2024年4月19日

米子復活教会牧師:佐藤勝徳

【はじめに】

前回の緊急レポートでは、特に「パレスチナ難民問題」の原因について、1948年5月14日にイスラエル国家が復興した事は責任の無い「間接的原因」である事をお伝えしました。また、イスラエル国家の復興に対して「反ユダヤ主義」によって反対し、ユダヤ国家の撲滅を目的に戦争を始めた「アラブの指導者達とそれに扇動されたアラブ人達」に責任を負わなければならない「直接的原因」がある事を、色々な角度から検証してお伝えしました。今回は、第2次中東戦争と第3次中東戦争の原因についてお伝えしたいと思います。

 

1、第2次中東戦争の原因

ウイキペディアは第2次中東戦争について次のように説明をしています。「1956年10月から同年11月6日にかけて勃発した中東戦争である。「スエズ戦争」や「シナイ作戦」などとも呼ばれる。この戦争はエジプトによるスエズ運河国有化宣言に対抗してイギリスフランスイスラエルの3国が密約を結んでエジプトに侵攻したことで開戦。以英仏側は運河地帯とシナイ半島を占領したが、この行動は国際社会によって非難され、国際連合(国連)はアメリカソ連の支持を得た上で即時停戦と撤兵を決議し、第一次国際連合緊急軍を展開した。エジプト側の抵抗もあり、英仏軍は1956年11月までに、イスラエル軍は翌1957年3月までに撤兵することを強いられた。この戦争の結果、エジプトはスエズ運河の国有化を確定させた」

この第2次中東戦争は、英国、フランス、イスラエルのエジプトへの侵略戦争として、国際的な批判を受けています。しかし、イスラエルはなぜ、そのようなスエズ運河の利権問題で勃発した「第2次中東戦争」に参戦をしたのでしょうか。その動機を探るには、1949年の休戦協定で第1次中東戦争が終わってから、第2次中東戦争が勃発するまでの間、イスラエルとパレスチナ及びエジプトとの間に何があったのかを知っておくことが必要となります。

2、第1次中東戦争停戦の1949年から1956年の第2次中東戦争勃発までのイスラエルとパレスチナの情勢

以下が、1949年から1956年までのネットに流されているイスラエル略史年表です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上の略史年表には記載されていませんが、ニューヨーク生まれのユダヤ人で、作家のダニエル・ゴーディスが「イスラエル/民族復活の歴史」の中で、1953年から1956年までに起きた、アラブ人のイスラエルに対する様々なテロや暴動、そしてイスラエル絶滅の為に、エジプトが桁外れの兵器を購入し、軍備を増強した事に対するイスラエルの対応について報告をしています(同P213~228)。以下にその報告を要約します。

