「創造主の愛」
聖書:ヨハネの福音書4章:7節~13節
牧師:佐藤勝徳
「Ⅰヨハ4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
1、真の隣人愛
今朝は、私達は創造主の神の愛と、私たちが「互いに愛し合う」秘訣をご一緒に学びたいと思います。先ほど読んで頂きました、第1ヨハネ4:7~13節に「愛」と言う言葉が15回使用されています。そして「互いに愛しあいなさい」と言う教えが「3回」繰り返し教えられています。この短い箇所でこれほど多く「愛」「愛」「愛」と叫んでいるのは、聖書は私達人間に愛の実践を教えている書だという事が分かります。もし、愛の実践を怠っている人がいれば、その人は聖書の教えに反しているわけです。聖書を学びながら、愛の実践が日々なされていなければ「論語読みの論語知らず」ではありませんが「聖書読みの聖書知らず」と言う事になります。では、互いに愛するという事は、具体的にはどのようにすれば良いのでしょうか。聖書は「自分を愛するように自分の隣人を愛しなさい」と、教えています。隣人と言うのは、自分と直接関係するすべての人の事です。キリストはその隣人愛の実践を「マタ7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と、教えられました。
2、聖書の教える隣人愛の二つの側面(消極的側面と積極的側面)
モーセの十戒の中に、消極面と積極面の愛が教えられています。次の通りです。「20:13 殺してはならない。 20:14 姦淫してはならない。 20:15 盗んではならない。 20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。 20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」。以上のように、してはならない、してはならないというのが愛の消極面です。モーセの十戒の愛の積極面のは「あなたの父と母を敬え」です。自分の親が、どのような親であっても「積極的に尊敬しなさい」と言うのが、十戒が教えている積極的愛です。しかし、「敬いなさい」と言う、積極的愛は、親に対してだけでなく、全ての隣人に向けなければならない愛の実践となっています。使徒ペテロとパウロが次のように教えています。
◆「Ⅰペテ 2:17 すべての人を敬いなさい」。使徒パウロも次のように教えています。
◆「ピリ2:3・・・へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」
以上の他、新約聖書には具体的な愛の実践が沢山教えられていますが、そのいくつかを紹介しておきます。
◆「ヤコブ 2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう」。
このヤコブ書の教える積極的な愛は、隣人の具体的な物質的必要性を満たすという事です。その他に精神的には、積極的に隣人を励ます為の言葉があります。パウロは、人を精神的に高める事を積極的な愛の実践だと教えています。
◆「エペ 4:29 悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい」。
隣人の徳を高めるというのは、その人の精神が高められ生きる喜びを持つ事を意味しています。生きる喜びを与える言葉が、隣人の精神性高める徳向上のための積極的な愛の実践です。その為は、全ての隣人を自分より優る尊い存在として尊敬し自分を低くしておく必要があります。傲慢な人は、人の徳を高める言葉を語る事は出来ません、人を見下す言葉が出て、人を傷つけてしまいます。ですから、聖書は全ての人を尊敬せよと教えています。
◆「Ⅰペテ2:17 すべての人を敬いなさい。」
◆「ピリ2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
以上の他に、更に、積極的に親切にしたり、優しくししたり、隣人の過ちを赦す事をパウロもペテロも教えています。
◆「Ⅰペテ 3:8 最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。」
◆「エペ 4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」
