「聖化の道を究めてⅥ」
聖書:ローマ7章1節~25節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
6章の「罪からの解放の福音」だけで「聖化の道」が充分に論じられているように思うのですが、その為にはもう一つ重要なテーマを会得しておく必要があるのです。それは7章の「律法からの解放」の道を学ぶ事です。。「律法からの解放」については、6章でパウロがちらっと教えていました。「6:14というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」。6章14節で、キリストにあって、キリストと共に十字架で死に、共に葬られ、共に甦り、共に天の父なる神の下に導かれている、キリストにある者は「律法の下になく、恵みの下にある」と、律法から解放されている事をパウロは教えています。ではなぜ、私たちは律法から解放される必要があるのでしょうか。
1、私たちが解放されなければならない律法とは
私たちが解放されなければならない律法は、人間の意志の力で守る事が求められている律法です。その意味で、 7章だけで16回使用されています。その律法と同義語の「戒め」が6回使用されています。それは、モーセの十戒の「偶像を拝むな」「偶像を造るな」「主の名を汚すな」「両親を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「嘘をつくな」「貪るな」という、9つの道徳的律法である9つの戒めの事です。これらの律法、これらの戒めは、イスラエルの民だけに求められている律法ではなく、全人類に求められている律法です。その事は、全ての人の良心にその律法が書かれているという、事実によって明らかだとパウロは教えています。「ローマ2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──・・・1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです」。神さまは全ての人に良心を与え、その良心に九つの律法を書き込まれているのです。7章では、パウロのその中の「貪るな」を取り上げて、律法からの解放を論じています。パウロは、これらの律法は聖なるもので良いものだと教えています。人間の意志の力で守らなければならない律法そのものは、罪でもなく悪でもないのです。良いものです。ではなぜ。その聖なる良いものから私たちは解放されなければならないのでしょうか。その理由の第1は、人間の意志の力では、その聖なる良い律法である「貪るな」を守る事が出来ないという事です。しかし、多くの人は、人間の意志の力で守る事が出来ると思い、一所懸命に守る努力をしています。道徳的に立派な人間になるために、学校でも、会社でも、キリスト教だけでなく、色々な宗教においても、それが努力目標になっています。その努力によって、外面的には道徳的に立派な人間になる事が出来るのです。そして、人から良い人として称賛を受けるようになります。なのに、なぜ。律法から解放されなければならないのでしょうか。それは、外面的に良い人となるだけで、心は増々貪欲に満ちたものとなって行くからです。一所懸命努力している人は、自分の努力を誇り、努力しない人を見下げ、人から賞賛される事を求める貪りが増大するのです。キリスト時代のパリサイ人たちがそうでした。彼らは、道徳的にも宗教的にも良い人間となる事を目標にモーセ律法を守る為に、断食と祈り等、色々と努力をした人達で、当時のユダヤ社会では一般の市民から大変尊敬され、サンヒドリンという70人議会の政治的指導者にもなっていました。しかし、イエス様はその彼らが、心は貪欲で満ちていましたので、「白く塗られた墓」だと、彼らの偽善を厳しく指摘されたのです。「マタ 23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです」と。
「貪るな」という律法を人間の意志の力で守ろうとすればするほど、罪に堕落した人間の心は増々貪欲になっていくのです。では、なぜ、その聖なる良い律法を人間の意志の力で守ろうとすれば、増々心は貪欲になっていくのでしょうか。律法が単数形の罪「アマルティア」なのでしょうか。そうではありません。それは、心を含めた人のからだの中には、良い律法とは異なる単数形の罪「アマルティア」が法則となって住んでいる事によります。
2,人のからだに住んでいる罪が悪の法則となっている