◆ダニエル・ゴーディスの報告

①1949年から1952年:イスラエル独立後3年間で毎年数千人が、ヨルダンとエジプトの国境から越境してくるとパレスチナ人の頻繁な襲撃に見舞われる。

1953年10月12日、西岸地区と地中海の間にあるイェフードの町に住む、32歳の母親のスーザン・カニアスと2人の子どもが、パレスチナ人が家に放り込んだ手榴弾で殺害され、もう1人の子どもは負傷を負った。このテロ事件に対する報復として、イスラエル第101部隊が、西岸地区停戦ラインすぐ近くにあるパレスチナの村キビヤの家屋45件を破壊する作戦に出た。兵士たちは天上裏や地下室には誰もいないと思い破壊したが、結果として、その中に身を潜め隠れていた、50人~60人の住民を死なせてしまった。この事件は、イスラエルが世界から批判を受ける事となった。この事件について、ウイキペディアでは次のように教えています。「キビヤの虐殺は、3人のイスラエル人(イェフードの(母親と2人の子ども)が殺害されたことへの報復作戦をきっかけに、1953年10月14日にヨルダン川西岸のキビヤ村で実行された虐殺事件である。第101部隊や作戦に加わった他のイスラエル軍の兵士はキビヤ村にいたアラブ人兵士と銃撃戦を行った末、迫撃砲などよって住民を攻撃し、結果的に42人の民間人が殺害され、15人が負傷した。また、この虐殺により、この軍事作戦での要職にいたダヴィド・ベン=グリオンが政府職を一時辞任した。」
②1951年から1956年の間、西岸地区からのパレスチナ人越境者たちは数百人のイスラエル人を殺害。                  ③1956年4月29日、エジプト軍の支援を受けていたパレスチナのテロリスト集団「フエダイーン」によって、ガザ地区の国境付近のイスラエル人のキブツ「ナハル・オズ」でテロが起きた。21歳のロイ・ロットベルグが農場を馬に乗ってパトロールしていた。その彼に、「フエダイーン」のテロリストの一団がロットベルグを掃射して殺害した。彼の屍体はガザまで引きずって行かれ、冷然とずたずたに切り刻まれた。
④1952年クーデターでナセルがエジプトの新しい大統領になる。ナセルは、敵国である「イスラエル撲滅を軸」にして、アラブ世界を統一できると思い次のように熱心に説いていた。「復讐(第1次中東戦争でイスラエルに敗北した事への復讐)を遂げるにはアラブ統一が前提条件だ」と。
⑤1955年8月、エジプトはチェコスロバキヤと前代未聞の規模の武器売買協定に調印し、ナセルは、イスラエル撲滅の為に、けた外れの兵器を保有する事になった。ナセルは兵器購入の意図を隠さなかった。ソビエト製の兵器のお陰で、ユダヤ国家の撲滅が充分可能となったとナセルは豪語していた。
⑥1956年7月26日、ナセルはナイル川に建設する「アスワンダム」の建設費用の為に、スエズ運河を国営化すると宣言した。
⑦1956年10月、イスラエルはエジプトのナセルの脅威に対抗する為に、イギリス、フランスと三国による「セーヴェル協約」を結んだ。「1956年10月22日から24日にかけてパリ郊外のセーヴェルにおいて、三国の代表は秘密裏にかつ断続的に会談を行った。イスラエルが先制攻撃を実施し英仏が侵攻する計画に三国は合意した。攻撃は10月29日19時(イスラエル時間)開始と決定された」(ウイキペディアより)
⑧1956年10月29日、イスラエルが、すぐにでもイスラエルに侵攻して来るであろうナセルのエジプト軍との戦い「シナイ作戦」に備えていた時、悲劇が起きた。イスラエルはエジプトとの戦いに備えて、ヨルダンとの国境沿いの「小さな三角地帯」に全てのアラブ人の村に、午後5時以降の戒厳令を敷いた。その一つが、カフル・カセムという村であった。戒厳令は夕方5時直前であり、多くのアラブ人労働者は戒厳令の事を前もって聞いていなかった為に、イスラエル軍と遭遇しても問題なく通過が出来た。しかし、カフル・カセムに住む50人の労働者の一団が、帰宅途中に遭遇したイスラエル国防軍から発砲を受け、47人が殺された。その中には多くの婦女子が含まれていた。イスラエル建国以来の、最大のアラブ人虐殺であった。この事件はイスラエル国内からも厳しい批判が投げかけられてきた。後に、2014年4月10日、イスラエル第10代大統領ルーヴェン・リヴリンが、カフル・カセムの例年の追悼記念会に最初に参列をしている。 このカフル・カセムの事件について、ウイキペディアで次のようにお教えている。「イスラエル軍はエジプトに侵攻するシナイ作戦の前夜の1956年10月29日に、警告することもなく戒厳令を発令した。ヨルダン国境近くのすべてのパレスチナ人の村に、午後5時から翌日午前6時まで適用する戦時の夜間外出禁止令を命じた。イスラエル軍の国境警備員は、午後5時以降に家の外で発見した人を撃ち殺し、男性、女性、子供、村の外から戻ってきた人を区別しないと通知された。夜間外出すれば、パレスチナ人は路上で撃たれることになっていた。イスラエル軍の命令は、村からのほとんどのパレスチナ人に通知される前に、午後3時30分にイスラエル国境警備隊に通知された。多くパレスチナ人の住民は当時働いていた。村人たちは仕事や畑からカフル・カセムの自宅に到着し始めていた。イスラエル軍はカフル・カセムの村民に発砲した。午後5時すぎから約1時間で約47人のパレスチナ人が虐殺された。6人の女性と23人の子供と3歳から17歳の少年も含まれていた」。                                        ⑨1956年10月29日午後5時、イスラエル軍がシナイ半島に侵攻し、第2次中東戦争が勃発。約10日間の短い戦争であった。イスラエルは、231人の兵士が死亡、900人が負傷。エジプト軍は1500人から3000人が死亡、5000人が負傷。

ダニエル・ゴーディスは以上の事を報告し、最後に「第2次中東戦争」の結果、イスラエルが得た事について次のように締めくくっています。「シナイ作戦(第2次中東戦争)は短い戦争であったが非常に重要であった。イスラエル国民にとっては、8年間も絶えず越境侵害にさらされて生活していたが、この戦争で安心と自信を得る事が出来た。マイケル・オレンガいうようにイスラエルの『第2の独立戦争』だった。イスラエル国防軍はそのプロ意識において世界を驚嘆させた。百時間でシナイ半島を攻略し、その結果イスラエルは10年間の静寂を得ることになる。中東に新たな軍事勢力が現れたのだ」と。

3、イスラエルが第2次中東戦争に参戦した原因

イスラエルが、何故、第2次中東戦争に参戦したか、ダニエル・ゴーディスの報告でも分かるように、ユダヤ人国家の撲滅を掲げる、エジプトのナセル大統領のエジプト軍による侵攻を防ぐためであったのです。イギリスやフランスはナセルのスエズ運河の国営化という運営に関わる利権問題に反発して、第2次中東戦争を始めたのですが、イスラエルは両国の支援の下、ナセル大統領の「ユダヤ人撲滅」を掲げる「反ユダヤ主義」との戦いの為にエジプトのシナイ半島に侵攻したのです。又、その戦争により、イスラエルの軍事力をアラブの人たちに示し、ガザ地区、西岸地区に住むパレスチナのアラブの人の暴動とテロを長年にわたり阻止する事が結果的にもたらされました。

第1次中東戦争から第2次中東戦争が勃発する。1949年から1956年の間、イスラエルはアラブ人による多くの暴動とテロに見舞われたのですが、その報復の為と、又、シナイ戦争前の緊張が高まっているなか、イスラエル軍の兵士たちは、多くのアラブ人を虐殺する大きな事件を2回起こしてしまいました。それが「キビヤ事件」と「カフル・カセム事件」です。しかし、私たちはその事を重大事件として厳しく批判しながらも、第2次中東戦争にイスラエルが参戦した直接的原因は、エジプトのナセル大統領が掲げていた「反ユダヤ主義」からイスラルを守る為あったという事を忘れないようにしなければなりません。この私の見解は、イスラエルが善だと言わんとしているのではありません。あくまでも「パレスチナ問題の直接的原因」が、アラブの「反ユダヤ主義」にある事を強調しようとしているのです。