聖書の教える愛の全体を要約して教えているのが愛の憲章と呼ばれているⅠコリント13章の愛の教えです。
◆「Ⅰコリ 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 13:8 愛は決して絶えることがありません。」
3、愛の実践の秘訣
①創造主に愛されている喜びで自分の心を満たす事
では聖書がなぜ、私たちに隣人愛によって互いに愛し合う事を教えているのでしょうか。、それは、私達全ての人を創造された創造主が愛に満ち溢れたお方で、全ての人が創造主に無条件の愛で永遠に愛されているからだという事です。Ⅰヨハネ4章にその事が教えられています。「愛は神(創造主)から出ているのです」「なぜなら神(創造主)は愛だからです」。「ここに、神(創造主)の愛が私たちに示されたのです」。「私たちが神(創造主)を愛したのではなく、神(創造主)が私たちを愛し」。「神(創造主」がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」「神(創造主)の愛が私たちのうちに全うされる」
私たち一人一人を母の胎内で創造された創造主の神が、一人一人を無条件の愛で愛されていると」信じる信仰からくる喜びを人が心に抱く時、その人は、おのずと自分も人を無条件の愛をもって愛する実践へと意欲が燃やされるのです。私たちが神を愛したのでなく先ず神が私たちを愛して下さったという神の愛の先行性の真理に私たちはしっかりと目を向ける必要があります。それが、自分を愛するように隣人を愛する愛の実践へと私たちを引き上げて行きます。では、創造主の神は罪びとの私たちを先ずどのように愛されているのでしょうか。
≪自然啓示によって(自然の多くの恵みによって)≫
Ⅰヨハネ4章では直接言及されていませんが、創造主の愛は、ご自身が創造された美しい自然、楽しい動物たち、美味しい海の幸、山の幸、野の幸、綺麗なお花等、自然の多くの恵みによって、私たちに神の愛が十分に示されています。それを「自然啓示」と言います。我が家には、まろ、「小次郎」、「三郎」、「マロ」の3匹の猫がいます。猫は素晴らしい対話能力を持っています。自分の意思や欲求や感情をあらわしてくれます。餌が欲しい時は爪を立てて私の服をかきます。家の外に出たいときは、自分が先頭に立って窓際に導きカーテンをひっかきます。美味しいおやつの「ちゅーる」が欲しい時にはその前に座ってじっと待っています。妻が声をかけると喉をごろごろと鳴らし喜びを表現します。瞬時に高いところ飛び上がったり、高いところから飛び降りたりします。その為に、足の骨はばねのように反動するように造られています。また、足の下は肉球という柔らかいクッションを備えています。静かにすばしこいネズミや、空を飛ぶ鳥を一瞬にとびかかって捕まえます。猫は、非常に素晴らしい運動能力を備えています。綺麗好きなので、それにピッタリのブラシのようなざらざらの舌を備えられており、いつもその舌で体を綺麗にしています。。以下がその猫の生態の特徴のイラストです。

以上のように、猫は猫として幸せに生きて行けるように、創造主の神さまは素晴らしく愛をもってデザインされ、お造りになっている事が分かります。我が家の「マロ」と言う猫は、人間になつかない猫ですが、一昨年亡くなった長男の聖慈だけは別でした。いつも聖慈の部屋に行っては安心して寝ていました。改めて、聖慈の優しさは猫に対しても表されていた事を知って感動をしました。マロは、聖慈の優しき雰囲気を感じ取っていたのです。
創造主の神さまは、ご自身の愛と知恵と力とを充分に注がれている猫の存在によって、私たちにご自身が愛である事、知恵に満ちている事、力に満ちている事を示されているのです。創造主の神さまの愛は、ご自身が創造された被造物(自然)を通して充分に示されているのです。私達が、神の創造された被造物に囲まれて日々生かされている事は、創造主の愛に囲まれて生かされている事を意味しています。是非、被造物(自然)を通して先ず、先行的に示されている神の私たちへの愛をしっかりと認識し、信じて、神さまに愛されている喜びで心を満たして下さい。美味しい食事を食べてお腹が満腹するように、被造物を通して示されている神さまの愛を信じて愛されている喜びで心を満腹にして頂きたいと思います。
≪特別啓示によって≫
