「聖化の道を究めてⅨ」
聖書:ローマ8章1節~17節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】

◆奉仕の前に聖化の道を究めよう

今回もローマ書8章1節~17節が教える「聖化の道」について学びたいと思います。「聖化の道」について分かったようで分からない事も、まだ多くあるのではないかと思います。キリスト者が徹底して「聖化の道を究めて」実際に「聖化の道」を日々歩む時に、そのキリスト者は、キリストが約束されたように「世の光」として「地の塩」として、多くの人々の救いと必要の為に用いられるようになるのです。聖化の道を究めないまま、キリスト者が熱心に奉仕を始めると、その熱心さのゆえに人を裁いたり、批判したり、見下したりするようになり、人格的影響力の乏しい歩みをしてしまうのです。熱心な奉仕の前に、先ずキリスト者は聖書の教える「聖化の道を究めておく事」が大変重要になります。ローマ書は、12章からその聖化の道に従って、キリスト者が実際にどのように奉仕をし、どのように教会生活を送り、どのように社会生活を送るべきかが説かれているわけです。聖化を中心的に教えているのは、ローマ書5章12節から8章17節迄です。

私達が具体的に日々「聖化の道を歩む」という事は具体的にどういうことなのか、さらに詳細に学びたいと思います。

1、「いのちの御霊の原理が死と罪の原理から解放した」の意味

8章2節でパウロは「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

と教えていますが、その意味を改めて学びたいと思います。先ず、キリスト・イエスにあるというのはどういう意味なのかを確認しておきます。それは、キリスト・イエスの中にあるという意味です。「イン クライスト」という意味です。いのちの御霊の原理、或いはいのちの御霊の法則という、神の聖なる人格的力はキリスト・イエスの中にあるのです。私達、キリスト者はキリスト・イエスの中に神さまによって包含されて、キリスト・イエスの中にある者となりました。キリスト・イエスの中にあるキリスト者は、キリスト・イエスの中にあるいのちの御霊の法則に支配されていますが、地上のキリスト者のからだの中には罪が内住して、いつも罪を犯させようとしている罪の法則も存在しています。また、律法を守れないようにさせようとする死の法則も存在しています。しかし、罪の法則と死の法則がキリスト者のからだの中に存在していても、いのちの御霊の法則に勝つ事はできません。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則はこれから、キリスト者の心を「罪と死の法則」から解放するのでなく、すでに解放しているのです。つまり、キリスト者の心は、いのちの御霊の法則により、既に「罪と死の法則から解放されている」ので、キリスト者の心は決して貪欲な心をもつ事がないキリストのような「非貪欲な心」となっているのです。同時に、キリストのように決して邪悪な思いを持つ事が無い「聖い心」となっているのです。更に、それ故に、キリスト者のからだは「罪を犯さないからだ」となっており、同時に「律法を喜んで守るからだ」となっているのです。その事を右図で表しました。

キリストに包含されているキリスト者の地上のからだの中に、いのちの御霊の法則が存在していますが同時に罪の法則と死の法則が存在しています。どちらの力が強いかと言いますと、圧倒的にいのちの御霊の方が強いのです。キリスト者の地上のからだの中にあるいのちの御霊の圧倒的な力によって、キリスト者の地上のからだの中にある罪の法則と死の法則の力が及ばないようにキリスト者の心を守っているのです。これから、いのちの御霊がキリスト者を「罪と死の法則」から守るのでなく、すでに守り解放しているのです。パウロは「解放した」と過去形で断言しています。キリストに包含されている地上のキリスト者の心とからだは、既に貪欲を持たない心、罪を犯さないからだ、律法を守るからだにされているのです。それを図で表しているのです。ハレルヤですね。