4、第3次中東戦争の概要

第3次中東戦争についての概要を、慶応義塾大学の名誉教授である島田晴雄氏がネットで次のように教えています。「1967年5月には第三次中東戦争が勃発します。ナセル大統領のチラン海峡封鎖宣言を重大事と受け止めたイスラエルからの先制奇襲攻撃でした。アラブ側で不穏な動きのある時に、アラブ各国の空軍機をたちまち破壊して制空権を奪取。陸上戦に移ると、エジプト戦線ではガザ地区を占領し、三つのルートからシナイ半島を攻略して、7日にはシナイ半島全域を占領。ヨルダンに対しては、6日までにエルサレム旧市街を、8日までにエリコを含むヨルダン川西岸の全てを制圧するという凄まじい速さでした。 この時に、ユダヤ人イスラエル民族の歴史的聖地「嘆きの壁」が、2000年の時を経てはじめてユダヤ民族の管理下に置かれます。「嘆きの壁」というのは、古代イスラエルが王国として繁栄した紀元前に、ヘロデ大王が築いたエルサレム神殿の外壁の一部です。神殿はローマ帝国によって粉々に粉砕され、西側の地盤の壁だけが残っていたのです。壁の回復が第三次中東戦争の意義であったと、イスラエルでは位置付けられています。」                                                                  ウイキペディアではその概要を次のように教えています。「1956年第二次中東戦争以降対イスラエル・アラブ情勢は比較的安定していたが、1966年にヤーセル・アラファートが指導するファタハがヨルダンとの国境に地雷を仕掛けてイスラエル軍兵士が殺害されたことを受けて起きたサム事件から、次第に緊張が高まりつつあった。1967年5月にはエジプトシナイ半島に地上部隊を進出させ、さらにエジプトの要求により第一次国際連合緊急軍が撤退、チラン海峡も閉鎖するなど「イスラエルの抹殺」、すなわち戦争の動きを見せるようになり、イスラエルも動員令を発令、国防相にモシェ・ダヤンを就任させるなど、戦備を整えた。  こうした中、1967年6月5日朝、イスラエル空軍がアラブ各国の空軍基地に奇襲攻撃を行い、アラブ各国の空軍に壊滅的被害を与えた上で攻撃を開始した。アラブ側はイスラエル軍の前にほとんど抵抗できずに敗走を重ね、6日間で戦闘は終結、イスラエルはエジプトからシナイ半島とガザ地区を、ヨルダンから東エルサレムを含むヨルダン川西岸を、シリアからゴラン高原を占領した。」

5、第3次中東戦争勃発の原因

以上のウイキペディアの説明による第3次中東戦争の概要から、その勃発の原因が、2つある事が分かります。それは、1966年イスラエル兵士がアラブのファタハによって殺害された「サム事件」と、1967年5月イスラエル抹殺の為に、エジプト軍がシナイ半島に進出し、チラン海峡を封鎖してエジプト軍が戦争を開始した事です。

①「サム事件」とは

ネットの「百科事典、科学ニュース、研究レビュー」では、サム事件について序章で次のように教えています。「サム事件、またはサムの戦いは、2日前にヨルダン川西岸国境近くで起きたアル・ファタハ地雷攻撃への反応として、1966年11月13日にヨルダン支配下のヨルダン川西岸サム村でイスラエル軍によって実行された。大規模な国境を越えた攻撃。イスラエル兵3人が国境警備中に死亡した。これは1956年のスエズ危機以来最大規模のイスラエル軍事作戦で、1967年の六日間戦争勃発の一因となったと考えられている。」

②エジプト軍がなぜシナイ半島に進出しチラン海峡を封鎖したのか

ネットの「改訂新版 世界大百科事典『中東戦争』の意味・分かりやすい解説」では、エジプト軍がシナイ半島に進出しチラン海峡を封鎖したのは何故か、その概要を教えています。「スエズ戦争によってナセルは一躍アラブの英雄となり,ナセルのパン・アラブ主義は1958年にエジプト,シリアのアラブ連合結成によって絶頂期を迎えた。しかし,61年シリアのアラブ連合脱退を機にナセルの威信にかげりが見え始めた。このためナセルはエジプト国内では社会主義路線を進め,対外的にはイエメン内戦へ軍事介入し,再びアラブ世界のリーダーシップを回復しようとした。66年2月シリアでバース党左派政権が誕生すると,この政権はパレスチナ・ゲリラのファタハの対イスラエル闘争を支援したため,イスラエルとの緊張が高まり,イスラエル,シリア両軍の衝突にまで発展した。67年5月,ソ連とシリアからナセルのもとへ,イスラエル軍がシリア攻撃のため大兵力を集結しているとの誤報がもたらされた。ナセルは座視することによって権威が失墜することを恐れ,5月14日エジプト軍を警戒態勢におき,15日軍の一部をシナイ半島へ進駐させた。16日エジプトはUNEFの撤退を求め,ウ・タント国連事務総長は18日これに同意した。5月22日エジプトはチラン海峡を封鎖し,24日安保理事会が招集されたが,危機を鎮静化できないまま,30日エジプトはヨルダンと軍事同盟条約を締結した。」

