「ヘブル書のキリスト④」
聖書: ヘブル人への手紙2章:1~18節
牧師:佐藤勝徳

2:1 ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。 2:2 もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、 2:3 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、 2:4 そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。 2:5 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 2:6 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。 2:7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、 2:8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。 2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」 2:13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。 2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 2:16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。 2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

1、警告
 ヘブル書の著者は、2:1~4において、1章で教えられている「天使に優るキリスト」がなされた「罪の清めの御業」と言うすばらしい救いについて、それを「心に留めて押し流されないようにしなければならない」という事と、押し流されてキリストの素晴らし救いをないがしろにすれば厳しい処罰を受けると警告をしています。私たちの住んでいる世界には、いつもキリストへの正しい信仰と、キリストの素晴らしい救いをないがしろにするように悪の誘惑の力が働いています。油断すると、その悪の誘惑の力に押し流されて、キリとへの正しい信仰を失い、又すばらしい救いをないがしろにして、喜びを失ってしまい、神の厳しい処罰を受ける事になります。もちろん、キリスト者への神の厳しい処罰は 正しい信仰に立ち返らせるための厳しい試練として災いが下る事を意味しています。そのような、厳しい処罰を受けないように、私たちは、天使に優るキリストが命がけの愛で実現して下さった罪の清めという救いの御業をいつも喜び讃える事を心にしっかりと刻印しておく必要があります。神が人となられ、改めて神の御子と定められたイエス・キリストの十字架の愛をいつも忘れずにキリストに愛されている喜びが心に泉の如く湧き上がるようにしなければなりません。それが、キリストの救いをないがしろにしない事です。クリスチャンがクリスチャンとして神の栄光の為に喜んで生きずに、堕落していく最大の原因はキリストの十字架の罪の清めの救いをないがしろにして軽んじる時です。キリストが、どのような思いで、あなたの罪を全部背負って十字架で身代りの刑罰を父なる神よりお受けになったのか。キリストがどのような厳しい御苦しみを受けながら、その救いの御業を完成されたのか。私たちは永遠に忘れてはいけないのです。いつも、毎日毎日、新たにキリストの十字架の愛を心に刻印して、キリストに愛されている喜びを心に泉の如く湧き上がらせる必要があります。それが、キリスト者の生きる原動力になるのです。サタンは、そうしたキリスト者を見たくないので、キリスト者に間違ったキリスト論を植え付け、又、十字架の救いの御業をないがしろにして、日々を歩むように、罠を仕掛けて押し流そうとしているのです。悪魔の悪の力が働くこの世界を聖書は「海」に例えています。海には、満ち潮と引き潮とか、様々な潮流があります。その潮流は人間を押し流す力があります。夏の海水浴などで、離巌流によって押し流されて犠牲になる事が度々あります。この世界には、キリストを正しく信じる信仰から引き離して押し流す悪の力が働いています。又、キリストの十字架の愛から押し流して切り離してないがしろにさせる力が働いています。それ故に、箴言では「油断する事なくあなたの心を守れ」と戒めています(4:23)。では、私たちがそのような、悪の力に流されない為にどうすれば良いのでしょうか。ヘブル書の著者は「心に留めて」と教えています。船が、潮に流されないように「錨」をおろしています。私たちは、自分を海に浮かぶ小船と考えて下さい。小船が潮に流されない為には、錨をしっかりとおろしておく必要があります。錨をしっかりとおろすという霊的意味はどういう事でしょうか。それは、キリストが罪の清めと言う救いの為に、十字架で示されたその犠牲の愛、又、御子を救い主として賜った父なる神の愛を、心にしっかりとイメージして刻印して、心に神から愛されている喜びが泉の如く湧き起こるようにする事です。その為に、祈り静まる時を日々しっかりと持ち確保する事です。もし、そのような静まりの時を日々充分に持たず、日々仕事に追われ、また、その他の事で時間がとられてしまうと、キリストの救い、キリストの十字架の愛、父なる神の愛をないがしろにするという悪に流されてしまうのです。私たちは、この世界に働く悪魔の悪の力を見くびってはいけないのです。ヘブル書の著者はその事を私たちに教え警告しています。日曜日の礼拝を、2週間休むと、そのキリスト者の霊性は落ちると昔から警告されています。キリスト者の霊性が落ちる原因は他にもあります。日々静まる時を充分持つ事をないがしろにする事です。礼拝をないがしろにし、日々静まる時をないがしろする時、悪魔の悪の力に流されて、キリストの救いの御業、キリストの十字架の愛、父なる神の愛をないがしろにする罠に陥ります。その結果、神の厳しい処罰を受ける事になるのです。

