「神の裁きから救われる方法」
聖書:Ⅰコリント15章1節~11節
牧師:佐藤勝徳

【はじめに】

◆福音とは

パウロは、Ⅰコリント15章1節と2節で「福音」という言葉を3回使っています。その福音は人を救うものだと教えています。福音は何から、私達を救うのでしょうか。それは、罪に対する神の怒りによって、永遠の火の池に投じられて永遠に苦しみ続けるという滅びから救うのです。福音は、この世における一時的な喜びや平安ではなく、永遠に続く平安と喜びという幸福をもたらすのです。

Ⅰ 福音の内容

では福音の内容は何でしょうか。それはパウロが最もたいせつな事として伝えた、キリストが人類の罪の赦しの為に、聖書の預言通りに、イスラエルと千人類の罪の赦し為に十字架で身代わりの刑罰を受けて死んだ事、聖書の示す通りに葬られたこと、聖書の示す通りに三日目によみがえられたことです。。そこでパウロは2回「聖書の示す通り」という事を強調しています。キリストが十字架で死なれた事は、キリストが自分の思いのままに死なれた事でなく、聖書の預言に沿って十字架で死なれたのです。もし、キリストが、自分勝手に十字架で死んだとすれば、その死は正しい死でなくなり、罪とイスラエルと人類の罪の赦しには何の役にも立たなくなります。又、キリストは聖書の示す通りに葬られていなければ、聖書の示す通りに三日目に甦っていなければ、いくら葬られ甦ってもそれは何の意味もない葬りであり復活となり、人類を罪から解放する為の葬りや復活でなくなってしまうのです。そうすれば聖霊降臨もなく、人類は誰一人救われない者となるのです。キリストが聖書の預言通りに歩まれたという事が、どれだけ重要な事かお分かりかと思います。

Ⅱ 聖書の預言の重要さ

ではなぜ聖書の預言がそれほど重要な事なのでしょうか。それは、聖書は、単に人が書いた書物でなく、神さまが聖霊によって人々に書かせられた神の霊感の書だからです。つまり、聖書は創造主の完全な愛と正義と謙遜と善という、聖さが凝縮された宝石のような嘘過ちが一切ない神の聖なることばであるからです。もし、キリストの死と葬りと復活が聖書の預言通りで無いという事になれば、それは、神の完全な愛と正義と謙遜と聖に反する事という事になり、神はそれを喜び受け入れる事は出来ません。ですから、聖書の預言通りに、キリストは十字架で死に、葬られ、三日目に甦られたのです。「Ⅱテモ3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

 

Ⅲ キリストの受難と葬りと復活を預言する旧約聖書の主な個所

1、創世記3:15 (悪魔から人類を救う神のご計画)

「創 3:15 わたしは、おまえ(悪魔」と女との間に、また、おまえ(悪魔)の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえ(悪魔)の頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

創世記3章15節は「原始福音」と呼ばれ、メシヤがイスラエルを通して全人類を悪魔の支配から解放する事が預言されています。それは次のような内容になっています。

①悪魔と女(マリヤ及びイスラエル)の間に敵意をおく ②悪魔の子孫(反キリスト)と女の子孫(キリスト)の間に敵意をおく、③キリストは悪魔の頭を踏み砕く ④悪魔はキリストに踵に嚙みついて殺す

毒蛇は、人の踵を噛むだけで死に至らせる事が出来るように、毒蛇に例えられる悪魔はキリストを死に至らせるのです。しかし、その死はイスラエルと人類の罪を贖う為の死となります。それはキリストが復活し、死の力を持つ悪魔の頭を踏み砕くからです。キリストの十字架の死と復活を悪魔の頭を踏む砕いたのです。原始福音の中に既にキリストの十字架の死と復活が預言されていた事を、聖書は漸進的に啓示しています。

↓成就

「ヘブル 2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、・・」

2、詩篇22篇のメシヤの受難の預言

詩篇22:1「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」

↓成就

「マタ27:46三時ごろ、イエスは大3で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わ

が神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

3、イザヤの預言

①メシヤの受難は人類の罪の為の身代わりの刑罰

「イザ53:5彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

↓成就

◆「ヨハ 19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

キリストは、イスラエルと全人類の罪の為の贖い(償い)を完全に成し遂げたので、借金完済を意味する言葉「テテレスタイ(完了)」を使って息を引き取られました。

「ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神子羊。」

「ヨハ 19:14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」

「マタ 26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

「Ⅰコリ 5:7 私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」

②メシヤの葬りの預言

「イザ53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」

メシヤの遺体が、悪者どもと呼ばれる富む者とともに大事に葬られる事が預言されています。悪者どもというのは罪びとの事を意味してます。キリストは罪びとであるが富んでいる者の墓に大切に葬られる事をイザヤは預言していました。

↓成就

◆「ヨハ19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。 19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。 19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。 19:41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

本来、2000年昔、ローマによってエルサレムで十字架で処刑された罪人の遺体は、葬られること無く、どくろの散乱する死体処理場に放置されました。しかし、キリストの遺体は別でした。イザヤの預言通りに丁寧に富んでいる者の墓に葬られたのです。それによって、キリストは罪びととして死んだのでなく、メシヤとして死んだ事が教えられています。

③メシヤの復活預言

「イザ 52:13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」

↓成就

「マタイ28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。 28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」

Ⅳ 何故、キリストの罪なき血が十字架で流されなければ人の罪は赦されないのでしょうか

◆人の犯す全ての罪は永遠の死罪に値する

それは人の罪は、どのような罪であっても「永遠の死罪に値する罪」だからです。パウロが次のように教えています。「ロマ 1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

人間には、良心があります。良心は、人が罪を犯せばそれが「死罪に値する」事を教えているのです。死罪に値する多くの罪を犯し、生まれながらにして永遠の裁きを受ける定めの中にある罪びとが赦されて、永遠に平安と喜びの中に生かされる道は、キリストが聖書の預言通りに罪の赦しの為に身代わりに十字架に死に、葬られ、三日目に甦る以外にないのです。罪は全て死罪に値するので、難行苦行善行などではその罪を償う事は出来ないのです。あなたの一生涯において犯す全ての罪をキリストは全部背負って身代わりの刑罰をうけ、既に罪の償いを完了されました。その事を知っていたのでキリストは、十字架で最後に次のように言って息を引き取られました。「19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

あなたが一生涯において犯す死罪に値する思いの罪、言葉の罪、行いの罪全部をキリストが2000年昔に十字架で背負って、神から身代わりに刑罰を受けられたので、神はあなたに向かって宣言されています。「あなたを赦しました」と。その宣言を受けとる事が「信仰」です。その信仰により、あなたは神の裁きから救われ、永遠に赦され「永遠の義人」として神は生かして下さるのです。信じましょう!