「信仰によって生きる幸い」
聖書:ヘブル11:20~21
牧師:佐藤勝徳
「ヘブル11:20 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。 11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。」
【はじめに】
罪に堕落した人間が、目に見えない創造主を信じ、また、十字架にお掛かりになったイエス・キリストを救い主として信じる信仰をもつには、創造主の恵みと助けが必要です。また、創造主を礼拝し、キリストを賛美している教会の礼拝に行って参加する事も、神さまの恵みと助けが必要です。人間はロボットではありませんので、神さまは人間をロボットのようには扱われません。人間は自由意思を持ち、どちらを選ぶか選択するという自由がありますので、その事を十分に尊重しながら、神さまは人の心と思いの中に働き、神のみ心を実現されて行きます。人が自分の自由意思をもって、教会の礼拝に参加しよう選択するには、その為に必要な恵みの数々が注がれる必要があります。人間は罪に堕落していますので、その自由意思で正しい選択をする力が弱まっているのです。その弱い部分に神さまが私達の祈りに答えて働いて下さって、多くの人々が教会の礼拝に参加しようと選択する力が与えられます。それ故に、正しい選択ができるように神さまに、多くの人々の心と思いの中に、働いていただく必要があります。神さま、キリスト者の祈りを通して、多くの人々の心と思いの中に、神のみ心に叶った思い,意思を与えて、健全に選択する力を与えて、正しい道を選択できるようになされるのです。しかし、だからと言って、全ての人が自動的に正しい選択をするのではありおません。最終的には自分の意思で、どちらを選択するかを決めなければなりません。神さまの恵みは、罪に堕落した人の知性、感情、意思が健全に働くようにしますが、最終的な意思決定はその人がしなければなりません。私たちは、自分の家族や、友人知人が、又、関係者の方々が、健全な知識と自由意思が健全になって、教会の礼拝に参加しようと選択ができるように、神さまの恵みと助けである聖霊の働きを祈り求めるのです。
そのようにして、礼拝に導かれた方々が、天地万物を創造された創造主に目が開かれ、キリストの福音を聞き、キリストを信じる事を選ぶ事が出来るように更に、罪に堕落した知性、心の目に聖霊が働いて下さるように祈るのです。又、既に救われたキリスト者が礼拝を通してより神の愛を信じ、神のみ心を知って、喜んで神に自分を捧げつつ、神に聞き従うという、幸いな生き方を身に着ける事が出来るように祈り合うあのです。既に、救われたキリスト者も、信仰が成長し、信仰が寄り深まって行くと、寄り幸せなクリスチャン生活を送れるようになります。それ故に、キリスト者同志互いに祈り合い、赦し合い、助け合い、支え合いながら、創造主の神さまに礼拝を捧げる必要があります。
1、アブラハムの信仰
神さまは、約4000年昔、ハランの地にいたイスラエルの先祖であるアブラハムに「行く先を知らずして出て行くように命じられましたが、その命令に自由意思で聞き従うという健全な選択ができるように、それまで多くの恵みを注いで来られました。又、モリヤの山で、愛する息子イサクを「全焼の生贄として捧げなさい」と言う厳しい命令に、苦しみ悶えつつも最終的には、自分の自由意思でイサクを全焼の生贄として捧げるという健全な選をしました。その為にはそれまで多くの恵みを神はアブラハムに注いで来られました。
2、ヤコブの信仰
ヤコブは、死の床で、年老いて目がかすんで良く見えなくなっていた時に、ヨセフの二人の息子を祝福しました。長男はマナセと言う名前で、次男は、エフライムと言う名前でした。父親のヨセフは、長男が多くの祝福(2倍の分け前/申命21:17))を受けるという事を知っていましたので、長男のマナセを、ヤコブの右の手の前に立たせました。次男のエフライムをヤコブの左手の前に立たせました。ヤコブが、孫の二人を祝福しようとしたときに、突然、ヤコブは手を交差させて、多くの祝福を授ける右手がエフライムの頭におかれ、左手がマナセの頭の上におかれました。それを傍で見ていた彼らのお父さんヨセフは、ヤコブが目かすんで良く見えないので間違ったと思って注意をしました。「お父さん手が反対だよ」と。しかし、ヤコブはその事を重々知っていたうえで手を交差して二人を祝福したのです。ヘブル書の著者は、そのヤコブのその行為は、ヤコブの勝手な思いでなしたのでなく、創造主の最善の御心と知った上でなした、信仰による健全な選択により、ヤコブの自由意思に基づく従順の行為だと、ヤコブの信仰を讃えています。「ヘブル 11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し・・」と。その時の出来事について、初代教会のユダヤ人クリスチャンは良く知っていましたので、ヘブル書の著者は改めてその出来事を詳細に伝えていません。しかし、異邦人の私達の多くはその出来事を詳しく知りませんので、改めてその出来事を読みましょう。創世記48章に啓示されています。