2、御霊に従って歩む

私達は、キリストにあって、既にいのちの御霊の法則により、罪と死の法則から解放され救われ、キリストのように「聖く生きる者」「正しい者」「愛に満ちた者」「謙遜な者」とされているという事を学びました。では、私達は何もしないでおけば勝手に、キリストのような生き方ができるのかと言いますとそうではないのです。キリストにあってのその目に見えない霊的救いの事実を日々体験していくには、私達もしなければならない事があります。それが「御霊に従って歩む」という事です。その御霊に従って歩むという事を正しく理解をしておかないと、キリストにあって既にいのちの御霊の法則により「罪と死の法則から解放された」という、救いの霊的事実が絵に描いた餅となり、キリスト者の実際生活に何の益ももたらしません。では、御霊に従って歩むというのは実際にどのように歩む事でしょうか。

①御霊に委ねる事です

御霊に従って歩むという事の第1の意味は、「御霊に自分を委ねる」事です。御霊に従って歩むという事は、キリストにある霊的事実に安んじれば、御霊が働いて具現化して下さる事を信じ、御霊に自分を委ねる事を意味しています。

キリストにある「いのちの御霊の法則」によって、すでに「罪と死の法則」から既に解放されているという事実を事実とし認めて安んじる時、内住の御霊が実際に私たちの心と体に働いて、キリストにある私たちの霊的事実を具体的体験させて下さる事を信じて委ねる事です。それが御霊の働きに自分を委ねる事です。これまで、ローマ書6章では、キリストにあって、キリストと共に2000年昔に十字架で罪の奴隷であった古い人が死んで、罪から解放された事を学びました。又、7章では、人間の意志の力で守る事を命じる律法を人間が意志の力を振り絞って守ろうとすればするほど、単数形の罪アマルティアによって増々貪欲なり、からだは律法を守れない死のからだになっている事を学びました。その、意志の力で守るように命じる聖なる律法に対して、死のからだを持つ古い人はキリストと共に十字架で死んで、律法から解放された事をも学びました。ローマ6章7章が教えるように、キリストに包含されて、キリストと共に十字架で死に、共に葬られ、共に甦り、共に天の座に着いた私達ですので、この地上にあって罪の法則と死の法則をからだの中に存在させていても、既にいのちの御霊の法則によって、それから解放された者となっているのです。その霊的歴史的事実を聖霊によって諭され、認め、安んじるという信仰に聖霊が働いて、実際に目に見えない霊的歴史的事実を事実としてこの地上で体験させて下さるのです。

1)罪と死の法則と御霊の法則の関係

罪と死の法則と御霊の法則の関係について、もう少し分かりやすく説明します。この地上には引力の法則が働いています。私が持っているボールペンを手から離せば、ボールペンは引力の法則ですぐに、下に落ちてしまいます。そのように、私達のからだには「罪の法則と死の法則」が存在しており、キリスト者が自分の意志の力で律法を守ろうとすると、すぐに「罪の法則と死の法則」の力によって罪を犯し、律法を守れないようにさせるのです。ボールペンが下に落ちない為には、ボールペンが下に落ちないように、私の手でボールペンを持っていればよいわけです。そのように、人の心と体が、罪の法則と死の法則によって罪を犯さないように、律法を守れるようにするには、いのちの御霊の法則という力がその人の心と体に支えれば良いわけです。そのように、私たちは、いのちの御霊の法則という力によって罪の法則と死の法則の力から既に守られ、罪を犯さないからだ、律法を守るからだ、どん欲にならない心に既にされているのです。

鳥は、引力の法則に打ち勝って大変自然に大空を飛びまわります。それは、鳥には空を飛ぶための体の仕組みとその仕組みに働く細胞によるいのちという力が働いている事によります。それによって鳥は大変自然に無理なく、引力の法則に打ち勝って空を飛んでいます。

そのように、キリスト者には、キリストと同じ仕組みの人の心と霊と体を持っております。その人の心と霊とからだを持っているキリスト者が、キリストのように、自然に聖い心、正しい心、愛の心、謙遜の心を持って生きるには、いのちの御霊の法則という力が必要なのです。キリスト者は、意志の力を振り絞って、無理矢理に、キリストのように聖く、正しく、愛に満ち、謙遜に満ちて生きるのでなく、鳥が鳥の命によって自然に大空を舞い、飛び回るように、キリスト者はいのちの御霊によって、無理なく自然にキリストのように聖く正しく、愛と謙遜に満ちて大胆に生きて行くようにされているのです。

