「パウロのイスラエルへの愛」
聖書:ローマ9章1節~5節
牧師:佐藤勝徳
【はじめに】
明治のキリスト教の指導者の一人であった内村鑑三は、「二つのJ」を愛すると証言していました。一つはJESUS(ジーザス)のJです。もう一つは同胞のJAPANのJです。パウロは、イエス・キリストと同胞のイスラエル民族を愛している事を、ローマ9章1節~5節で証言しています。
1、イスラエルの救いを切に願うパウロ
パウロは、キリストを十字架につけて殺した同胞のイスラエルが、神に裁かれて永遠の火の池に投じられることから救われる為に、自分がどんな犠牲を払っても構わないと告白しています。「ロマ9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」と。パウロは、キリストを否定している同胞が、神の裁きによって、永遠に滅びていく事を思うと、断腸の思いで深く悲しみ、心を痛めながら、神に必死にとりなしを捧げました。
2、パウロの同胞イスラエルへの愛は御霊の力による
そのパウロの同胞へのほとばしる愛は、御霊のお力によってもたらされた「御霊の実」としての愛でした。彼は、キリストを信じて救われる前は、キリスト者を迫害するという、殺人の罪を犯すことを善としていた憎しみに満ちた罪びとでした。その彼に、復活のキリストが直接出会い、パウロのキリスト者への迫害の罪を初め、全ての罪を赦して頂き永遠の滅びから救われました。そのキリストの愛に愛されている喜びの故に、モーセの十戒の10番目の戒め「汝貪るなかれ」を守って、神に喜ばれる「聖なる生活」「愛と謙遜に満ちた正しい生活」を送ろうと決心しました。なぜなら彼は、律法の点では落ち度のない者と自負し(ピリ3:6)、自分の意志の力の強さには自信があったからです。それ故に、彼は「貪るな」という戒めを自分の意志の力で守れると思い決断したのです。「貪る」事さえなければ、どんな罪も犯さず、聖く、正しく、愛に満ちて生きて行くものとなれると確信していたのです。
3、キリストにあって単数形の罪アマルティアと律法に対して死んだキリスト者
パウロはローマ6章1節から7章25節において、キリスト者は水のバプテスマによって、キリスト共に十字架で死に、共に葬られ、共に甦ったという、キリストとの三つの共同の恵みにより、悪魔がこの世界に持ち込んだ単数形の罪アマルティアに対して死に、キリスト者が意志の力で守ろうとすればするほど、単数形の罪アマルティアが働いて増々罪を犯させる「律法」にも死んだ事を教えています。
4、意志の力で律法を守ろうとしたパウロの苦闘
パウロは、当初自分の意志の力で守らなければならない律法に対して死んだ事を知らなかった時には、意志の力で守ろうと必死に努力をしました。しかし、努力をすればするほど「貪りの罪を犯している自分に気づき絶望の声をあげたのです。その苦闘がローマ7章で告白されています。「ロマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と。「死のからだ」というのは、「貪るな」という戒めを守れない「無力なからだ」の事を意味しています。その絶望の声をあげた時に、彼は聖霊に諭され目が開かれ、キリストにあって、罪アマルティアと律法から解放されて御霊の法則により、「貪欲の罪」を犯さない者に既にされている事に気が付き、今度は喜びのハレルヤを叫んだのです。「ロマ 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
5、キリストにあってキリストのように愛と正義と聖さと謙遜に生きる者とされているキリスト者
パウロは、キリストと共に死に、共に葬られ、共に甦ったキリスト者は、御霊の法則により、「罪と死の法則」から解放され、キリストのように愛と正義と聖さと謙遜に生きる者とされているという、霊的歴史的事実を聖霊によって諭され、神さまにその救いの御業を感謝しました。彼は、そのキリストにある目に見えない霊的事実を体験する方法はただ「御霊に従う事」だと悟ったのです。彼は、その事実に感謝して安んじながら御霊に従う生活を始めるようになり、御霊によって「貪り」から解放され、愛の人、謙遜な人、正義の人に変えられ、その愛が、同胞のイスラエルに向けられるようになったのです。パウロの同胞イスラエルへのほとばしるような熱烈な愛は、キリストにあって既にそのようにイスラエルを愛する者とされているという、霊的事実に安んじながら、日々御霊の導きに従う事に徹底していた事により、御霊の力が実際にパウロの魂に働き、パウロの魂の御霊の実である神の愛、キリストの愛に満ち溢れた事によります。キリストにあっての「聖化の道」を究めたパウロは、自分をキリスト者の模範として提供しています。「私に倣う者となって下さい」(Ⅰコリ4:16、11:1)。
聖霊と電気の働きは非常によく似ています。電気は物理的な力により、光と熱と動力をもたらします。聖霊は、人格的な力で、人の魂に神さまの愛と正義と聖さ謙遜に実際に満たし、実際に、キリストのように、神のように、パウロのように生かすのです。私達も、キリストにあっての「聖化の道を究め」、聖霊に従って歩み、聖霊が与える人格的な愛の力でイスラエルと多くの人々を愛して生きる者とされましょう。
このメッセージをお読みのあなたも、パウロのように、キリストを信じる信仰に導かれ、「聖化の道を究め」て、聖霊の力でキリストのように愛と正義と聖さと謙遜に満ちて歩まれますようにお祈りしています。