「聖化の道を究めてⅦ」
聖書:ローマ8章1節~17節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
◆8章1節の「罪に定められない」の意味
ローマ書8章1節から4節は、ローマ6章の「罪からの解放」と7章の「律法からの解放」という、キリストにある霊的歴史的事実を要約して教えています。キリストにある者とは、キリストと共に2000年昔に、十字架で死に、共に葬られ、共によみがえり、共に天の父なる神の右の座に着くものとされているキリスト者の事を意味しています。そのようなキリスト者は「罪に定められることがない」とパウロは断言しています。それは、キリストの十字架の血による贖罪を信じる信仰によって義とされたので罪に定められないという事ではありません。パウロは、その後に「なぜなら」と理由を説明しています。それは、キリストにある者は御霊の法則によって「罪の法則」と「死の法則」から既に解放され、罪を犯さない者となったので「罪に定められない」とパウロは教えています。キリストにある者は、キリストにあって「罪を犯さない者になっている」というのが、パウロの論点です。
1、神の栄光を帰する人格とは
私達が、キリストに結ばれて、2000年昔、キリストと共に死に、共に甦り、共に天の座に導かれたのは、私達が、栄光から栄光へと御子である主と同じ姿(人格)に変えられて、神に栄光を帰する為です。聖化というのは、生まれながらの罪の性質をもって生まれた古い人間が努力して改善されて、道徳的に立派になる事ではありません。それは、人間に栄光を帰しても神に栄光を帰す事はできません。神は、キリストが神の聖なる性質と永遠の命と内住の御霊によってあらわしておられた御人格こそが神の栄光を顕す神の子としての御人格でした。キリストは神の聖なる性質と永遠の命と御霊によって、神の正義、神の聖、神の愛、神の謙遜を顕しておられました。それが神の栄光です。私達がどれほど自分を改善して道徳的に良い人間になっても、しょせん、それは人間の栄光であり神の栄光にはなりませんん。犬や猫や動物がどんなに立派な賢い犬や猫や動物に改善されても、しょせんそれは犬の栄光、猫の栄光、動物の栄光に過ぎません。そのように、生まれながらの人間が努力を重ねて、道徳的に良い人間になってもそれは「人間の栄光」にすぎません。それは神の栄光を顕す神の子の人格ではありません。神は、私たちたちを人間の栄光を顕して生きて行くためでなく、キリストのように神の子としての人格を備えて神の栄光を顕して生きて行くものとなる為に、天地の造られる前から、御子のかたちと、そして御子と同じ姿に似せられて、神の栄光を顕す事を願ってお選びくださり、お造り下さり、お救い下さったのです。その御子と同じ姿である神の子としての人格は、神の聖なる性質と神の永遠の命と神の御霊によって形成されていく人格なのです。聖化というのは、何か新しい事を付け加える事ではあません。すでに、キリストを信じた時に、全てのキリスト者は神の永遠の命が与えられ、神の聖なる性質に満ち満ちたものとされたのです。また、キリスト者の義とされた霊の中に栄光の御霊が内住されているのです。その事によって、既に神の栄光を顕して生きてく備えが与えられています。
2、聖化とは
聖化とは、キリスト者に神が与えられた満ち満ちている神の聖なる性質が明確に顕されていく過程の事です。その顕れを妨げているのが古い人です。聖化の道とは、キリスト者に残存している罪の性質をもって生まれた古い人の性質が段々と減少し、信仰によって与えられた神の栄光の聖なる性質が段々と顕わになっていく過程の事を意味しているのです。その聖化の道をパウロは、ローマ書5Ⅰ2節8章17節を通して説いているのです。ローマ書の聖化の道を理解するために必要な重要用語の一つは単数形の罪「アマルティア」です。単数形の罪「アマルティアを正しく理解しておかないと、ローマ書の聖化の道を究める事は出来ません。
3、単数形の罪(アマルティア)からの解放