神さまの先行的愛は、ご自身が創造された被造物(自然)だけでなく、キリストの十字架の救いの御業に表されています。それを特別啓示と言います。Ⅰヨハネ4章で次のように教えられています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」キリストの弟子のヨハネは、父なる神が、御子なる神であるキリストを私達の罪の為に、宥めの供え物として遣わされた事に、父なる神の愛があると教えています。
≪御子なるキリストがなだめの供え物となった事の意味≫
では、御子であるキリストが「なだめの供え物」となったというのはどういう意味でしょうか。聖書の創造主の神さまは、唯一の神さまですが、同時に、父なる神と御子なる神と聖霊なる神による三位一体の神だと教えられています。その意味は、父なる神という独立した神と、ひとり子の御子なる神と言う独立した神と、聖霊なる神と言う独立した神が存在し、同時にその三つの位格の神が唯一の位格の神であるという事です。それを三位一体の神と呼んでいます。独立した三つの位格の神が互いに愛の交わりを持ちながら同時に一つの位格の神であるというのが聖書が教える三位一体の創造主の神さまです。「位格」と言うのは、神の人格を意味する言葉として使用されています。その父なる神が、ご自身の人間の罪に対する正義の怒りを「なだめるための供え物」として、御子なる神を人間にされ、メシヤとしてこの世界にお遣わしになりました。それが、約2000年前に、ユダヤのベツレヘムの村の家畜小屋で、マリアが聖霊によって身ごもって生んだイエス・キリストであったのです。大変不思議な神の大いなる恵みの御業です。
ではなぜ、私達の罪のなだめの為に、罪のない聖なる御子なる神が人となる必要があったのでしょうか。その理由は
第1に、人間の犯す罪の赦しの為に身代わりの刑罰を受け、神の怒りをなだめる為には罪なき人間の血が流されなければならなかった事にあります。「ヘブル 9:22 律法によれば・・・・・血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」
第2に、そのような罪なき人間は人類の中で誰もいないという事です。罪に堕落した人類の中には、人類の罪の赦しの為、神の怒りをなだめる為に身代わりの刑罰を受ける資格のある罪なき人は誰もいません。お釈迦さんも、弘法大師も、孔子さんも、ソクラテスもその他どんな偉人もその資格は有りません。
第3に、そこで、父なる神は、御子なる神を人とならせ、その人となった御子が罪なき生涯を歩めば、その人となった御子をメシヤとするという事をご計画されたのです。キリストは父なる神に、全き従順の道を歩み、罪を一切犯されなかったので、父なる神によってメシヤに認定されたのです。
◆「ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
◆「Ⅰペテ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
では、なぜ人の罪が赦される為に、罪なきキリストの血が十字架で流される必要があったのでしょうか。その理由は人の罪は全て神の御前にでは「死罪」に価する事にあります。それを神は人の良心によって示されています。人は、罪によって良心の呵責に苦しめば、頭を下げ、顔を隠し、人と心から交わりをする事が出来なくなります。その良心の呵責によって、人格的交わりの断絶を知るのです。その交わりの断然を感じる感覚が「死罪」の感覚です。創造主の神さまは、良心を通して人の罪は死罪に価する事を知らされています。そのような、死罪に価する罪を犯している人間に対して神は厳しく怒っておられると聖書は教えています。その神の怒りの対象となっている私たちが、神の怒りが宥められて罪が赦されなければ、正義の父なる神によって裁かれて永遠に苦しみ続ける裁きを受ける事になります。父なる神は、正義の神で罪びとに対して正義の怒りを抱いておられますが、同時に、父なる神は愛の神さまです。全ての罪びとが裁かれるよりも、罪赦されてご自身の怒りと裁きから永遠に解放され、救われる事を、燃えるような情熱をもって望んでおられるお方です。
◆「Ⅰテモ2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