2、キリストの愛されている喜びが心に泉の如く湧上上がる為に                                  キリストに愛されている喜びが心に泉の如く湧き上がる霊性の保持為に、どうすれば良いのでしょうか。それは、キリストが天使よりも少し低くなられたという真理を正しく受け止める事です。1章では、キリストは天使に優る全知全能の創造主の神さまだという事が強調されて教えられていましたが、2章では一転して、キリストは天使より少し低い存在として遣わされた救い主だと教えられています。 ヘブル書の著者が語っている「私たちがいま話している後の世」と言うのは、ユダヤ人と神が結ばれた4つの無条件契約に基づいて実現させられる「メシヤ的王国」の事を意味しています。このヘブル書が書かれた時は「黙示録」はまだ書かれていなかったので、黙示録の新天新地の事はヘブル書の著者の思いの中には描かれていませんでした。1章で、詩篇第2篇のメシヤ預言を引用して、神の独り子が人となったキリストが十字架で死に三日目にご復活をされて改めて神の御子としてお産みになった事、つまり、改めて神の御子と定められた事を預言していました。その詩篇第2篇では、その神の御子が、シオンの都からメシヤ的王国を支配する王となる事が預言されています。「詩 2:6 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」 2:7 「わたしは【主】の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。 2:8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」 2:10 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。 2:11 恐れつつ【主】に仕えよ。おののきつつ喜べ。 2:12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」

この詩篇第2篇にあるようにメシヤ的王国を「み使い」に支配させることを神はされませんでした。その事が詩篇8篇のメシヤ預言を引用してヘブル書の著者は教えています。「むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。 2:7 あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、 2:8 万物をその足の下に従わせられました。」、これは詩篇第8篇のメシヤ預言が引用されています。ヘブル語原語の聖書では「神より低い」ですがギリシャ語の70人訳聖書では「み使いより低い」と訳されています。ヘブル書の著者は70人訳から引用をしています。

 日本語訳の【新改訳3】では旧約聖書をヘブル語原語に従って翻訳している                                                                 「詩8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」