単数形の罪(アマルティア)ローマ書で46回使用されています。その罪は、キリスト者のからだの中に住みつき、キリスト者が意志の力で律法を守ろうとすると、繰り返し繰り返し罪の法則となって働き、そのキリスト者の心に増々貪欲を起こさせているのです。その罪(アマルティア)によってキリスト者の心に貪欲が湧き起こって来ます。すると、そのキリスト者の思いの中に「妬み」「恨み」「憎し「不平不満」「情欲」「虚栄心」「金銭欲」「物質欲」「色欲」「傲慢」「愛の無い裁き」「愛の無い批判」「見下し」「軽蔑」「侮辱」等の様々な邪悪な思いが起こってきます。その邪悪な多くの思いがキリスト者のからだの肢体である口、鼻、目、耳、手、足、顔全体等に働き、結果、そのキリスト者は肢体によって多くの罪を犯してしまうのです。罪「アマルティア」は聖なる律法を意志の力で守ろうとするキリスト者を増々邪悪にさせている悪の力なのです。又、全人類の全ての罪びとを支配し、多くの罪を犯させている悪の強大な力なのです。。
パウロが、罪(アマルティア)と人間の心とからだの関係をどのように教えているのか図で表しましたのでご覧ください。
キリスト者のからだの中に住みついてる罪「アマルティア」から、キリスト者は解放される必要があるのです。そのために神さまは、キリスト者を2000年昔にキリストに結び付け、キリスと共に十字架で死ぬようにして下さったのです。死んだ者に、いくら罪「アマルティア」が働いてもびくともしません。父なる神は、私達キリスト者を罪から解放するために、キリストと共に十字架で死なせて下さったのです。「6:7死んだ者は、罪から解放されています」。
4、キリストと共に復活をし罪を犯さない新しい人となったキリスト者
しかし、キリスト者は、キリスト共に死んだだけでなく、共に甦り、罪を絶対に犯さない新しい人とされ、天において父なる神の御前に生きる者と既にされたのです。「6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」。 パウロは、キリストにあるその霊的歴史的事実によって、キリスト者は既に罪と律法から解放され、御霊によってキリストのように「正義」と「聖さ」と「無条件の愛」と、自分の無にして、全ての人を自分より優る存在として尊ぶキリストの「謙遜」に生きる者とされているのです。パウロはその事実を事実として認めて安んじ続ける事を命じています。
◆思う(認める)事について
6章11節の「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」の思いなさいと言うギリシャ語の言語は数えるとか、計算するという会計用語「ロギゾマイ」の命令形「ロギゼスセ」が使用されています。それが日本語訳聖書では「思いなさ」とか「認めなさいと訳されています。英訳聖書の中にはギリシャ語を直訳して「数える」とか「計算する」という意味の「カウント」と訳している翻訳もあります。では、なぜ、パウロは、6章11節で「ロギゾマイ」という会計用語を使ったのでしょうか。それは、キリスト者がキリストと共に十字架に死に、共に葬られ、共に甦り、共に天の父なる神の右の座に着いたという、霊的歴史的事実が、単なるキリスト教的観念でなく、絶対的事実だ言う事を強調するためです。1+1は2、2+2は4、4+4は8という、計算は天においても宇宙の果てにおいても、海の底の陰府においても、日本やアメリカや何処においても、また、過去現在未来のいつの時代においても変わらない絶対の事実です。そのように、キリスト者のキリストとの共同の死と共同の復活は、人間が信仰をもって認めようが認めまいが変わらない絶対の事実です。天使や悪魔や悪霊共が認めようが認めまいが変わらない絶対の事実です。それは、キリストが十字架で死なれた時に、両サイドに強盗共も十字架につけられて死んだ事が歴史的絶対の事実である事と同じです。私達キリスト者がキリストと共に十字架で死に、共に葬られ、共に甦り、共に天の父なる神の右の座に着いた事は、キリストにあっての霊的歴史的事実なのです。キリストにあっての霊的歴史的事実を絶対の事実だと認めると、その人の心には春がやってきます。平安と喜びが必ずやってきます。うれしくてなってきます。なぜなら、神の栄光に、罪を犯し、良心の呵責を受けなければならない事から解放されているからです。
キリストにある霊的歴史的事実により、私達はキリストのように良心的にいつも正しい生き方をする正しい者と既になっているのです。また、既にキリストのように聖き思いで生きる聖なる者となっているのです。また、キリストのようにどんな人の為にも必要ならば命を捧げる無条件の愛に生きる愛の人と既になっているのです。更に、キリストのように自分を無にして、全ての人を自分より優る尊い人として尊敬する謙遜な人に既になっているのです。それが、ローマ8章1節2節で教えられている事です。「ロマ 8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