「創48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」 48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう」と言った。 48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。 48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」 48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。 48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。 48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。 48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。 48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」 48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」 48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」 48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。」
ヤコブの右の手で祝福されたエフライムへの祝福は、彼の子孫がマナセ部族の子孫に比較して多くなることです。それは「国々を満たすほど多くなる」という、子孫増大の祝福です。その祝福の実現は、メシヤ的王国で実現するのです。
3、ヤコブが抱いていた神概念
この時ヤコブが創造主の神どのように信じていたのか、その概念をヤコブは教えています。
①アブラハムとイサクが、御前に歩んだ神
ヤコブは先ず、「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神」として、神を崇めています。彼は、創造主の神が、お爺さんのアブラハムとお父さんのイサクを愛して下さった愛の創造主だと知っていました。アブラハムもイサクも創造主の神は愛の神であり嘘のない正しい正義と真実の方だと信じて、心から神を神としていつも喜び讃えながらその、神を常に目に前に意識して歩んだのです。その事を、ヤコブは二人が「神の御前に歩んだ」と教えています。アブラハムとイサクはどんな時でも、自分の今の生き方、自分の今の在り方、自分の言葉、自分の思いが自分の御前に臨在されている愛と正義の神さまの御心に叶い、神をお喜ばせできているかを常に意識しながら歩んだのです。ヤコブも、お爺さんのアブラハムやお父さんのイサクのように、いつも自分の目の前に臨在されているその神の愛と正義を崇め喜びつつ、自分の生活、生き方、思い、言動がそのお方に喜ばれているかどうかを意識しながら歩みました。ヤコブは神を自分の目の前に生きて臨在されている「生きたお方」として信じていたのです。そのようにヤコブは神を「生ける神」として認識し崇めていたので、神はいつも喜んでヤコブを愛し導き、物心両面の祝福をもって養われました。
②羊飼いとして神
ヤコブは、次に神は自分の羊飼いだと、神を羊飼いに例えて崇めるようになりました。彼は次のように告白しています。「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」。ダビデが詩篇23篇で神を、愛と正義に満ちた「羊飼い」として告白し賛美していますが、既に、ヤコブの心には、ダビデが抱いてた、羊飼いが羊を愛するように、創造主の神は自分を愛して下さっているという信仰が深く宿っていたのです。ダビデは、羊飼いとして羊を愛して世話をしていた体験から、神を「羊飼い」に例えましたが、ヤコブも同じでした。彼はラバン叔父さんのもとで、20年間羊飼いの仕事をしました。その時に羊飼いである自分が羊を如何に大事に思いながら。優しい心で養っていたのか知っていました。(創29:20、27、29、31:41)。その体験から、愛に満ちた慈しみ深い優しい創造主の神を「羊飼い」に例える事が出来たのです。
③災いから守る「アブラハム契約」の神
ダビデは詩篇23篇で、「死の陰の谷を歩むとも恐れない」と告白していますが、ヤコブも、死の陰の谷である災いから神が羊飼いのように自分を守って下さった事を回顧しています。
◆「創世48:16すべてのわざわいから私を贖われた御使い」。