3、キリストの受難による罪びとの救いは父なる神に相応しい事である
ヘブル書の著者は「み使いより低くなった人の子」を単なる人間とか人類の意味でなく、神の独り子が人となったイエス・キリストを意味している教えています。イエス・キリストはしばらくの間御使いよりも低くなりました。しかし、メシヤ的王国の王として万物を支配する権威は、御使いにではなく、しばらくの間、御使いより少し低くなったイエス・キリスとにその権威を与えておられるという事を、詩篇8篇のメシヤ預言の引用によって教えています。                  ではキリストが、御使いより低くなったというのはどういう事でしょうか。それは、キリストが人類の罪の清めの為に、人類が肉体をもって多くの罪を犯しているので、その肉体で犯している罪を取り除くには、同じ肉体持つ必要がありました。それを、使徒ヨハネは「言」が「肉となった」と呼んでいます。                                          ◆「ヨハ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。                                  「人となって」の人はギリシャ語ではσαρξ(サルクス)で、その一番の意味は「肉」とか「肉体」を意味しています。新共同訳ではその一番の意味で訳しています。
◆「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。                                       「言」である神の独り子が肉となった事を神学的には「受肉」と呼んでいます。キリストは、罪を別にして、私たちと同じ肉体を持たれたので、疲れたり、お腹がすいたり、眠くなったり、のどが渇いたり、心に傷を負ったり、病を負ったり、肉体が傷で激しく痛んだり苦しんだりされました。40日間の断食でつらい空腹を体験されました。ガリラヤからエルサレムの旅を徒歩でなされ、旅の疲れを体験されました。貧しい大工のせがれとなって、大工仕事(当時の大工仕事は現在の土木建築のような重労働であった)による重労働のしんどさ、ローマの圧政による経済的困窮の大変さ、又、蔑まれたナザレの村でお育ちになったので、差別される悲しみやつらさをも体験されました。お生まれになって間もなく、ヘロデ大王に命を狙われてエジプトに逃避行するという幼くして逃避行の大変さを味わっておられました。十字架にかかる前、愛する弟子達から裏切られる悲しみと孤独を体験されました。十字架にかけられる前に、一晩中、徹夜で厳しい取り調べを受ける苦しみ体験されました。また、骨が植え込まれたむちで背中がザクロのように割れてしまうほど撃たれ続けられました。また、拳骨や平手で顔面を殴打され顔は見る影もなくなりました。五寸釘のようないばらの棘があるいばらの冠を頭に被せられ荊が差しこむ厳しい痛みを体験されました。また、唾をかけられ罵られ、虫けらのように扱われながら、両手両足が十字架に打ち付けられました。十字架上では、激しい痛みが全身を襲い、のどはからからに渇き、父なる神から見捨てられ、孤独の極みの苦しみ体験され「エリ、エリ、レマサバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、絶叫されました(マタイ27:46)。その心身の苦しみの激しさによって、キリストの心臓は破裂してしまいました。骨の関節が外れました。肉体を持たれたキリスト、受肉されたキリストは、この世界で人間が体験するであろう、心身の様々な苦しみや悲しみやつらさを全て体験されたのです。それが、キリストが御使いより低くされた事を意味しています。肉体を持った人間はみ使いより低いとユダヤ人は考えていたようです。善なるみ使いは、肉体が無いので、お腹がすいたり、眠くなったり、しんどくなったり、神から捨てられれたり、同じ善天使から裏切らたり傷つけられたりする事はありません。永遠に霊だけで存在するものです。必要に応じて、人の姿のような形になって現れる事はあっても、肉体を実際に持った事はありません。み使いは、神のように全知ではありませんので、人の痛みや苦しみを理解する事ができません。霊なる存在で罪びとと同じ肉体を持ったのはナザレのイエス・キリストのみでした。それは、様々な苦しみと死と言う苦しみをもって、人類の罪を清めるでした。それが、神に相応しい事であったとヘブル書の著者は教えています。                                                          ◆「2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」
ナザレのイエス・キリストが体験された、私たち罪びとの為の十字架の死の苦しみや、様々な苦しみは、私たち罪びとに取って神の恵みであったとヘブル書の著者は教えています。罪びとの私たちは、二つの意味で神に愛され赦される資格は全くありません。第1は、アダムにあってエデンの園で罪を犯したことです。第2は、アダムにあって罪の性質を持つ古い人の故に、思いにおいて、行いにおいて、言葉において死罪に価する多くの罪を犯しているからです。それ故に、キリストが十字架の苦しみをもって罪を赦し、永遠の御救いへとお導き下さる事は、ただただ神の恵みとして言いようがありません。では何故、キリストは十字架の死の苦しみや様々な苦しみによって救いの御業をなさった事が、万物の目的であり原因である父なる神さまに相応しい事であったのでしょうか。 父なる神が万物と言う物質の目的と言うのはどういう事でしょうか。1章では万物の相続者はキリストだと教えられていましたが、そのキリスとを含めて万物を所有されているのは父なる神さまです。「Ⅰコリント 3:21 ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。 3:22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。 3:23 そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」
父なる神が万物の目的と言うのは、万物は全て父なる神を御喜ばせする為に存在しているという事です。その事をパウロは「飲むにも、食べるにも何ごとをするにも神の栄光の為にするべきである」と教えました。父なる神が万物の原因であるという事は、父なる神が万物を設計されたお方だという事です。キリストは父なる神の設計に基づいて万物を創造し保持されているのです。キリストに十字架の心身の死の苦しみや心身の様々は苦しみを体験させて、罪の清めの御業と言う救いの御業をなされた事が、どうして父なる神に相応しい事であったのでしょうか。二つの理由があります。