以上の、キリストにあっての霊的歴史的事実を、私達が認めるというのは、生活上の色々な場面で、キリストに圧以上の霊的歴史的事実を認めて安んじながら適用をする事を意味しているのです
5、思う(認める)事の実践例
①国の法律に対して
1)正直の秘訣
春は税務署に所得を報告する季節ですが、私達キリスト者が所得を報告する時の誘惑は、できる限り国税や市民税や町民税を少なく抑えたいという願望が働きます、その願望が強くなると、どうしても所得を少なく報告したり、何らかのごまかしが入り、偽りの申告をする危険性があります。その誘惑に、キリスト者が御霊によって打ち勝ち、良心的な報告をするためには、自分が、キリストにあっての霊的歴史的事実によって「キリストのように良心的に正しいものと既にされている」と安んじて御霊に自分を委ねるのです。そうすれば、その信仰に御霊が働いて、御霊の助けによって喜んで正直に申告できるようにされるのです。
2)安全運転の秘訣
日々の車の運転も同じです。私の車にはドライブレコーダーが設置されています。ドライブレコーダーは私の車の運転をチェックする機能があります。左に寄りすぎるとその事をキャッチして警告を発します。そして、車の運転を3段階で評価し、良ければA、まあまあであればB、よくなければCと判定するのです。その事を私は知ってますが、しばしば、Cの判定を受けてきました。しかし最近はそうではないのです。私は、キリストにあっての事実を車の運転にも適用する事を学んだのです。私は主にあって「安全運転をする者となっている」と認めてそのように宣言して安んじるのです。不思議な事に、これまで以上に、安全運転に気を付けるようになっているのです。それは、私の意志の力でなく御霊が私の意志に働いている結果なのです。私の最近のドライブレコーダーの判定は「A」です。
②人間関係において
1)プライドに囚われない秘訣
次に、心の問題に適用する事をお伝えします。昨年のある牧師会で、私は有る牧師先生の聖書解釈に疑問を持っていたので、牧師同士の会議の中では許されるだろうと思い、その問題点を批判したのです。すると、一人の先生が「佐藤先生は傲慢だ」と、厳しく批判をされたのです。私はその時に、批判されたら不愉快な思いを持つ、私の中のプライドは古い人共に十字架で死に、キリストにあってその批判も感謝する者となっている認めて安んじるようにしました。その上で感謝し続けたのです。そうすると、御霊の助けによって、私の方から、その先生に私の言い方が悪かったことを謝罪する事が出来たのです。
2)赦しの秘訣
これは、ある本で証をされていた事ですが、有るクリスチャンのお姑さんが、どうしてもお嫁さんの自分に対する暴言を赦す事が出来ず苦しんでいました。その事を、牧師に相談をしたら、牧師は次のようにアドバイスをしたのです。「私は嫁を赦します」と宣言して下さい。そうすれば赦されるようになるますよ」と。お姑さんは牧師のアドバイスに従って、「私は嫁を赦します」と宣言し続けたそうです。すると、内住の御霊が働き、心からお嫁さんを赦すことが出来たそうです。赦しの心は御霊によって与えられるのです。
3)謙遜の秘訣
罪を犯している人を見下し、その人の名を軽蔑の心で呼ぶ事は古い人のなしている事です。聖書は、悪い王をも、悪い主人をも心から尊敬し、尊び喜ぶ事がキリストの心だと教えています。キリストはどんなに恐ろしい罪を犯している悪人さえもご自分を無にして自分より優る存在として尊ばれているお方です。それ故に、残虐極まりない殺人者の罪をも背負ってその人の罪の赦しの為に、ご自分の命を十字架で提供されました。キリストは、どんな悪人も神は高価で尊い存在として愛されいているという事をご存知でした。それ故に、全ての人の罪の赦しを願って、十字架で身代わりの刑罰を受け、また、神さまによって造られた全ての人に福音を伝えるように弟子達に命じられたのです。パウロもその事をしっていたので、「神は全ての人が救われて真理を悟るに至る事を望んでおられる」という、メッセージを伝えました。
