「初穂として甦られたキリスト」
聖書:Ⅰコリント15章20節~
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
今年も、イエス・キリストのご復活をお祝いできることを神さまに感謝します。
1、キリストは聖書の預言に従って三日目に甦られました
先週の日曜日にもお伝えしましたが、キリストの十字架の死と、葬りと、三日目の甦りは、全て聖書の預言に沿ってなされた父なる神による救いの御業でした。先週は、その預言が創世記3章15節、詩篇16篇、詩篇22篇、イザヤ52章13節~53章12節などにおいて預言されており、その預言通りに、成就した事を新約聖書の著者が教えている事を学びました。その学びの中で、時間の都合上、主が死んで葬られてから三日目に甦られると言う預言が旧約聖書のどこに預言されているのか、お伝えするする事が出来ませんでした。主が三日目にご復活をされるという事が旧約聖書のどこに預言されているのか聖書を調べてみましたが、キリストが三日目にご復活をされると直接預言されている箇所を見つける事が出来ませんでした。聖書は、どこで、メシヤが死んで三日目によみがえることを預言しているのでしょうか。
2、死んだ預言者ヨナが三日目に甦った
それは第1に預言者ヨナが三日三晩大きな魚の中で死んでいたが生き返った事を引用して、キリストご自身が三日三晩地の真ん中にいた後、復活する事を教えておられます。ヨナが三日三晩大きな魚のお腹の中で死んでいたので、大きな魚の腹をヨナ書は「陰府」と呼んでいます。ヨナの出来事は、キリストが三日三晩陰府におり、その後甦る事を予型的に預言していたのだと、キリストは教えておられるわけです。「マタ 12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」。ヨナ書を読んで見ましょう。「ヨナ 1:17 【主】は大きな魚を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」
ヨナが三日三晩大きな魚の腹を死者が行く陰府として与えられ、その後、復活をして生きて宣教活動をした事を、キリストはご自身の三日三晩地の中心にいて、その後復活する事の型としての預言、
だと教えておられるわけです。
3、モーセ律法の過越祭から三日目の初穂の祭り
ヨナの予型的預言以外の預言は、パウロが復活したキリストを「初穂として甦られた」と語っている事です。「初穂」という時、ユダヤ人のパウロは何を思い浮かべていたでしょうか。それは、ユダヤ人の初穂の祭りです。モーセ律法の中で、神さまは、ユダヤ人に毎年行う重要な祭りを、レビ記23章で教えておられます。レビ記23章には、ユダヤ人が毎年行わなければならない7つの例祭が教えられています。第1に過越祭です。過ぎ越し祭は、昔イスラエルの人々が、400年間奴隷として苦しめられていたエジプトからモーセによって解放されたことを記念して行われます。今から約3500年前に、神さまは、イスラエルの人々をエジプトの圧政から解放される時に、小羊の血をイスラエルの人々の家の鴨居と柱に塗るように命じられました。その小羊の血を見て滅びの天使がイスラエルの人々のその家を過ぎ越して行き、小羊の血が塗られていないエジプトの民の家には滅びの天使が入っていき、長男と家畜初子のオスが悉く滅ぼされて行きました。その、苦しみにより、エジプトのパロ王はイスラエルをエジプトから出ていく事を許したのです。その神さまの解放の愛をイスラエルの人々が忘れる事が無いように、神の愛を信じる信仰の保持のために、神さまは「過越祭」を制定されました。
①過越祭とキリスト
その時の過ぎ越しの小羊は、2000年昔、イスラエルと人類の罪の赦しの為に、ユダヤの過ぎ越し祭の時に十字架で死なれたキリストを予型として預言していたのです。それ故に、ヨハネによる福音書では、キリストの事を「罪を取り除くj神の小羊」と呼ばれ、パウロはキリストを、「私達の過ぎ越しの子羊キリスト」(Ⅰコリント5:7)と呼んでいます。過ぎ越し祭は、キリストの十字架による贖罪を預言していたのです。キリストが十字架で死なれた時、他の二人の強盗は死を早める為に、足の骨が折られましたが、キリストはすでに死んでいたので、ローマの兵隊はキリストの足を折る事をしませんでした。メシヤの骨は折られない事が実は旧約聖書で預言されていたのです。
「詩 34:20 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」。
メシヤの骨が砕かれないという預言は、過越し祭で屠られる小羊の骨は折ってはならないという戒めによってでも預言されていたのです。
「出 12:46 これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」
「民9:12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。
「ヨハ19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。 19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。 19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」
②除酵祭とキリスト