1)神の愛と義が全うされる為に                                                    第1の理由は、父なる神は、罪びとが1人も滅びないで罪赦されて、救われて、永遠の祝福の中に生きる事を望まれている「怒る事遅く、憐れみ深いお方」です(Ⅱテモテ2:4)。しかし、同時に、罪を必ず罰する罪に厳格な正義のお方です。人の罪は全て永遠の死罪に価しますので、その罪が赦されるには、その罪の価に相応しい犠牲を父なる神は求められる正義のお方です。そこで、父なる神は、ご自分の罪びとを赦したいという「憐れみ深さ」を恵みによって実現する為に、死罪に価する罪の赦しには、それ相応しい身代わりの死として、ご自身の独り子である神を、人として遣わし、人の死罪に価する罪の赦しの為に十字架でその罪を負わせ身代わりに罰する事をお考えになたのです。それは、罪びとを憐れむ神の愛と、罪は罰せなければならないという神の義が同時に全うされる為に絶対に相応しい方法だったのです。それ以外にありませんでした。そういう意味で、キリストの十字架の苦難による罪びとの罪を清める方法は父なる神に相応しい事であったのです。                                                             2)父なる神の憐れみ深さが全うされる為に                                               もう一つの理由は、父なる神は、罪びとが心身において苦しんだり痛んだり、悲しんだりすると、その事をまるで自分の苦しみ、自分の悲しみ、自分痛みとして一緒に苦しみ、悲しみ、痛まれているお方です。父なる神は全知のお方ですのでそれが可能です。神はご自身の事をモーセに次のように教えられました。
◆「出  34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、・・」                                                                      「憐れみ深い」とは、他人の苦しみや悲しみを深く同情し、その苦しみや悲しみから何としても助けたいといういたわりの気持ちを深く持つ事を意味します。父なる神は全知の神ですので、人間の苦しみに対して深く理解して「憐れみ深い御心」を持たれる事が可能なお方です。しかし、受肉して人となった神の御子キリストは、人として、自分も罪びとと同じような苦しみや悲しみや痛みを実際に体験しなければ、罪びとの苦しみや悲しみや苦しみを自分の苦しみや悲しみや痛みとして理解ができません。その苦しみを共有しながら、真の同情をもって深い同情をもっていたわり助ける事ができる為には、自分も同じ体験をする必要があったのです。それが、キリストが御使いよりも低い私たちと同じ人間となられた事を意味していました。キリストは信じる者の罪を赦し、永遠の滅びから救うだけでなく、いつも共にいて、共に苦しみや悲しみや痛みを共有しながら真の同情をもって助てけ下さる憐れみ深い救い主となるためには、罪を別にして、人間が心身において体験するであろう全ての苦しみや悲しみや痛みを同じように体験される必要があったのです。それ故に、救い主を様々な苦しみや死の苦しみを体験させられながら、救いの御業を全うされたのは、万物の目的であり、原因である憐れみ深い父なる神に取って相応しい事であったのです。

【終わりに】                                                                 御使いより低くなられたキリストは、それ故に、キリストは憐れみ深い大祭司として、天において日々、一人一人の名を上げて父なる神さまにとりなしを捧げておられます。又、苦しみや悲しみの中にある一人一人を深い同情といたわりをもって助けて下さるのです。                                                        ◆「2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
もし、あなたが何らかの苦しみや悲しみ痛みを今負っておられるならば、万物の目的であり原因である憐れみ深い天の父なる神と、憐れみ深い大祭司キリストが、あなたの苦しみや悲しみや痛みを共有されながら、深く優しく同情しながら、いたわりながら、あなたをその苦しみや悲しみや痛みから助けようと激しく心を燃やされている事を深く受け止めて下さい。その父なる神とキリストを深くイメージし、父なる神とキリストの憐れみ深さに目が開かれて、あなたの魂にそれが刻印されるよう聖霊の助けを祈って頂きたいと思います、その為に、一人隠れた部屋で神の御前に静まりの時をしっかりと持ちましょう。