この地上に存在する全ての人が、平等に神さまに愛され、神さまからご自分より尊い存在として尊ばれているのです。それが、キリストの心です。私達は、キリストにある霊的歴史的事実によって、すでに「全ての人を自分より優る尊い存在として喜ぶものとされている事に安んじ、宣言するのです。そうすれば、御霊が、その事を実際に体験させて下さるのです。昨年、私は有る会議に出席をするときに、会議において出会う全ての人を自分より尊い喜ばしきお方だたちだと思う自分にされている事を認めて安んじながらその会議に出席をしました。不思議な事に私はその会議に出席している方々と喜んで笑いながら会話している自分を傍らに見ることが出来たのです。
私たちは、家庭で、職場で、地域社会で、学校で、色々な人との関係の中で、キリストのように正しく、聖く、愛に満ち、謙遜になって良い関係を築いていく方法は、キリストにある霊的歴史的事実を絶対的事実として認めて安んじる事です。その上で、私は隣人を愛します。私は隣人を尊びますと宣言し安んじるのです。その信仰の一歩に御霊が働き、キリストにある霊的歴史的事実を体験させて下さるのです。
③神さまとの関係で
次に、神さまに対してキリストにあっての霊的歴史的事実を適用する事について、お伝えします。神さまは、良い方で喜ばしきお方ですので、その為さる御業はいつも最高に喜ばしき良い事です。それ故に、パウロは、いつも神とその御業を喜び、全ての事を感謝する事が真理だと教えています。しかし、そのように信じて神さまをいつも喜び、万事に感謝し、神さまを礼拝するのですが、意志だけの力では長続きが出来ません。何らかの問題に囚われている時、肉体的病気で体がしんどい時、腰痛や何らかの激痛の時に、意志で神さまを喜び感謝する事に疲れます。ある時、私は、感謝する事につかれ、神さまに向かって感謝する事を止めますと、祈った事がありました。その時、細い声で、御霊は「私が助けるから感謝を続けなさい」と言われたので、勇気を得て感謝を続けました。いつも神を愛して喜び、万事に感謝して礼拝を続ける秘訣は御霊の助けの中で行うことです。神さまが、私に教えて下さった事は、キリストにある霊的歴史的事実によって「あなたは、いつも神を愛して喜び、万事に感謝する者となっている事を認めて安んじる事だ」という事でした。そのように安んじながら、神さまを愛して喜びたたえるのです。それは良い意味で余計ない力が抜けて、力まないで楽になって神さまに礼拝を捧げている自分を発見するのです。それは、日々個人的な静まりの時も、みんなで礼拝を捧げる公同礼拝の時も、同じようにキリストにあっての霊的歴史的事実を認めて安んじてのです。そうすると礼拝が楽しくなるのです。メッセージを聞く時も、そうするのです。私はキリストのように、聖書のメッセージに心を低くし熱心に耳を傾ける者となっています。感謝しますと安んじるのです。その、平安の中で、聖書を学び、牧師の語る聖書のメッセージに耳を傾けるです。それが、神が求めておられる真の礼拝なのです。キリストにあっての霊的歴史的事実を認めて安んじ、御霊の助けを受けながら日々歩むことが、キリストのような姿(人格)に変えられていく「聖化の道」なのです。
6、キリスト者と御霊の関係
以上の真理を学ぶことで、「聖化の道」は十分究めたのではないかと思いますが、実はもう一つ聖化の道を歩む段階があるのです。それは、御霊の導きに日々聞き従う事です。その事が、ローマ書8章4節から17節迄のテーマとなっています。
①キリスト者の義とされた霊の中に内住されている御霊
先ず、重要な関係は、キリスト者の義とされた霊の中に父なる神の御霊、或いは御子なるキリストの御霊が内住されているという事です。「9節 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、」、 「11節a もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」、「11節bあなたがたのうちに住んでおられる御霊に」。と、パウロはローマのキリスト者に、問いかけるようにして、キリスト者の信仰によって義とされた霊の中に、御霊が内住されている事をパウロは教えています。パウロはキリスト者の霊が「義のゆえに生きています」と教えています。キリスト者の霊はキリストを信じる信仰によって義とされて神さまとの生きた交わりを回復させている霊だと教えています、
②内住の御霊の働き
1)キリスト者を日々導かれている