モーセ律法の第1の月の14日の「過越し祭」は、明らかに過ぎ越し祭の時に十字架死なれたキリストを預言していたのです。では、その14日の次の安息日15日から始まる「除酵祭」は何を意味しているのでしょうか。それはパウロによれば、単数形の罪アマルティアの力に負けて罪を多く犯すキリスト者に残存する古い人がキリストによって取り除かれ、死んだ事を預言する祭りでした。キリストによって私たちの古い人は死んで既に取り除かれたので、キリスト者の事を「種無しのパン」だとパウロは呼んでいます。その霊的事実に立って、日々御霊によって古いパン種である古い人を退けて生きて行く聖なる道を歩むことをパウロは次のように教えています。「Ⅰコリ5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」
過越し祭の後に続く「除酵祭」を念頭にして、パウロはキリスト者の古いパン種である「古い人」を御霊によって取り除くことを教えています。少しのパン種が粉を大きく膨らませるように、古い人は多くの罪を生みだすまるで罪の生産工場のようです。
以上の除酵祭と並行して行われたのが、「初穂の祭り」です。初穂の祭りは、過越祭の14日から数えて3日目の日曜日に執り行う事が命じられています。小麦の豊作を願って、神さまに初穂を感謝してささげる祭りです。過越祭から数えて3日目の日曜日の「初穂の祭り」が、キリストが過ぎ越祭の時に十字架で死んでから3日目によみがえった事を預言していた事をパウロは知っていましたので、キリストを甦りの初穂だと呼んだのです。この神秘的な預言を、今も多くのユダヤ人は気が付かないままでいます。とても不思議な神秘的な預言です。キリストが復活の初穂であることをパウロはⅠコリ15:20と22節で教え強調しています。つまり、永遠に朽ちない栄光の体で復活をしたのは、キリストが最初であったという事です。
③初穂の祭りとキリスト
初穂の祭りでは、初穂の後に続く小麦の収穫を願って行われます。そのように、キリストが復活の初穂であるならば、必ずそれに続いて復活する人が存在するという事です。パウロは感動を込めて次のように教えています。「Ⅰコリ15:22しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です」。もし、あなたがキリストに属している人ならば、つまり、聖書の預言通りに十字架に自分の罪の赦しの為に死に、聖書の預言通りに葬られ、聖書の預言通りに三日目に甦られたキリストを自分の救い主だと信じているならば、間違いなく、キリストが初穂として永遠に朽ちない栄光の体で甦られたように、必ずあなたも甦るという事をパウロは断言しているのです。その時、私達のからだは罪を犯さないからだとなります。現在の私達キリスト者のからだは御霊の助けがなければ罪を犯す罪のからだです。また、病気をしたり怪我をしたり、死んでしまう体です。しかし、キリストに続いて甦った時に与えられるからだは、罪を絶対に犯さないからだ、律法を完全に守るからだ、病気をしないからだ、どんな小さな怪我もしないからだ、疲れないからだ、永遠に死なない、永遠に朽ちない栄光の体に甦るのです。では、キリストに属する者は、いつ甦るのでしょうか。パウロはキリストが空中に再臨された時だと教えています。
5、祝福の第1の復活
栄光の体で甦る祝福の復活の事を聖書は第1の復活と呼んでいます。「黙示20:4また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。 20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。 20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」
黙示録は7年の大艱難時代に殉教した人たちが栄光の体で甦る事を「第1の復活」と呼んでいますが、それは第1番目という事でなく、祝福の復活を意味して「第1の復活」と呼んでいます。それは、最後の審判の時、キリストを信じる事を否定した人たちの霊が、陰府と海からに甦った肉体と結びつけられて、審判者キリストの前に導かれます。その彼らの肉体の甦りは祝福の甦りでなく、裁かれる為という呪いの甦りです。その呪いの復活と比較して、祝福の復活を黙示録の著者は「第1の復活」と呼んだのです。その祝福の復活である第1の復活の範疇に入る復活が、初穂であるキリストの復活です。キリストに続いて、キリストが空中再臨された時に復活するのが、私達キリストに属するものです。その復活を、パウロはからだの贖いと呼んでいます。「ロマ8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
①ラッパの祭りとキリスト者の復活
キリストが空中に再臨された時に、死んだキリスト者先に墓より栄光の体で甦ります。生きていてキリストの空中再臨を迎えるキリスト者のからだは、栄光の体に変えられます。「Ⅰテサ 4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい」。テサロニケの手紙で約束されているキリストの空中再臨時の復活を、パウロはⅠコリント15章でも教えています。パウロは自分たちが生きている時にキリストが空中再臨される事を期待して次のように教えました。「Ⅰコリ15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
テサロニケの手紙でもコリントの手紙でも、キリストの空中再臨時に伴う祝福の復活の出来事はラッパが鳴り響く中で実現する事が教えられています。パウロはそれを奥義だと教えています。それは、神さまが新約時代になって初めて教えられた神秘的真理だからです。モーセ律法のラッパの祭りは、実は空中再臨時におけるキリスト者の復活を預言する祭りであった事をパウロは神さまから奥義として知らされたのです。7月の第1日の「ラッパの祭り」は現代でもイスラエルで行われていいます。4種類の吹き方で角笛が吹かれます。