私たちが、自分の意志の力を振り絞って、引力の法則に打ち勝って、鳥のように自由に空を飛ぼうとして飛び上がってもすぐに落ちてしまいます。それは、鳥のように空を飛ぶからだの仕組みと空を自由に飛ぶ命がないからです。それと同じで、人は罪の法則と死の法則に、意志の力で勝利して、キリストのように自由に生きる事はできません。それはいのちの御霊の法則だけによるのです。自分の意志の力で、キリストのように生きようとする事は、鳥のように空を自由に飛びたいと思い、自分の意志の力で飛ぼうとしている愚かな姿と同じなのです。御霊に従って歩むという事は、キリストのような聖く、正しく、愛と謙遜に満ちて歩んで行くために、いのちの御霊の法則の力に自分を委ねる事を意味しているのです。

2)御霊の法則と日曜日の礼拝と日々の聖書通読ととの関係

私たちは、創造主の父なる神さま、救いの主イエス様、別の助け主の御霊様が、いつも最高最善をなさっているお方だという事実に基づいて、自分の意志の力を使って賛美を捧げています。しかし、人間の感情や意志や知性は色々ない理由で、疲れたりして、神さまのなさっている事がいつも最善だと分かっていても、自分の感情に合わない事があると、素直に賛美が出来ず、ハレルヤとは言えない時があります。そのような時に、ハレルヤを言いたくないのに、無理矢理にハレルヤを口にして、余計に心が疲れてしまう事があります。そんな時、御霊はどのように導かれるのでしょうか。御霊は、御霊の法則で既に、罪と死の法則から私達を解放し、いつでも、どこででも、どんな時でも、父なる神と主イエス様を愛し喜び賛美する者とされているという事実に安んじるように導かれます。安んじながら、静かにハレルヤを口にし、讃美を始めればよいのです。そうすると、御霊の力で神さまを愛して喜び賛美し礼拝する力を与えて下さるのです。そのようにして、毎週の日曜日の礼拝、日ごとの礼拝を捧げるのです。

日々の聖書を通読も同じです。聖書には、自分の感情に合わない神さまの厳しい裁きや命令が多く啓示されています。そうした聖書個所は飛ばしてしまう事が度々あります。又、何度も読んでいると、すでに知っていると思い退屈を覚えるようになります。そのような、私達が、聖書全巻を繰り返し喜んで読むには、御霊の助けが必要です、御霊の助けを受けて日々喜んで聖書を読む為には、キリストにあって、自分は既にキリストのように喜んで日々聖書を読む者とされていると安んじて感謝しつつ、聖書を読むのです。その時に、御霊が働いて喜んで聖書を読むことが出来るように助けるのです。

礼拝説教を聞くことも同じです。生まれながらの古い人は肉的な事には非常に関心を持ちますが、霊的な事柄には無関心ですので、説教を聞くつもりが、退屈になって眠ってしま事があるのです。そんな私たちが喜んで霊的な説教を聞くものとなるには、御霊の助けが必要です。御霊の助けを受ける方はこれまでと同じで、キリストにある自分は、御霊の法則で喜んでメッセージを聞くものと既にされているという事実に安んじながらメッセージに耳を傾けるのです。その人に、御霊が働いて喜んでメッセージを聞くように助けて下さるのです。