では、キリスト者の義とされた霊の中に内住されている御霊はどのような働きをされているのでしょうか。それは第1に、キリスト者を常に神の御心と一致した生活をするように導くという働きです。「4節 御霊に従って歩む私たち」「5節 御霊に従う者」「14節神の御霊に導かれる人」という、聖句は明らかに、内住の御霊はキリスト者を神の御心と一致した生活を送るように導かれている事を教えています。御霊は、キリストの命令に従って日々キリスト者の全ての生活の領域に言おいて導きの御声をかけ、導きの御手を差し伸べておられます。
2)御霊は従う者を死ぬべきからだから解放し、死ぬべきからだを活かして律法を守るようにする
御霊は、ご自身の導きに日々聞き従う者の「死ぬべきからだ」を、神の復活の力によって、律法を守る事が出来るようにして下さるという働きをされています。私達のからだは、罪「アマルティア」によって律法を守れない、死んだからだとなっています。そのように、キリスト者の死ぬべきからだが、御霊に聞き従う時に、御霊が御子を死人の中からよみがえらせた神の偉大な力を働かせて、律法を守る事が出来る体にして下さるというのがパウロの教えです。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
ここでの繰り返し教えられている「死ぬべきからだ」というのは、肉体的に死ぬべきからだという意味ではなく、罪によって神の律法を守れなくなるという言う意味で「死ぬべきからだ」と呼んでいるのです。多くの牧師方が、文脈を無視してローマ書8章の「死ぬべきからだ」を肉体的に死ぬべきからだと解釈し、神さまが御子を甦らせた復活の力で肉体を元気にして生かして下さるといいう、メッセージを発信していますが正確ではありません。それは8章の中心的メッセージではありません。ここで言う「死ぬべきからだが生かされる」という意味は、罪アマルティアによって律法を守れない死ぬべきからだを、御霊が復活の力を与えて、律法を守れるようにして下さるという事です。キリスト者の死ぬべきからだは、同時に罪「アマルティア」の力で、罪を多く犯す「罪のからだ」となっています。しかし、内住の御霊の導きに従うならば、御霊による復活の力で「罪のからだ」と「死ぬべきからだ」を、律法を喜んで守れるようにして下さるのです。それが、内住の御霊のお働きです。
3)御霊は、従う者を罪の生産工場となっている罪のからだを殺して下さる
私たちのからだは、罪の生産工場となっている「罪のからだ」となっていますが、2000年昔にキリスト者がキリストと共に死んだ時にその罪のからだも死んで、罪のからだが罪「アマルティア」から解放されています。その霊的歴史的事実を御霊によって諭され、その諭しに従って古い人から湧いてくる様々な邪悪な思いも古い人とも十字架に死んだものとして認め、否定して十字架の死に委ね安んじる時に、御霊が罪のからだが罪を犯さないように十字架の死の力を働かせ殺して下さるのです。その事をパウロは「8:13御霊によって、からだの行いを殺すなら・・」と教えています。キリストにある霊的歴史的事実を認めて安んじながら、御霊に従う時に、御霊は「罪のからだ」を殺し、私達がからだで罪を犯さないように生かして下さるのです。
4)御霊は従う者を「いのちと平安」で満たす
御霊は従う者を「いのちと平安」で満たすというお働きをされています。その御霊のお働きによって、キリスト者が神さまのお導きに従っているかどうかを知る事が出来ます。「8:6 御霊による思いは、いのちと平安です」
5)従う者を父なる神との親しい交わりの喜びを体験させる
キリスト者の義とされた霊の中に内住されている御霊は、導きに従うキリスト者を、父なる神と神の子としての親しい交わりの喜びを体験させるのです。パウロが次のように証言しています。「8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」と。私達が、御霊によって「アバ父よ」と呼び、父なる神との親しい交わりの中に無いとすれば。それは、御霊の導きに従っていない事を教えています。「アバ父よ」と、心から父なる神との親しい交わりを実際に喜ぶ事が出来るのは、御霊の導きに従う者が、御霊の恵みの働きによって体験できる幸いな恵みなのです。それが神の国の喜びです。
7、御霊の導きに従う為の4つの段階
御霊に導きに従う為には、四つの段階があります。
①第1段階は、2000年昔、自分がキリストと共に十字架で死に、共に葬られ、共に甦り、共に父なる神の右に座したものとされたといいう、霊的歴史的事実を御霊によって諭されて知るという事です、