プープープー プププープププー ププププププ プーーーーーーーーーーーーーーー
最後の息が続く限り吹く第4番目の吹き方は、メシヤ的王国を期待して吹いていると言われます。秋の最後の祭り「仮庵祭」は昔イスラエルの先祖がエジプトから解放されその後40年間荒野をさまよった時に、神さまの恵みに与った事を思い出しで神さまに感謝を刺さる祭りですが、同時に、やがてアブラハム契約、土地の契約、ダビデ契約、新しい契約の実現として成就するメシヤ的王国を預言する祭りとなっているんのです。
②メシヤ的王国と旧約時代の聖徒の復活
そのメシヤ的王国が実現する時に、旧役時代の聖徒たちが全員祝福の復活に与り栄光の体で甦るのです。そして、メシヤ的王国の住民として迎えられるのです。
旧約時代の聖徒たちの甦りは、イザヤ書とダニエル書に預言されています。その時、私達は、旧約時代の聖徒達と共に、メシヤ的王国で神さまにお仕えするのです。「イザ 26:19 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます」
「ダニ12:2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。 12:3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」
第1の祝福の復活の最初の復活がキリストの復活、その次はキリスがト空中に再臨された時のキリスト者の復活、その次はメシヤ的王国は始まる時の旧約時代の聖徒たちの復活、その次は、7年の大艱難時代に殉教した聖徒達の復活、そして最後に、千年のメシヤ的王国が終わったとき、艱難時代にキリストを信じてメシヤ的王国に導かれていた聖徒と、メシヤ的王国時代にキリストを信じた聖徒達の甦りです。第1の祝福の復活は以上の五つの段階を追って実現して行くのです。キリストが初穂として甦って下さったゆえに、キリストに属する私達も復活し、その他旧約の聖徒達、大艱難時代の殉教者達、大艱難時代を生き延びメシヤ的王国に導かれた聖徒達、メシヤ的王国で生まれた聖徒達がキリストの復活に続くのです。それが、創造主の父なる神が、ご自身の栄光として私達の祝福と幸福jと喜びを熱く熱く願ってご計画して下さっている壮大な愛のご計画です。
【終わりに】
復活の初穂のキリストは、私達に、神の愛の壮大なご計画が必ず実現する事を保証しています。このような、壮大な復活の希望は、キリスト以外にもたらす事はできません。その希望に感謝しましょう、同時に復活のキリストは私たちが、キリストご自身のように、正しく、聖く、愛に満ち、謙遜に満ちて生きてく為に、霊としてキリスト者の霊の中に永遠に住んで下さっています。私達キリスト者は、2000年昔キリストと共に十字架でに死に、共に葬られ、共に復活し、共に父なる神の右の座に着座し、共に聖霊の注ぎを受けたものとして、愛して下さっています。キリストにあって私たちは既にキリストのように生きるものとされています。私達がその霊的事実に安んじる時、復活の霊なるキリストは聖霊を働かせて、ご自身のように生きるようにして下さるのです。また、私達の霊に内住されている霊なるキリストは、私尾たちの魂の監督者牧者として、全ての道で必要な愛の導きの御声を聖霊によって細き御声をかけつつ祝福しようと常に心を燃やされているのです。将来における復活の希望と共に、悩みの多い今の世にあって、聖霊によって必要な助けの御手をいつも差し伸べて下さっている復活の霊なるキリストが私たちの希望となって下さっています。感謝しましょう。また、ご自身の名による集いの真ん中にいつも臨在して集う者を祝福して下さる、霊なる復活のキリストに感謝しましょう。私は、信徒の時代、教会の集会で集う事が可能な集会には出来る限り出席しました。特に礼拝を休む事はしませんでした。趣味の野球も全て捨てて礼拝に出席をしたのです。夜の祈祷会も夜間の学生でしたが、集えるときはできる限り出席をしました。私は出席をしなければ損だと思っていました。それはマタ18:20で「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と、主が約束されていたからです。私は主の名による集いに集えば、霊の復活のキリストが特別に祝福して下さる事を私は信じる信仰に導かれたのです。愛と祝福に満ちたキリストがそこにおられるのに、その事を感じようが感じまいが、絶対のおられると信じたので、主の名による集いに集わなければ大損だと思ったのです。初穂として甦られたキリストに栄光があるように!
「Ⅰコリ15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」
「生かす御霊」のというのは、聖霊の事ではありません。ギリシャ語を直訳すれば、「生かす霊」です。栄光の体で復活し天に挙げられた復活のキリストは霊だけで、活動ができるのでキリストは「生かす霊」なのです。生かす霊であるキリスとは信じる者をキリストのような生き方ができるように、聖霊と共に働いておられるのです。また、聖霊と共に、私達を栄光から栄光へと主と同じ姿、人格者に変えて下さる聖化の働きをされているのです。聖霊は、いつも生かす霊である霊なるキリストに従って活動をされているのです。霊なる復活と、霊なる復活にお仕えになっている聖霊を賛美しましょう。
復活の主が、生かす霊としてあなたに出会って下さるようにお祈りしています。