単数形の罪「アマルティア」が法則となって住んでいる事をパウロは次のように教えています。17節「私のうちに住みついている罪」、20節「私のうちに住む罪です」、21節「私に悪が宿っているという原理」、23節「からだの中には異なった律法があって」、23節「からだの中にある罪の律法のとりこにしている」、25節「肉では罪の律法(原理)に仕えている」。以上の聖書のことばが教えるように、人間の意志の力で「貪るな」という律法を守ろうとすると、人間のからだ中に住み着いている罪が、その人の心にすぐに貪りを持つように働きかけるのです。また、人間が法則のように再び、意志の力で「貪るな」を守ろうとする再び罪が働きその人の心に「貪り」を起こさせるのです。自分の意志の力で何度も何度も「貪るな」という律法を守ろうとすることをパウロは「心の法則」と呼び、その心の法則に何度も同じように貪欲を持たせる罪の働きを「罪の法則」とパウロは呼んだのです。
また、自分の意志の力で律法を守ろうとしても守れない人の心の傾向性をパウロは「肉」と呼んだのです。人の心が貪欲になれば、人のからだの諸器官で多くの罪を犯すようにもなるので、そのようなからだをパウロは「罪のからだ」と呼びました。又、「貪るな」という、律法を守る事が出来ない無力なからだを「死のからだ」と呼びました。単数形の罪である「アマルティア」は、自分の意志の力で律法を守ろうとする人の心に働いて増々「貪欲」を起こさせる力を持っています。では、私たちは無律法主義になって自由奔放に生きれば、罪から解放されるのでしょうか、断じてそうではありません。神さまが、私たちを自分の意志の力で守らなければならない律法から解放して下さった救いの道は、キリストと共に十字架で死に、共に葬られ、共に甦り、共に天の父なる神の座に導く事によって可能とされたのです。それは、無律法主義になるのでなく、律法を自分の意志の力で守らなければならない事から解放し、御霊の力で律法を守るようにして下さった事を意味しています。
3、自分の意志の力で守らなければならない律法から解放され、御霊によって律法を守る道
自分の意志の力で守らなければならない律法から解放され、御霊によって律法を守る道について、パウロは結婚のたとえを使って説明をしています。少し砕けた表現で説明をします。夫は厳格な律法に例えられています。妻は、夫の厳格さについていけないふしだらな罪びとに例えられています。夫の厳格さはとても良いもので正義に満ちています。しかし、妻は夫の正義に満ちた厳格さについていけないので、夫の厳格な言いつけにいつも悩んでいます。夫は正義に満ちた厳格さによる要求をするけれども、妻を助けようとはしません。妻は、そのような夫と別れて、別の人と結婚をしたいと思います。しかし、結婚に関する法律がありますのでそのようにすれば姦淫となり、そうする事はできません。夫が死ねば夫の関係の法律から解放され、それが可能となります。しかし、夫はとても元気で死にそうにありません。以上のような例えを使って、パウロは妻が夫との関係を教える法律から解放され自由になる道は、夫が死ぬのでなく、妻が死んで、甦えれば別の人と結婚する道が開かれるというのです。そのように、自分の意志の力で守らなければ厳格な神の律法は死なないけれども、その律法を守れないふしだらな罪びとの私たちがキリストと共に死ねば、その律法から解放され、復活のキリストと結ばれる事が出来ます。キリストは、律法のように正義に満ちた厳格な方ですが、キリストは妻を助けない律法とは違って、神の聖霊の力によって律法を守れるように助けて下さるのです。私たちが、2000年昔に、キリストと共に十字架に死んで葬られ、共に甦って、共に天の父なる神の下に導かれた事で、罪からの解放と律法からの解放の恵みに与り、同時に聖霊の力によって「偶像を拝むな」「偶像を造るな」「主の名をみだりに唱えるな」「両親を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「嘘をつくな」「貪るな」という、9つの律法をキリストの律法として守る事が出来るようにして下さったと、パウロは教えています。
「ローマ7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。 7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。 7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。 7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」
