「神の愛から切り離すものは無い」
聖書:ローマ8章31節~39節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
これまで、父なる神さまが愛を持って備えて下さった、キリストにあっての「聖化の道」を学んできました。その締めくくりとしてパウロは、キリスト者に注がれている父なる神の愛から切り離すものは何ひとつないと教えています。パウロは、キリスト者がキリストの姿(人格)に似せられる「聖化の道を歩む道」は、これらの事(霊的事実)に安んじて、父なる神さまに愛されている喜びをもって歩む事だと教えています。「これらの霊的事実」である、真理をパウロがどのように教えているのか順を追って学んでいきたいと思います。
1、「これらの事」とは
①信仰によって義と認められた事
8章31節の「これらのこと」というのは、第1番目に、ローマ書1章から5章11節迄において説かれている、キリストの十字架の贖罪の御業を信じる信仰によって神さまによって「永遠に義と認められた」という、信仰義認の教えの事が先ず含まれています。
②キリストとの共同の6つの恵み
次に、パウロは、キリスト者のキリスとの十字架における共同の死、それに続く共同の葬り、共同の復活、共同の昇天、共同の着座、共同の聖霊の注ぎという、6つの共同の恵みを教えています。キリストとの共同の死と復活によって、キリスト者に残存する古い人は死に、単数形の罪アマルティアと自分の意志の力で守らなければならない律法からの解放という、解放の福音がこれらの事の中に含まれています。又、律法と単数形の罪アマルティアから解放されたキリスト者は、御霊の法則によって「罪と死の法則」から解放され、罪を犯さない者、罪に定められない者と既にされているという、勝利の福音がこれらの事の中に含まれています。つまり、キリストにあってキリスト者は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実で魂が満たされているのです。これから、満たされるのでなく、すでにキリストにあって「満たされている」のです。
③キリストにある者は罪に定められない
第3番目に、8:1-3でキリストにある者は「罪に定められない」つまり「罪を犯さない」という事が教えられています。御霊の法則によって「罪と死の法則」から解放されて「罪を犯さない者」とされたというのは、キリストにあっての消極的な側面です。御霊の法則で「罪と死の法則」から解放されているという積極面は、8:6の「御霊の思いは『いのちと平安』である」という、御霊の実で満たされている事です。
④御霊の法則から解放されている霊的事実を体験する道
第4番目は、御霊の法則から解放されている霊的事実を体験する道は、キリストにあって既に御霊の法則で「罪と死の法則」から解放され、既に御霊の実で満たされているという霊的歴史的事実を認めて安んじる事です。その上で、御霊の導きの御声に聞き従いましょう。これらの事の中に、キリストにあって既に御霊の法則によって罪を犯さない者、また、御霊の実で満たされている者とされているという、恵みの福音が込められています。
⑤呻いている被造物とキリスト者のからだの贖いの希望
これらの事の第5番目は、呻く被造物が希望としているのは、被造物を愛する聖化の道を歩んでいる神の子のキリスト者の出現であり、又、キリストの空中再臨の時に、キリスト者は「呻くからだ」が栄光のからだに変えられるという「からだの贖い」を希望としているという事です。
⑥苦しむキリスト者の為に呻いてとりなしの祈りを捧げる御霊
第6番目は、罪に堕落したからだゆえに、祈れない程の、肉体的苦痛や精神的苦痛に苦しむキリスト者の為に、キリスト者の霊の中に内住されている御霊が呻きながら、「平安があるように、喜びがあるように、祝福があるように」とりなして下さっている、御霊のとりなしが事です。
⑦万事が益に変えれえる事
第7番目は、キリスト者は、キリストを長子とする神の子どもとして、神に愛され、神のご計画に沿って選ばれ、万物をキリストとの共同所有とされている者として、神はマイナスと思われるすべての事祝福という益に変えて下さる事です。
イエス・キリストを信じているキリスト者は、以上の7つの「これらの事」の中に生かされています。「これらの事」の中に生かされているキリスト者に向けられる4つの否定的な疑問を想定して、全て「ノー」だと答えています。
2、4つの否定的な疑問
①キリスト者は敵対する勢力に負けるのではないか
まず、キリスト者といえども、悪魔や悪霊という超自然的な敵には勝てないでしょう。また、キリスト者といえども、キリストのように敵を愛する事はできないでしょう。人を愛する事にも限界があるでしょう。その限界には勝てないでしょう、というキリスト者の限界を想定して考えた疑問です。パウロの答えノー」です。キリスト者は7つの「これらの事」の中にある者として、いつも全知全能の神が御霊の力と助けによって、キリスト者をご自分の味方として応援をされているので、敵対する全ての敵対者に勝たせて下さるというのです。キリスト者の味方となって下さっているお方は、キリスト者の救いの為に、御子さえも惜しまず十字架の死に渡されたのだから、その他の全てのあらゆる祝福、霊的祝福、物質的祝福、経済的祝福などすべての事で恵んで下さらない事は絶対に無いのです、とパウロは断言しています。味方である神さまは、キリスト者に敵対する全てのものにキリスト者が打ち勝つための霊的祝福を初め、あらゆる祝福でキリスト者を満たされるお方です。アーメン!ハレルヤ!