ここでのみ使いは、御使いの姿を取って顕れた神の事です。兄エソウが受けるべき祝福を、ヤコブが嘘によって父イサクから受けた事で、家族騒動が起き、自分を憎み殺意を抱いた兄エソウから逃れなければなりませんでした。その時に、神が夢で出会って下さって、ヤコブが「アブラハム契約」の継承者だと言う事を知らせて、彼を安心させ祝福されました(創28:1~17)。また、逃避先のラバン叔父さんに20年間仕え、苦しめられましたが、最後は祝福されたました(創30:43)。神の命令で兄エソウのいる故郷へ帰郷する時、自分を憎んでいるであろう、エソウをから守られるために、ヤボクの渡しで「祝福を求めて」格闘したみ使いから「イスラエル」と名が与えられた事(創32:28)。自分の子どもたちが、シケムで虐殺事件を起こし、その為にシケムの人々から憎まれて一家皆殺しの危機に会いましたが神さまの介入でその危機から守られた事(創34章)。世界を襲った大飢饉からヨセフのおかげで守られた事(創37章~50章)など、ヤコブには多くの試練、災いが臨みましたが、神は、その試練、災いからヤコブを守られました。それは、それは全てアブラハムの契約の故でした。神が、アブラハムと結ばれた「子孫を増やす」、「約束の地を与える」、「世界を祝福する」と言う「アブラハム契約」の継承者であった事によって、ヤコブは絶滅の危機を乗り越えてきました。ヤコブは、お爺さんのアブラハム、お父さんのイサクに続いて自分に「アブラハム契約」が継承されている事を知っており、固く信じていました。
4、信仰者の思いの中に働く神
彼は、老年になり、目がかすむようになり、体力も衰えましたが、神の愛と正義と約束を守る真実を100%信じる信仰からくる喜びと平安が満ち溢れていたのです。その生ける神との生きた交わりが途絶える事は有りませんでした。その彼の思いの中に、ヨセフの子たちを祝福する時に、突然手を交差にして祝福すべきだという強い思いが来たのです。ヤコブは、その思いが神から来た思いだとすぐに判断する事が出来ました。霊性が高くなると、神の導きや御心を早く正しく判断する霊的能力が養われているのです。高い霊性を養われていた事により、ヤコブは躊躇する事無く、手を交差してヨセフの子どもたちを祝福したのです。愛と正義と真実の神を神としていつも喜び崇める心のある人は、そのお方といつも深い交わりの中に導かれ、その思いが神さまに支配されて、神のみ心に叶った思いをいつも抱くようになるのです。又、神のみ心を速やかに判断する霊性が養われているのです。ヤコブはその真理を知っていましたので、いつも神さまとの生きた交わりの中に導かれている自分の思いの中に神は御心を示しておられる事を信じる事が出来たのです。その真理を、ヘブル書の著者も知っていたので、彼は「11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し・・」と、証言したのです。
5、神を神として崇める人への祝福
神を神としていつも喜び崇めながら、絶えず祈り、全ての事を感謝する人の心は、神と一つに結ばれていますので。神のみ思い、御心がその人の心を支配しています。その人は、神のみ心に叶った願い、祈り、求めを、何の遠慮もなくどんどん祈る事が許されているのです。パウロは、その真理をピリピ書で次のように教えています。
「ピリ 4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
神を神として喜び崇める信仰によって、又、愛の神は万事を最高最善の喜ばしき御業として与えておられる事を認める信仰によって、どんなことがあっても思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いには、神は必ず答え働いて、先ず、その人の心に神は人知を超えた御自身の平安で満たし、キリストイエスにあって守って下さるのです。何事も思い煩うことなく、自分が神を神としていつも喜び崇め、万事を感謝している事を知っているならば、、神のみ心に叶っていると判断している願い祈り求めに神は必ず答えて下さると信じて大胆に祈れば良いのです。神を神としていつも喜び崇めている人の祈りは、必ず聞き届けられるのです。詩篇37篇4節でもその真理が教えられています。「詩 37:4 【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
6、家族、知人友人のリバイバルの為に
神に私たちの祈りが間違いなく聞き届けられるのは、何事も思い煩うことなく、神を神としていつも喜びながら崇め、万事を最善として感謝するという信仰が必要となります。その信仰によって捧げる祈りは必ず聞かれるのです。自分の家族のリバイバルの為、自分の知人友人のリバイバルの為、職場の同僚のリバイバルの為の祈りが、聞き届けられるには、神を神としていつも喜び崇める信仰、万事を最善と信じて感謝する信仰により、思い煩いをすてて、何事も感謝して祈る事です。その祈りに神は喜んで応じて下さるのです。
①横田早紀恵さんの信仰と祈り