ダニエル・ゴーディスは、エジプト軍のチラン海峡封鎖の経緯を次のように教えています。「1967年の春、第3者が故意に火に油を注ぐ行為をした。ソ連がエジプトとシリアの代表者に、イスラエルが襲撃の備えとして12師団を北部に移動したと知らせたのである。エシュコル首相はこの主張を否定し、4月26日には、ソ連大使館ドミトリー・チュバキンを招き、一緒に北部を偵察し、自分で確かめるように勧めた(チュバキンはこれを否定する)。アメリカもソ連の報告がでたらめであることを訴えたが、シリア側はあえてソ連を信じた。ソ連はイスラエルが戦争をしかけているとシリアとエジプトに告げる事によって、戦争をけしかけたのである。イスラエルの指導者たちは・・・数か月前にエジプトとシリアは『相互防衛条約』」に調印していた事も承知していた。イスラエルはこの危機を外交交渉、或いは小規模な軍事行動で解決できるかもしれないと期待したが、それは潰えてしまった。カイロのラジオ局は「わが軍は戦争の準備が完全にできている」と言明したからである。5月15日、アラブ諸国が1948年の戦争の敗北を悲しむ日に(イスラエルの独立パレードの日)、ナセルは「同胞よ、パレスチナにおける最終戦に備えるのは私たちの義務である」と宣言した。イスラエル撲滅を目指すアラブ作戦の「次なる戦い」が久しく予想されていたが、その可能性が高まりつつあった」。

(「イスラエル/民族復活の歴史」P251~252)

イスラエルは第3次中東戦争をできる限り避けようとしていたのです。ダニエル・ゴーディスは「6日戦争の歴史的な検証」の締めくくりで次のように証言しています。「‥事実6日戦争から30年経つと、イスラエルの政府記録保管所の資料が機密種別から外され、外交史を検証できるようになった。(アラブの記録保管所閉鎖されたままで、いつまで機密扱いにされるのか定かではない)。マイケル・オレンが大著『第3次中東戦争全史』で実証しているように、『イスラエルは戦争回避に必死で、戦闘前夜まで、戦争回避のあらゆる手段を求めていた』」。と報告しています。(同P269)

以上のように、第3次中東戦争勃発の重要な直接的原因は、ソ連のフェイクに扇動された「エジプト」「シリア」「ヨルダン」が、イスラエルに対してその撲滅を目指して「戦争を開始した」事にあったのです。チラン海峡は、紅海に繋がるイスラエル南端の港エイラ-トに通じ、東洋に通じるイスラエルの重要な通商ルートとでした。そこを1967年5月17日にエジプトは封鎖してしまったのです。それによって、1956年のシナイ作戦でイスラエルが獲得した外交成果の全てを抹消する事に、エジプトは成功したのです。(同P253~254)

第3次中東戦争の責任のある直接的な原因は、ソ連のフェイクに扇動されてユダヤ人の撲滅を目指してエジプト軍が「チラン海峡」を封鎖した事や、その他にアラブ諸国の「反ユダヤ主義的」な宣戦布告にあったのです。

 

③アラブ諸国による第3次中東戦争開始に向けてのイスラエに対する「反ユダヤ主義的」宣戦布告

1)エジプトのナセル大統領の宣戦布告

上述していますように、ナセル大統領はラジオ放送で宣戦布告を行いました。「同胞よ、パレスチナにおける最終戦に備えるのは私たちの義務である」。「パレスチナにおける最終戦」とはどういう意味でしょうか。それは、パレスチナからイスラエル国家を消滅させる事を最終目標に、これまで繰り返し行ってきた「中東戦争」の最後の戦いいすると言う、強い決意の表明を意味しています。これは、明らかにイスラエルのへの「宣戦布告」を意味していたのです。ナセル大統領はその他に次のように豪語していたのです。「アカバ湾の封鎖がイスラエルのとの戦争を意味する事は、我々全員が知っている。‥目的はイスラエル撃滅である」と。

2)シリアのダマスカス放送の宣戦布告
「アラブの民衆よ。時は来た。戦場へ馳せ参じ、…帝国主義者を最後の1兵まで血祭りにせよ。シオニストは一人残らずさらしものにせよ・・」
3)シリアのアサドの宣戦布
「敵の居住地を粉砕せよ。アラブの道をユダヤ人の頭蓋骨で敷き詰めよ情けは無用である。撃て」                                                                                                                 4)カイロの「アラブの声」による宣戦布告とカイロ市内に溢れたポスター
※ラジオ・カイロ放送:「イスラエルを抹殺せよ」  ※カイロ市内中に張られたポスター:「アラブ兵 は、あご髭でかぎ鼻のユダヤ人を撃ちまくり、押し潰し、めった切りにして、首をはねる」
5)イラクの首相の宣戦布告  「ユダヤ人で生き残る者はひとりもいないであろう」
6)エジプト軍から押収した作戦計画の一部
「テルアビブ占領とその住民の殲滅」「毒ガスの使用」
7)パレスチナ解放軍の作戦計画の最終目標   「イスラエルとその住民の抹殺」 
(アラン・ダーショウイッツ著「ケース・フォー・イスラエル/中東紛争の誤解と真実」P117~118)より
8)シリアのヨルダン川流域変更計画工事の実施
「シリアは最大35%の水量をイスラエルの国家送水システムからそらすことを、宣言してきた。水問題で苦しむイスラエルにとってそれは開戦行為だと強く反対したが、変更事業は続けられた。その為に、国境付近で紛争が勃発した。シリアはイスラエルの村落を狙い撃ちしてきたが、イスラエル軍はシリアの土木工事用の重機を攻撃をした」。