4,パウロの悩みと解放の体験
パウロは、キリスト者になる前はパリサイ人として、モーセ律法613を自分の意志による努力で熱心に守っていました。その彼が、妄信により、キリスト者を迫害して、キリスト教を殲滅させる事が創造主の神の御心に叶うと思い、キリスト者の迫害に命をかけていました。その彼に、復活のキリストが現れて、その間違い教え、ご自分が旧約聖書において啓示されている「メシヤ」だと教えられました。彼は、その体験により自分がとんでもない妄信でキリスト者を迫害していた罪を、キリストが赦して下さった事を知って、その神さまを更に深く愛する心が与えられました。その、愛する神さまの愛に応答して、これまで、守る事が出来ていなかったモーセの十戒の10番目の戒め「汝貪るなかれ」を守り、「聖く」なる決心をしました。彼は、モーセ律法の外面的な戒めを守っていれば、いつしか心がきよくなり、「汝貪るなかれ」を守れる人間になるだろうと信じていたのだと思います。彼はパリサイ人として「汝貪るなかれ」と、神さまは「心の聖さ」を求めておらえる事は良く知っていたのです。しかし、これまで、パリサイ人として、モーセ律法613の内の、外面的な律法は、儀式的な律法はすべて完全に守っていたのですが、「汝貪るなかれ」の戒めを守る「心の聖さ」を持っていない事をよく知っていたのです。そこで、キリスト者になって、神さまの赦しの愛、神さまの無条件の愛を知らされて、彼は、なんとしてでも神に喜ばれる為に、「汝貪るなかれ」の戒めを守り、心が「聖く」ならなければと一大決心をし、努力を始めるようになりました。しかし、意志の力で努力すればするほど、自分が貪欲になる事を知ったのです。なぜそうなるのか、神さまに祈りつつ考察を続けました。その結果、「汝貪るなかれ」という聖なる良い律法を何度も何度も意志の力で守ろうとする自分の心の法則に対して、からだに住み着いている罪「アマルティア」が、法則(悪の力の原理)となってと働き、自分を増々貪欲にさせ、心を含む自分のからだ全体がその律法を守れないようにしている事を知ったのです。そこで、彼は「ああ悩めるかな。誰がこの死のからだから私を救ってくれるだろうか」と絶望の声をあげたのです。そして、そのお方が「キリスト」だと知って神さまに感謝を捧げました。「ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
「死のからだ」という言葉は、当時のローマの死刑方法の一つを背景に生み出された言葉だと言われています。それは、当時の死刑の方法の一つに、死んだ人を死刑囚に結び合わせて放置し、死人から出てくる死臭によって悩ませながら苦しみ悶えて死んでいくようにさせるという、むごたらしい処刑方法がありました。パウロは、その事を思い浮かべながら、自分が「死のからだ」にがんじがらめに縛られている事をしって「ああ悩めるかな」と叫んだのです。私達の、心を含む生まれつきのからだは、からだの中に住む罪「アマルティア」によって、罪のからだとなり、同時に死のからだとなっているのです。パウロは、それを知って自分に絶望をしたのです。どうでしょうか、皆さんは、神さまの良き律法、聖なる律法を守る事において、ご自分が「死のからだ」を持っている事をご存知でしょうか。また、その「死のからだ」は同時に、積極的に様々な罪を心と肢体を使って罪を犯している罪の生産工場になっている事をご存知でしょうか。聖化の道は、先ずその事を知って、自分に絶望する事からスタートするのです。
5,私(佐藤)の悩みと解放の体験
私は、神さまの愛、キリストの愛を知って19歳でクリスチャンになりました。そして、愛されている喜びの故に、私は神さまに喜ばれる正しい生活を送る決心をしました。その決心の表れとして、10分の1の献金の励行、日曜日の礼拝の厳守、教会学校の為の奉仕、また、早天祈祷会や水曜日の夜の祈祷会も出席できるときはできる限り出席し、教会生活中心の生活を始めました。私の外面的な献身の生活は100%に近い状態でした。その私を見込んで母教会の先生が、まだ洗礼を受けて2年も経っていない私に「牧師になるように」と献身を勧められたのです。しかし、私は、別の人生を歩みたいと思っていましたので、その事を申し上げると牧師は「それは悪魔の誘惑だ」と言って、私をたしなめました。私は、そうした牧師の勧めもあって、神学校に入学したのですが、決して牧師になる為ではなかったのです。私は、クリスチャンとして自分の心に問題があると気付いていました。