②第2段階は、その霊的歴史的事実を事実として認めて安んじて宣言する事です
③第3段階は、その霊的歴史的事実に従って、自分の全てをささげるという献身をする事です
④第4段階は、日々内住の御霊の導きの御声に聞き従って生活をするという事です。
キリストにある霊的歴史的事実を認めて安んじて宣言して一歩従う時に、御霊の働きを受けてその霊的歴史的事実を体験していくのですが、それを継続して体験していくには、日々御霊に聞き従う事が必要です。「ロマ 8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
キリスト者に内住されている、御霊は、私達の生活の全てに関わって、細き御声をかけながら導かれています。その細き御声に聞き従う事が、キリストにある霊的歴史的事実を日々継続的に体験していく秘訣です。
8、肉に従う者の不幸になる
私達が、キリストの如くその姿が変えられていく「聖化の恵みに与る道」は、自分の知恵や力や体験や経験に頼らず、神の奴隷として何事も神に聞き従って生きるという従順が必要です。その従順に対する恵みは「心が神の命と平安に満たされる」事です。逆に、キリストにある霊的歴史的事実に目を留めず、肉に生きる(自分の知恵や意志の力に頼ってて生きる)時に、結果として不幸になるとパウロは教えています。「ロマ 8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。 8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
聖霊は日々、私達をキリストにある霊的歴史的事実を認めて安んじるように、また、その霊的歴史的事実に従って献身をするように、さらに、日々、肉に従って歩まず、御霊の導きに従って歩むように、細き御声をかけ続けておられます。それを否定して、キリストにある霊的歴史的事実を認めず、献身せず、自分の知恵や意志の力や経験や体験によってつまり、肉によって生きるならば、その人の思いは死に支配されるようになるのです。つまり、神さまとの生きた交わりが失われ、御霊の実を結んで生きていく事が出来なくなるのです。「ロマ8:7肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。」
9、キリスト者は肉に属していない
パウロは、キリスト者が肉に生きる時に不幸になる事を警告として教えていますが、同時に、「キリストの御霊を内住させているキリスト者は肉に属するものでなく、御霊に属するものなので、肉に従って生きる責任はありません」と教えています。キリスト者は肉に生きる危険性を持っていますが、だからと言って肉に生きる責任はありません。キリスト者の責任は、幸いにして、神の恵みとして御霊の導きに従って生きる責任が負わせられているのです。それは、キリストを信じて、義と認められて霊が神との交わりを回復した事によるのです。その霊に、死ぬべきからだを復活の力で生かし、神の律法を喜んで守る事が出来るからだにして下さる御霊が、永遠に内住されているのです。
【終わりに】
もし、キリスト者に御霊が内住されず、御霊の導きがなければ、パウロは論じている、キリストにあっての霊的歴史的事実は、絵に描いた餅に終わってしまい、キリスト者は誰一人「聖化の道」を歩む事ができないのです。「聖化の道」という恵みの道を歩ませるのは、キリスト者の義とされた霊に中に宿っている「アバ父よ」と呼ぶ御子の霊の働きによるのです。その内住の御霊は、キリストにある霊的歴史的事実を悟るように導かれます、また、その霊的歴史的事実を認め続け、その事実に立って様々な邪悪な思いを対処して、安んじ、宣言するように導かれます。また、その事実を認めて献身をするように導かれます。又、日々の生活の全ての事で御霊の細き御声に、神の奴隷となって聞き従うように導かれます。以上の事を一つのセットとして捕らえて、キリスト者の生活を実践する事が、恵みによって「キリストの如く聖化されて歩んで行く道」なのです。
神の賜物であるキリストを信じる信仰によって、内住の御霊を与えて下さった父なる神とキリストを賛美します。内住の御霊によって、私達は神の栄光を顕して生きる事が可能とされました。感謝です。
あなたもキリストを信じて、神の永遠の命と神の聖なる性質に与り、キリストのようにその姿(人格)が変えられていく「聖化の道を究め」、神の栄光の為に歩む喜びを会得されますようにお祈りしています。