②御霊に従順である

1)邪悪な感情を強く否定して十字架の死に委ねて安んじる

御霊に従って歩むという事は、御霊に聞き従う事です。私達の霊に内住されている御霊は、前回もお伝えしましたが、私達の生活の全てに関わって、私達に必要な導きの御声をお掛けになります。例えば、妬みや邪悪な感情が起きれば、御霊はすぐに、それらはキリストの十字架で死んだものとして、それらを強く否定して十字架にゆだねて安んじるように導かれます。ある時、私は有る人から自分の自尊心が傷つくような言葉を受けました。私の自尊心はその時に騒ぎました。すると聖霊は、そのように騒ぐ自尊心は十字架で死んだものとして強く否定して、十字架に委ねて安んじるように導かれました。その時、御霊は、私に胸にまるで強い棒で押し込むように、それはキリストと共に十字架で死んだと強調されました。御霊はなぜそのような体験させられたのか、不思議に思っていたのですが、しばらくしてその理由が分かりました。それは、私達キリスト者は、古い人から湧き起こってくる邪悪な感情の強さに押されて、その邪悪な感情をすぐに十字架に委ねて安んじる事をしないという、不従順の罠に陥る危険があるからです。私は、傷ついた自尊心をすぐに十字架に委ねず、自尊心を傷つけた人にたいして、不愉快な思いを持ち続けようとしたのです。聖霊は、それを強く否定して、十字架に委ねるように教えて下さる為に、古い人と古い人から湧き起こる邪悪な感情を、すぐに強く否定して十字架に委ねて安んじる事を教える為に、まるで棒で強く押し込むように、「古い人はキリストと共に十字架で死んだ」という事実に教えて下さった事が分かりました。その事実に堅く立って安んじる時に、御霊は十字架の死の力で古い人から湧き起こって来る邪悪な感情と罪のからだを殺して下さるのです。

2)生活の全てに御霊が関わっておられる事を信じて従う

御霊に従順であるという事は、内面の問題に対する処理方法だけでなく、日常の全ての事で、御霊に従うべきなのです。私達は、御霊の法則で、既に罪と死の法則から解放されている者だという、霊的事実を日々喜んで生活を始めましょう。そのように喜んでいる、キリスト者に対して、御霊は導きの御声をかけられます。例えば、笑ってはいけないときに、笑っているとします、すると御霊は「笑う事」を止めなさいと御声をかけられます。その御声を聴けば、笑う事を止める者とされていると安んじてから、笑う事を止めましょう。誰かを見下げたり侮辱したりするような言葉遣いをすれば、すぐに御霊は、そのような言葉を語る事を禁じられます。その時に、私は人を見下げたり、侮辱する言葉を語らない者とされていると安んじながら、そのような言葉を語る事を止めるのです。私は飲食店に行くときは、必ずと言ってよいほど、食後に読む本を持っていきます。私は、ある時、某うどん店にうどんを食べに行きました。その食後に本を読もうと思って眼鏡をかけて出かけようとしました。すると御霊が、その眼鏡を使う事を禁じられたのです。それは、私が、その眼鏡を教会用に買っていた眼鏡でした。聖霊はそれを「私用」に使う事を禁じられたのです。私は、それを強く感じて、その眼鏡を使う事を止めて、自分の別の眼鏡を探して、食後の読書の為に使ったのです。

キリストは、内住の御霊によって、キリストにある私達に、必要な導きの御声を毎日おかけになっています。その導きの御声を無視して生きる事を、パウロは肉によって生きている事だと教えています。肉によって生きている事は、キリストにある者でありながら、実質的にキリストの外に出ている事を意味しています。私達が、肉によって生きるという、不従順な生活を送り、キリストの外に自分の身を置くならば、単数形の罪アマルティアの働きを受けて、心は貪欲になり、からだは罪を犯す「罪のからだ」となり、同時に律法を守らない「死のから

【終わりに】

キリストにあっての霊的事実を聖霊によって悟らず、認めず、安んじないで、自分の意志の力でキリストのように生きて行こうとすると、そのキリスト者はからだ中の存在している「罪の法則と死の法則」の力によって、心は増々貪欲になり、からだは積極的に罪を犯す罪のからだとなり、同時に律法をさっぱり守れない死のからだとなるのです。その事を右図で説明をしています。キリスト者はせっかく御霊を内住させ、御霊の法則を存在させているにも関わらず、自分の意志の力や努力で、貪欲を抑え、キリストのように聖く、正しく、愛と謙遜に満ちて生きて行こうとすると、結果はそのキリスト者の心と体は罪と死の法則の虜となって、増々罪深い者となるのです。そうならないように、、いのちの御霊の法則によって既に「罪と死の法則から解放され、キリストのように聖く、正しく、愛と謙遜に生きる者とされているというキリストにある霊的事実に安んじながら、日々御霊に自分を委ね、生活の全てで御霊の導きの御声に聞き従う生活を志しましょう。