すぐに妬み、すぐに傲慢になって人を見下し、すぐに人を裁く自分に悩んでいたのです。そうした、心の問題を解決する為には、もっと聖書を深く学ぶ必要があると思い、神学校に入学する道を選んだのです。しかし、神学校で、聖書の知識を増せば心は良くなったのかと言いますと、逆でした。心は増々傲慢になり、知識を誇り、人を以前に増して裁くようになったのです。これではだめだと、色々な本を読んだのですが、私は、自分の心が良くなるどころか、さらに妬み深くなり、傲慢になり、ついには神さまさへ裁くものとなったのです。自分の思い通りに、神さまが祈りに答えて下さらなければ、腹が立って「何で答えられないのですか!」と、神さまに怒りを示すまでになったのです。神学校に入れば、心が変わり素直な信仰によって、平安と喜びの中に生きて行けるだろうと思ったのですが、逆でした。心は増々悪くなっていったのです。私にとっては、それは絶望でした。そんな、私に神様は救いの御手を差し伸べて下さったのです。それは、中国のウオッチマン・ニーが説く「キリスト者の標準」を読むように導かれた事です。その本には、ローマ書を中心に「罪の赦しの福音」と「罪からの解放と律法からの解放の福音」が説かれ、キリスト者が聖く生きる道が教えられていたのです。しかし、私は、貪るように何度も何度も読んだのですが、なかなか理解できませんでした。牧師になってからも、繰り返し読んできたのですがそれでもなかなか理解が出来ず苦しみました。知識的には理解をしていたのですが、生きる上では力となっていなかったのです。しかし、60を過ぎてから、漸く聖霊様の諭しによって理解ができ、生きる力となってきたのです。その、神さまの恵みにより、今は、確信をもって兄弟姉妹の皆様に「聖化の道を究めて」という事で、ローマ書で教えられている「罪からの解放」と「律法からの解放」の福音を説くことが出来るようにされてきました。
【おわりに】
韓国のある若い牧師が、心が聖くならない事に悩んで、ある老牧師に相談をしました。その老牧師は、ローマ書を、
主に祈りながら、100回繰り返し読む事を勧めたそうです。その若い牧師は、それに従って、祈りつつローマ書を繰り返し読み、その結果、聖霊の光を受けて、パウロの説く、罪からの解放、律法からの解放を会得し、聖化の道を歩み始めたのです。パウロのように、神さまの愛への応答として、神さまに喜んで頂く聖なる生活を送りたいと願いながらも、心を含むからだがそうならない事に、「ああ悩めるかな」という絶望を感じているひとは、是非、ローマ書5章12節から8章39節を主に祈りながら繰り返し読んで頂き、「罪からの解放の福音」、「律法からの解放の福音」を会得し、聖化の道を歩み、キリストの姿に似せられていく聖徒となられるようにお勧めします。また、私のメッセージを参考にして下さり、その一助にして頂ければ感謝です。
ローマ書7章の主な用語の定義
①聖なる良い律法+戒め(16回+6回使用):人間の意思の力で守る事を求めている律法(戒め)
②死のからだ:からだは人間の心を含めた人間全体を意味しているので、パウロはからだを「私」とも呼んでいる。
罪びとのからだは、神の律法を守る事において全く無力であるので「死のからだ」とパウロは呼んでいる。
③心の律法(心の法則):神の聖なる律法を人間の意思の力で守ろうと繰り返し努力する事。
④罪の律法(体に宿っている悪の原理/悪の法則/3回使用):人間に「貪欲の罪」を持たせる働きをしている単数形
の罪「アマルティア」が人間の体の中で繰り返し貪欲を持つように働きかける悪の力となっている事。
⑤肉:罪の律法(法則/原理)に勝てない罪の傾向性=罪の性質を持つ人間
⑥14節の「罪ある人間」:原語では「サルキノス・肉的な」です。聖書は人間が罪を犯すから罪びと(肉的)とは呼ばず、
遺伝によって生まれながら罪の性質を持っているので「罪びと(肉的)」と呼んでいる。
⑥罪(アマルティア/14回使用):罪びとのからだの中に住みついており、人が意志の力で律法を守ろうとすると、罪の
法則となってその人に働き、その人の心に増々貪欲を起こさせる悪の力の事。その貪欲により、「妬み」「恨み」「憎
し「不平不満」「情欲」「虚栄心」「金銭欲」「物質欲」「色欲」「傲慢」「裁き」「批判」「見下し」「軽蔑」「侮辱」等の様々
な邪悪な思いを起こさせます。その邪悪な多くの思いが人のからだの肢体(からだの諸器官の口、鼻、目、耳、手、
足、顔全体等)に働き多くの罪を犯させます。罪「アマルティア」は聖なる律法を意志の力で守ろうとする罪びとを
増々邪悪にさせている全人類を支配している悪の力の事。