(ダニエル・ゴーディス著「イスラエル/民族復活の歴」]P251)より

以上の、水問題が「6日戦争」勃発の原因の一つである事が、ネットの社会環境研究第9号(/2004年3月)で、清水洋子氏(国際社会環境学専攻)が詳細に論じられています。それによると、イスラエルは、1962年には人口も200万人以上に増え、生活用水の確保と、さらに、農業を安定的に発展させるには、ヘルモン山(標高2,814メートル)などの連なるアンチレバノン山脈ゴラン高原(シリア高原)などに端を発するヨルダン川からガリラヤ湖に流れ来る水を使って、全国に水道網を完備する事が国家プロジェクトとしての急務でした。そのイスラエルの国家プロジェクトをシリアが妨害する為に、イスラエルへの水量を3分の1に減らすことを目的に、シリアに流れるバニヤス川の流れをヤルムーク川に変更する工事に取り掛かったのです。それをイスラエルの指導者はシリアのイスラエルへの戦争行為ととらえて、工事の中止を目的に、工事現場を爆撃したのです。

春から6ケ月間、乾季となり雨が全く降らないイスラエルにとっては、国民への安定した生活用水と、農業の発展には「ガリラヤ湖の水の確保」はどうしても必要な国家の重大な課題であったのです、

「6日戦争」の背景に、イスラエルにとっての死活問題である「水問題」が、シリアとの関係において既に起こっていたのです。

第3次中東戦争は、イスラエルの先制攻撃が原因で勃発し始まったと言われますが、それは事実とは異なります。以上のエジプト軍のチラン海峡封鎖や、アラブ諸国の暴言的「宣戦布告」や、シリアのヨルダン川流域変更工事実施などからもでも分かるように、先に戦争を始めたのは実質上「アラブ諸国」だったのです。

以上の見解につていてアラン・ダーショウイッツも次のように纏めています。「イスラエルがエジプトに対して先制攻撃をかけたのは確かであるが(ヨルダンに対しては先に発砲をしていない)、そのエジプトは、エイラートに通じる国際水路のチラン海峡を封鎖し、イスラエルの船舶航行を阻止し、さらに境界域に展開して緩衝役を果たしていた国連軍をシナイ半島から撤収させるなど、既に戦争行為に走っていたのである」(同P117)。

③イスラエル軍はなぜ第3次中東戦争を6日間で終わらせ大勝利をしたのか

アラブ諸国の始めた第3次中東戦争は、これまでの「中東戦争」に比較して、イスラエル国家絶滅の危機が非常に高く、イスラエルの指導者たちは、これまでになく強い危機感に見舞われたのです。その危機から逃れる道は一つしかありませんでした。それは、イスラエル軍が、先制攻撃してエジプトの空軍機を初め、シリアとイラクの空軍機を壊滅させる事でした。アメリカやフランスはなぜかそれには反対をしていたのですが、イスラエルは国家抹殺の危機で、その当時のイスラエルの指導者としてはそれ以外にとる手段はなかったのです。

◆イスラエルの奇襲攻撃の成功した理由

イスラエルのジェット戦闘機は先ず、エジプトの戦闘機を全滅させる作戦を立てました(フォーカス作戦)。その為には、エジプトのレーダー網にキャッチされないよう、超低空飛行で地上すれすれを飛ぶ以外にありませんでした。そのイスラエルの先制攻撃の計画をソ連がキャッチし、ヨルダン国に伝えました。ヨルダン軍のレーダーが、イスラエルのジェット機を探知し、急いで、エジプトへ通信システムを使って伝達をしました。ところがなぜか、その伝達はエジプトの軍隊に届かなかったのです。それは、エジプト軍が、通信システムの周波バーコードを変更していた事にありました。エジプトの空軍部隊の兵隊たちは、イスラエルの先制攻撃があるとは知らず、朝食の為にパイロットたちは空軍機を離れていたのです。そこへいきなり、イスラエルの多くの戦闘機(200機)がエジプトのレーダー網をくぐり抜け飛来してきたことに大慌てとなりました。しかし、時遅しで、あっという間に、たったの3時間でエジプトの戦闘機数百機以上が破壊され、エジプトの飛行士3分の1が死亡し、13の基地が機能不全となり、レーダー基地23か所及び対空施設が壊滅され、使用不能となり、エジプトの空軍が消滅してしまったのです。その同じ日に、イスラエルのエジプト軍への先制攻撃に慌てた、ヨルダン、シリア、イラクの空軍部隊が同じ日の午前11時50分に、イスラエルを攻撃しましたが、2時間後には、イスラエルの空軍は敵軍の全ての航空機を撃墜、或いは撃退し、ヨルダンとシリアの空軍基地を撃滅しました。6月5日だけで、イスラエルは、アラブ連合軍の飛行機400機を破壊したのです。それによって、イスラエルの制空権は確実になりました。