横田早紀恵さんは、娘さんの恵さんが北朝鮮に拉致されて、私たちには想像できない苦しみと悲しみの日々を歩んでおられました。しかし、ある時から、恵さんが必ず拉致から解放されるという事を信じて、決してあきらめないで祈りつつ、政府に訴えるようになりました。それは、ある時、クリスチャンの友人が教会の聖書研究会に誘ってくれたことがそのきっかけでしたその時から。始めて聖書を読むようになりましたが、旧約聖書のヨブ記を読んだ時、ヨブが一日にして10人の子どもが亡くなり、全財産が奪われなくなり、その上に、自分がひどい皮膚病になり、夜も眠れない、食事はのどを通らない、愛する子どもたちが全部死んでしまった事の断腸の思い、肉体的、精神的にずたずたになったそのヨブが「私は裸で母の胎から出て来た。又裸でかしこに帰ろう。主(神)は与え、主は取られる。。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章21節)と、神さまに感謝を捧げている祈りの言葉を読んだ時に、ヨブの信仰に大変感動されました。その後、更に聖書を学んでいる中で、人間の人知を超えた善をなさっている偉大なる神の存在と、キリストが自分の罪を背負って十字架で身代りの刑罰を受けられたというを事を知って、深い感動を覚えられ、クリスチャンになりました。その時に、恵さんが拉致された事の悲しみを持ちながらも、これまでの閉ざされていた心、希望の無かった心に光が差し込んできて、恵さんの拉致と言う出来事には、神の善なる計画がある事を知ったというのです。その後、クリスチャンになった横田早紀恵さんは、神さまに恵さんの拉致からの解放を祈るようになりました。(トラクト/「私たちはいつも覚えておられる」から)。私は、その証を読んで、神さまを神さまとしていつも喜び、苦難を含めて万事を最善と受け止めて、思い煩いを捨てて、神さまに祈っている横田早紀恵さんの祈りは、神さまに間違いなく届いていると確信しました。神さまは、真の信仰をもって祈っている者の祈りを決して軽んじられません。
②ヤコブの信仰と祈り
ヤコブも、その事を知っていたので、神の導きのままに、手を交差してヨセフの子ども達の為に祈りました。その祈りは必ず聞かれるとヤコブは信仰をもって祈ったのです。その時、ヤコブの心は聖霊によって神の平安と喜びに満ち溢れました。それ故に、ヨセフの二人の子を祝し終えた時に、神さまに心からの礼拝を捧げる事が出来ました、ヘブル書は次のようにお教えています
◆「また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました」。その、死の床で、弱った体を奮い起こして、杖に寄りかかって跪いてのヤコブの礼拝に、神は感動し喜ばれました。それ故に、神は彼を更に聖霊に満たし、自分の12人の息子たち達、つまりイスラエル12部族が終りの時代にどのようになるのか預言をさせました。その預言の中に、ユダ族からメシヤが出現する事が含まれていたのです(創49:8~11)。創世記3章15節でメシヤは「女から生まれる」と言う預言が進展し、その女はイスラエルの12部族「ユダ族」出身だという事が明確にされたのです。神は、ヤコブを通して、「神の似姿を回復した人物で世界を満たす」というご自身のビジョンが、ユダ族から出たメシヤによって成就し実現させていく事を明確にされました。私達は、イエス・キリストを信じたものとして、「神の似姿を回復する聖化」の道が与えられているのです。私達も神のビジョン実現の為に選ばれているのです。ハレルヤ!感謝です。
③死の恐れから解放されたヤコブ
その後、ヤコブは、子どもたちに自分の亡骸をお爺さんアブラハムとその妻サラ、お父さんのイサクとその妻リベカ、そして自分の妻レアが葬られているマクペラの洞穴に葬る事を命じて、静かに息を引き取って行きました。その時のヤコブには、死の恐れは有りませんでした。ヘブル書が教えるように。神が備えて下さっている天の故郷へ導かれる喜びで心はいっぱいになっていたのです。ヤコブは、神を神として崇めて来た自分の心が、死を前にして、平安と喜びでいっぱいにして下さった神さまに心から感謝し、弱った体をもたげて杖に持たれながら、跪いて精一杯の喜びと感謝を神さまに捧げたのです。それがヤコブの最後の大いに祝福された最後の姿でした。喜びの礼拝を持って地上の生涯を終える事は、最も幸せな最後だと言えるでしょう。森有正が「人は死ぬために生きている」と、教えましたが、それは、「良い死に方は、良い生き方の結果」だという意味の様です。神を神を日々崇めるという、最高に良い生き方は、ヤコブのように、神を崇める喜びの心と、御国への希望に満たされて最後を迎える事が出来るのです。ヤコブの生涯はその事を私たちに教えています。
【終わりに】
初代教会時代の迫害下にあるユダヤ人キリスト者を、迫害による死の恐れから解放する為に、ヘブル書の著者は、アブラハム、イサク、ヤコブ達が神を神として崇める信仰によって、死の恐れを克服して、神が約束して下さった喜び溢れる「天の故郷」へあこがれながら、天に凱旋したことを教えました。旧約の聖徒は新約の信仰者の良き模範者なのです
死の恐れから、また、その他色々な恐れから解放される道は、創造主の愛の神、正義の神、善なる神は、いつも喜び讃えられるべきお方だという真理をしっかりと心に刻印して、いつも神を神として喜ぶ事を日々実践をする事です。それは、神の前に正しい生き方だと聖書は一貫して教えています。私達人間には自由意思があります。聖書が教える正しい生き方を選ぶかどうかは、あなたの自由意思による選択にかかっているのです。「神を神として崇める信仰」を日々選択して生きる人は真の幸いを日々味わいながら生きることが許されるのです。
