人から起こって来る邪悪な思いを十字架の死に委ねて安んじれば、神さまが聖霊によってご支配して下さるのです。それが、、神と義の支配に委ね、自分の手足を義の道具として捧げる事の第1歩なのです。

キリストにあって共に天に導かれた事を知った地上のキリスト者の前に、二つの道があります。その為に正しく選択する意志を働かせなければなりません。一つは、罪の支配に委ねて罪の奴隷となって多くの罪を犯し、神との交わりの断絶である霊的死に至る道を選ぶか、もう一つは、神の支配の下に自分を捧げて、神の栄光である永遠の命に与り、永遠の命によってキリストの如く正しく、きよく、愛に満ち、謙遜に生き「聖化の道」を歩むか、どちらかを自分の意志で選択しなければなりません。キリスト者は、神の栄光の為に、キリストと共に天に属する者として、いつも地上の古い人を否定し、古い人はキリストと共に死んだものとして十字架の死に委ねて安んじその信仰によって聖霊の働きを豊かに受けながら、聖霊のお導きの中に生きる道を選択する事、それが開かれた「献身の道」を歩むことを意味しています。

あなたも「聖化の道を究めて」、神の栄光の為に、キリストにような神の子として歩むキリスト者になられるようにお祈りしています。