イスラエルの戦闘機によるジプト空軍の壊滅と、シリアとヨルダンとイラクの空軍機との戦いに圧倒的な勝利を収めた事により、イスラエルの陸上部隊は勢いづき、地上戦においても圧倒的な勝利をおさめ、たったの六日間で、エジプト、ヨルダン、シリア、イラクのアラブ連合軍に勝利をしたのです。その詳細は、ダニエ・ゴーディスが「イスラエル/民族復活の歴史」の中で教えています(P25Ⅰ~270)。ウキペディアもその概要を以下のように教えています。

開戦~わずか6日で停戦」                                                   1967年6月5日、イスラエル空軍機は超低空飛行でエジプトシリアヨルダンイラク領空を侵犯し、各国の空軍基地を奇襲攻撃する「フォーカス作戦」を実施した。・・当時イスラエル空軍は約200機の作戦用ジェット機を運用していたが、12機を除いて全てこのフォーカス作戦に投入し、僅かな損害を受けただけで計410機にも上るこれらアラブ諸国の航空機を破壊することに成功した。 このフォーカス作戦によって制空権奪取に成功したイスラエルは地上軍を侵攻させ、短期間のうちにヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区シナイ半島、シリア領ゴラン高原占領した。機甲総監のイスラエル・タルは、シナイ方面の3個機甲師団長の一人として地中海沿岸のルートを進撃し、エジプト軍に対する圧倒的勝利をおさめた。

ダニエル・ゴーディスやウイキペディアが報告する、以上の6日戦争のイスラエル大勝利の要因について「防衛研究所戦史研究センター国際紛争史研究室所員」の小椿整治氏が「第3次中東戦争初日のイスラエル空軍による奇襲攻撃の最新像」というテーマで、1967年6月5日の、エジプト空軍基地とエジプト空軍機への攻撃に成功したイスラエル戦闘機による奇襲攻撃の全体像を、最近のエジプト側の信頼できる資料に基づいて、まるで映像を見るかのように詳細に報告をしています。それを以下に要約してお伝えします。

◆小椿氏によるイスラエルのエジプト空軍への奇襲攻撃の成功の要因

1)情報:エジプト空軍が通信の為のバーコード変更をヨルダンに伝えていなかったことにより、ヨルダンがキャッチした「イスラエル奇襲攻撃」をエジプトに伝えた通信がエジプト軍に届かなかった。アラブ側の通信に関する連携の不十分さというこの偶然によりイスラエルは奇襲攻撃を成功させた。イスラエルは攻撃当日、エジプト軍の残存期の情報を電話盗聴で掌握し、待避航空機に対してしらみつぶしに攻撃を実施し成功させたのです。

2)訓練:イスラル側は、ネゲブ砂漠に模擬のエジプト空軍基地をつくり、奇襲攻撃の為の訓練を1年ほど前より実施していたが、エジプトがそれに対して迎え撃つ、現実に沿った訓練が一切なされていなった。過去の戦争においてのイスラエル奇襲攻撃に関してエジプト空軍はそれを活かす事をしてこなかった。

3)指揮官の資質:イスラエルは国防軍は、指揮命令が緻密な計画の下になされていたが、エジプト軍は権力争いも原因し、指揮命令が統一せず、直前に戦域の部隊指揮官を多く交代させており、その時の指揮官の行きあたりばったりによる攻撃や防衛作戦で、イスラエルと戦える状況ではなかった。その時の。エジプト軍の最高司令官は、ナセル大統領との友誼、婚戚関係者である、アメルがその地位にあった。彼は、第2次中東戦争で大失敗をした人物であったが、権力争いで、第3次中東戦争時のエジプト軍の最高司令官に留まり続けていいた。「エジプト側の上級指揮官、特に軍の最高司令官であるアメル元帥の無能さが際立っていた」

4)空軍基地から他の空軍基地へ飛び立ったアラブ諸国等の指導者達のミス:イスラエルの奇襲攻撃の可能性がある中で、アラブ諸国等の指導者(VIP)たちが、エジプト空軍基地から他の空軍基地へ視察の為に飛び立つというミスを犯したのです。その事を小椿整治氏が次のように教えています。「この日の朝、Ⅱ-14が2機、カイロ近郊のアルマゼ基地にを離陸した。1機はアメル元帥空軍司令官を乗せ、シナイ半島中部のビリタマダ基地へ、もう1機はイラク首相、ソ連の上級顧問団が搭乗しスエズ運河西岸近くのファイド基地へ向かっていた、その為にエジプト高軍官は多くがこれらの航空機に分乗中か出迎えで基地に待機中であった。これらの航空機が飛行中の為に、朝の8時~9時までは、シナイ半島やスエズ運河近辺の防空部隊は発砲が禁じられた。この為に、イスラエル空軍攻撃隊は、無抵抗な多くの目標を攻撃する事になった」と。

5)アラブ諸国の連携の無さ:エジプト空軍はイスラエルの奇襲攻撃で大打撃を受けたにも関わらず、ナセル大統領はヨルダン国側に、「エジプト軍が勝利をしている」という、フェイクを故意に流したのです。その為に、ヨルダンがイスラエルに砲撃を開始し、結果、イスラエル空軍により、ヨルダン空軍は全滅する羽目に陥ったのです。「自国の為には誤情報(フェイクニュース)を流してしまうこの状況は、アラブの連携は口先だけである事を端的に示している。」

 イスラエルが6日戦争でアラブ諸国に大勝利をしたのは、イスラエル軍の周到な準備と訓練と共に、アラブ側の情報連携の問題、現実に沿っていない軍事訓練、権力争いにより指揮系統の乱れと指揮官の無能さ、アラブのVIP達のミス、アラブ諸国の連携が口先だけであったという、エジプト側の5つの問題とミスが重なった事によったのです。その事につい小椿整治氏が以下のように締めくくっています。