②キリスト者は罪を犯す飛んでもない罪びとではないか
第2番目の疑問、それは、毎週礼拝に通い、聖書研究会や祈祷会に通い、毎日のように聖書を読みながら、なぜ、とんでもない罪を犯すのか、という未信者からの疑問と訴え、また、同じキリスト者からの疑問や訴えがあります。また、悪魔も罪を犯しているキリスト者を赦してはならないと神に訴えます。また、信じるだけで罪が赦されるというのは、虫が良すぎる。それは怠け者の言う事だ。自分の罪の赦しの為には、もっと難行苦行や善行に励んで罪を償うべきだと、まじめな未信者の方たちの訴えがあります。それに対して、神は、キリストの十字架の死こそが、人類の全ての罪を赦す為の唯一の償いの死、贖い死だという事をご存知ですので、罪を犯したキリスト者を誰が、どのように訴えようと、キリストを信じる信仰によって永遠に義とされた者が、その罪を悔い改め告白すれば、すぐにそのキリスト者の罪ゆるし、義とされるのです。「Ⅰヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」とヨハネも教えています(Ⅰヨハネ1:9)。
③キリスト者といえども、故意に犯す罪からは解放されない。
第3番目の疑問は、キリスト者のからだ中にある、単数形の罪アマルティアは、キリスト者に残存する古い人働き、それによって故意に罪を犯させているではないか、という疑問です。それに対して、パウロは、そのキリスト者の為に十字架で死んで、いや、甦って父なる神の右に座しておられるキリストが、そのキリスト者が故意に罪を犯さないように、キリストにあって、すでに御霊の実で満たされているという霊的事実に安んじて、御霊の実を結んで生きる「聖化の道」に生きるように、とりなしの祈りを捧げておられるというのです。キリストのとりなしは父なる神の心を動かす力あるとりなしです。キリストのとりなしによって、キリスト者は段々と故意に罪を犯すことがなくなっていく「聖化の道」に導かれるのです。
④厳しい苦難を体験すればキリスト者は不信仰になってキリストの愛から自分を引き離すのではないか。第4番目の疑問は、悪魔がヨブに苦難を与える事を許された時の疑問でした。ヨブが神さまの愛を信じているのは、あなたが物質的に経済的に健康的に恵まれ祝福されているからですよ。と神に悪魔は訴えたのです。そこで、神はヨブの信仰はご利益的なものでなく、真理立った信仰だという事を証明する為に、悪魔にヨブに厳しい試練を与える事を許可されたのです。ヨブは、その試練に耐え、一時的に不信仰になりかけましたが、しかし、最終的には、試練を神からの最善の御業だという真理を受け入れて、心をから喜び感謝し、神を賛美したのです。
「8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」
悪魔は、厳しい苦難の中にあるキリスト者の思いの中に働いて、こんな苦しい災い、酷い災いを与える神は愛の神ではないぞとささやくようにして語りかけて不信仰にしようと必死です。 パウロ程、キリストの為に迫害や多くの苦難を受けたキリスト者はいないでしょう。彼の試練の目録を見てみましょう。
「Ⅱコリ11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労
苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。 11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、 11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。 11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」
厳しい迫害や厳しい試練の数々は、程度の差はありますが、全てのキリスト者とは言えませんが、多くのキリスト者が体験しています。その厳しい体験の中を歩んでいるキリスト者の事をパウロは詩篇44篇22節のみ言葉を引用して教えています。「8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです」
パウロを初め多くのキリスト者はどんなに厳しい苦難の中を通っても、決して神の愛に対する信仰を失いませんでした。長崎のキリシタン殉教者「26聖人」たちもそうでした。それは、キリストの十字架の死と復活の中に示された神の愛は永遠に不変だという真理を、聖霊によって諭され魂に刻印されていた事によるのです。
【終わりに】
「これらの事」の中におかれたキリスト者は、永遠にキリストと完全に一体化されています。それ故に、父なる神は、私達一人ひとり、ご自身の目の瞳のように愛されています。又、キリストのように尊い神の子として愛し、高価な尊い存在として永遠に喜び愛されています。私達キリスト者がどのような苦境や環境の中におかれても、キリストと一体となっている私達を常にあらゆる事で祝福しようと心を激しく燃やされている父なる神の愛から私たちを切り離すことが出来るものは、この世界に、全宇宙の中に、現在においても未来においても何一つ存在しないのです。キリストが御霊によって私たちの信仰を守って下さるのです。
パウロが次のように証言しています。「8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
キリストと父なる神さまは、私達キリスト者を永遠にいつでもどこでも、どのような時でも、あらゆる事で祝福しようと心を激しく燃やされているのです。
あなたが、神さまから永遠に愛され、祝福される人となる為に、イエス・キリストを救い主だと信じる信仰に導かれますようにお祈りしています。