「本稿で指摘したようにイスラエル空軍のち密さや高練度が空前の成功を収めた要因である事には異論はない。問題は航空奇襲作戦のパーフェクト勝利は、攻撃側の成功要因が成立するだけではなく、相手側に相当の失策がなければ成立しないのではないかという点である。…イスラエルが本稿で上げたエジプト側の問題点、過失の部分(特に開戦日のVIPの視察、前日の暗号コード変更に関する同盟国の連絡等)までも、情報網で押さえた上での作戦発動ならば、パーフェクトと言えるが、現段階では、まったく証明できず、偶然と考えられている・・」

 

私たち聖書を神のみ言葉と信じているキリスト者は、全ての出来事の背後に、いつも最善をなされいてる創造主の御手がある事を信じています。小椿氏は、イスラエルのム6日戦争の大勝利は「偶然と考えられる」とされているが、聖書的な判断ではイスラエルを愛されている創造主の摂理の御手が働いていたという事になります。国家存亡の危機に瀕したイスラエルが「6日戦争」で大勝利した背後には、イスラエルを「アブラハム契約」等の4つの契約によって愛されている創造主の助けと守りがあったと言えるでしょう。

2)イスラエルが6日戦争で占領した地域
◆エジプトのシナイ半島全土
◆シリアのゴラン高原
◆ヨルダン統治の西岸地区(神殿の丘がある東エルサレム含む)
◆エジプト統治のガザ地区
以上、イスラエル6日戦争では国土の約4倍に相当する地域を占領したのです。

3)イスラエルが6日戦争によって4つの地域を占領した事は不当なのか

 

◆国連は決議242号によりイスラエルの占領を不当とし、イスラエルに返還を求める決議をした(ネットより)

「安全保障理事会は,中東における重大な状況に関して継続的な関心を表明し,戦争によって領土を獲得することは承認しがたいこと,およびこの地域のいかなる国家も安全に存続できるような公正で永続する平和のために取り組む必要性を強調し,国連憲章の原則を達成するためには,中東における公正で永続する平和を確立することが必要であり,それには以下の諸原則が適用されなければならない。・・・」  (a) イスラエル軍が最近の戦闘によって占領した諸領域からの撤退
(b) この地域のあらゆる国家の主権,領土の保全と政治的独立性,安全で武力による威嚇や武力行使を受けることなく

安全に,かつ承認された国境内で平和に暮らす権利の尊重と承認

(c) 難民問題の正当な解決
(d) 非武装地帯の設定を含む諸手段による,この地域のあらゆる国家の領土の不可侵性と政治的独立の保障

以上の国連決議242号のポイントは、イスラエルが戦争で占領したアラブ諸国(エジプト、レバノン、シリア、ヨルダン)の領土から撤退して返還すれば、その見返りとしてアラブ諸国もイスラエルという国家の生存権を承認する、というもので、その原則は「領土と平和の交換」と言われています。

◆国連の決議242号のイスラエルの占領地返還決議は不当である

国連のイスラエル占領地の返還を求める第242決議は、恐らく「第3次中東戦争」がイスラエルの先制攻撃によって始まったという、事実とは異なった見解に基づいてなされた決議だったと思われます。私はその決議は不当であると判断しています。なぜなら、色々な角度から見るとこの戦争はイスラエルが先制攻撃をする前に、アラブ連合軍は既に戦争始めていたからです。イスラエルの人たち800人近い人たちがこの戦争で犠牲となり、占領地の獲得の為の贖いの代価が払われているのです。その事実に立つとイスラエルが防衛戦で占領した地域は、正当防衛による占領で正しいと言えると判断しています。アラン・ダーショウイッツも次のように論じています。「‥この決議は、自衛戦という正当な行為による占領地の返還を1国家に命じた、史上初の決議である・・」と(同P123)。又、アラン・ダーショウイッツは注の欄で次のようにも報告をしています。

「西岸地区の占領問題について、イスラエル国家内でも色々と意見がある中で、イスラエルの前最高裁判事のエドマンド・レヴィが、最高裁の代表を務めた2012年のレポートでは『西岸地区には一度も主権国家は存在せず、ましてヨルダンが同地区の権利を放棄したのだから、イスラエルは同地域の正当な主権者として法的権利を有する』」と・(同273)

◆国連の決議242号に対するイスラエル国家の応答                                      しかし、イスラエルの指導者は、国連決議242号を喜んで受諾しました。その、最も大きな理由は、占領地返還により、イスラエル国家の承認と平和の約束が決議されていた事によります。次の通りです。この地域のあらゆる国家の主権,領土の保全と政治的独立性,安全で武力による威嚇や武力行使を受けることなく、安全に,かつ承認された国境内で平和に暮らす権利の尊重と承認」。この決議は、イスラエルの人々が長年求めてきた「独立と平和」が約束されている事が分かります。もう一つの理由は返還が決議された「占領された領土」に定冠詞”the”がついていなかったことによります。それによって、イスラエルの指導者たちは占領地の返還についての決議文を、4つの占領地の全面的返還でなく、どのように返還するかについてはイスラエル国家の判断にゆだねられていると解釈したのです。その事についてウイキペディアでは以下のように説明をしています。                                      「決議はイスラエルの占領を無効とする一方、撤退期限は定められず経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかった。また、英語文では”Withdrawal of Israel armed forces from territories occupied in the recent conflict;”(最近の戦闘での占領地域からのイスラエルの撤退)、フランス語文では”Retrait des forces armées israeliennes des territoires occupés lors du récent conflit; “(最近の戦闘でのすべての/それらの占領地域からのイスラエルの撤退)と、言語によって解釈が変わる内容になっていた。定冠詞“les”(英語ならば”the”)を付けることで、第三次中東戦争での占領地すべてを特定する意味となるが、英文では意図的にtheを省くことで、イスラエルによる占領の、少なくとも一部は認められる余地がある解釈を可能にした[。これは、野口雅昭によるとイギリス大使(ヒュー・フット・キャラドン卿)が「意図的にあいまいにすることで決議案の採択を可能にした。・・・一方、イスラエルの独立が確認されており、イスラエルにとって有利な内容と言えた。その結果、イスラエルは英文の解釈を根拠に、また、占領地であること自体を否認し、『すべての「係争地」を返還する必要はない』として占領地の支配を続けた」。               アラン・ダーショウイッツも次のように報告しています。「英語原文では。領土からの撤退という表現に定冠詞”tue“がついていない。つまり、決議は全占領地からの撤退を求めていない。安全保障との関連で、領土の調整を求めているのである。‥安全な境界線の保持には、領土上の調整が必要であり、それをイスラエルに認めさせるために、明確な表現の時につける定冠詞が省かれたのである。それはアメリカの働きかけで生まれた妥協である」と。(同P123~124)

◆国連決議第242号に対するアラブ諸国の応答

ウイキペディアは、国連決議242号に対して、領地の一部をイスラエルに占領されたエジプト、ヨルダン、シリア、がどのように応答したのかを教えています。「アラブ側当事国(エジプト、ヨルダン、シリア)もイスラエルの承認を拒んだ。・・」

◆何故アラブ諸国は国連決議案第242号を拒否したのか

国連決議242号が発行された時、当時のイスラエル国防相のモーシェ・ダヤンはヨルダンの国王である「フセイン国王」に「土地と平和の交換を話し合い」求めると公表していたが、国王からの応答は一切なかったのです。また、1967年6月19日、イスラエルはエジプト及びシリアと「平和と交換にシナイとゴランを放棄する」という閣議決定がなされたが、エジプトとシリアはその提案を蹴ったのです。なぜ、アラブの主要諸国は1967年の安保理決議242号の諸原則を、はっきりと断固として拒否したのでしょうか。それは、その決議案が「イスラエルと平和を結ぶ事」を条件にしていたからでした。その証拠は、6日戦争の2ヶ月後の、ハルツーム(スーダンの首都)で開催されたアラブ首脳会議で採択された決議にあります。その会議では「イスラエルと平和を結ばず、イスラエルを承認せず、イスラエルと交渉せず」という「反ユダヤ主義」に立つ「3つのノー」を決議し採択したのです。(「ケア・フォ・イスラエル」P124)

 日本国際問題研究所の立山良司氏は「アラブ・イスラエル関係の変容とパレスチナ問題」と題する論文の初めに次のように論じています。「アラブ諸国が大敗を喫した 1967 年の第 3 次中東戦争から 2 か月半後、ハルツームで開催 されたアラブ連盟首脳会議は、イスラエルとは「和平せず、承認せず、交渉せず」という 決議を採択した。「アラブの三つのノー」として知られるこの決議は、イスラエルに対する アラブ諸国の敵対姿勢を象徴するような存在だった。しかし時がたつにつれて、決議はほ とんど言及されなくなり、約半世紀後の 2020 年にはハルツーム首脳会議の開催国だった スーダンを含むアラブ 4 か国がイスラエルとの関係正常化に踏み切った。」

以上のように、イスラエルは、国連決議案第242号に応じて、占領地の返還を進めようとしたのですが、アラブ諸国の「反ユダヤ主義」の指導者達によって拒まれてしまったのです。その為に、そのアラブ諸国のいくつかの国とイスラエルが「関係正常化」に至るまで長い年月を要したのです。

第3次中東戦争勃発の責任のある直接的原因は、「反ユダヤ主義」の思想を持つエジプトのナセル大統領が、チラン海峡の封鎖によって、イスラエルに対して戦争を始めた事、或いは、また、アラブ諸国の反ユダヤ主義的暴言によるイスラエルに対しての宣戦布告にありました。イスラエル国家の存在を否定し、ユダヤ人撲滅を掲げる「反ユダヤ主義」の「アラブ諸国」により、国連決議242号が拒否された為に、中東(パレスチナ)の平和がさらに遠のき、中東問題がさらに深刻さを増すことになっていくのです。

【終わりに】

これまで、第1次中東戦争から第3次中東戦争までの間接的原因と責任を負わせられる直接的原因について論じ、「パレスチナ問題」の明確の責任のある直接的原因は、アラブの指導者達とその影響下にあるアラブの人たちが抱いている「反ユダヤ主義」にある事をお伝えしてきました。イスラエル側にも、いくつかの重大な失敗があり批判されても致し方のない面もありますが、それは「パレスチナ問題」の責任のある「直接的原因」でない事をお伝えしました。次回は、第4次中東戦争とレバノン戦争の原因について報告をさせて頂きます。疑問、質問があればホームページのメールにお寄せください。