そこで、父なる神が罪びとの永遠の赦し為にご計画された事は、罪びとを怒って裁かなければならないという「神の正義」が失われない方法で罪びとを赦すという事でした。そのご計画が、罪のない聖なる御子を人として遣わし、全人類の罪を十字架で負わせて、身代わりの刑罰を受けさせることでした。父なる神は、罪びとの身代わりに十字架で罪を負い、刑罰を受けて、ご自身の怒りをなだめる為に、罪なき聖なる神のみ子を人として遣わされたのです。「ここに創造主の人類への愛がある」とヨハネは教えたのです。
神のみ子であるキリストは、私やあなたが永遠に罪赦され、永遠に罪が取り除かれる為に、私やあなたが一生涯において犯す多くの死罪に価する罪を十字架で背負って、身代わりに父なる神から刑罰を受け、罪なき血を流されたのです。それによって、父なる神の怒りが宥められたのです。
≪ある小学生の例話≫
ある小学生が学校で貯金係になりました。ある時、お母さんは、貯金係になった自分の子どもが、小遣いを与えていないのに、よくお菓子を食べているので不思議に思っていました。ある時学校の先生がやって来て、貯金係をしているその子が、お金をごまかして使っている事実を伝えました。おかあさんの顔から血の気が引きました。先生が帰ってから、お母さんはその子に事実を正直言うように教えますが黙ったままでした。やがてお父さんが帰ってきました。お母さんは学校の先生から聞いた事をお父さんに伝えました。正義漢の強いお父さんは烈火のごとく怒りを持ちましたが、忍耐をして、わが子に正直自分のした事をつげて誤るように促しますが、その子は頑固に下を向いてダンマリを続けました。とうとうお父さんの忍耐の緒が切れ、大きな怒鳴り声で「お母さん、そこのバットもってこい!」と命じました。お母さんはおどおどしてどうなる事か心配で、その子に「早く誤り!」と説得しますが、その子は頑固に応じません。ダンマリを続けました。お父さんは持っていたバットを思いきり我が子の頭に降り落しました。「バチ!」と言う強い音が部屋中に響きました。お父さんは思いっきりバット振り落としたのです。しばらくして、お父さんが我が子に「痛かったか」と優しく尋ねると、その子は「ううん」と返事しながらそっと目を開けてお父さんを見ました、その子はびっくりしました。お父さんの手から血が溢れ出ていたのです。お父さんは、手をわが子の頭に置いて、その手に向けてバット思いっきり振るい落したのです。お父さんの手の血を見た子どもは思わず「お父さんごめん赦して」と言って、自分の犯した罪を正直に告白して誤ったというのです、お父さんはクリスチャンでキリストの十字架に愛を知っていました、そのキリストの十字架の愛を思いながら、自分の手をわが子の身代わりに思いっきり叩いたのです。
≪全てをご存知のキリスト≫
愛する兄弟姉妹、今日、あなた方は、キリストの十字架の死の意味を知りました。キリストは十字架で、どのような思いで、苦しまれ、ご自身をお捧げ下さったのか深く考えていただきたいのです。キリストは、人となれた御子なる神ですので、キリストは全てをご存知の全知の神です。十字架のキリストは、約2000年後に誕生する、あなたが生涯において犯す罪を全部ご存知でした。つまり、約2000年昔の十字架のキリストは、約j2000年後の今のあなたの事を既に全部知っておられたのです。なぜなら、キリストは父なる神のデザインされた設計に基づいてあなたを愛もって創造された全知全能の創造主の神さまだからです。先ほどお話しました猫も実はキリストが父なる神の設計に基づいて創造された創造主なのです。十字架の御子なるキリストは単なる罪なき人でなく、天地万物を創造された全知全能の御子なる神なのです。聖書は繰り返しその事を教えています。
◆「コロ1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。」
◆「ヘブル神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」
十字架のキリストは、あなたや私達の創造主として、最も身近で、最も親しき慈しみ深いお方なのです。約2000年昔の十字架はキリストを遣わされた父なる神と御子なるキリストの私たちへの燃えるような愛が示されているのです。ここに愛があるのです。
十字架で示された父なる神と御子なる神であるキリストの愛を是非信じて下さい。十字架の愛で心が満たされる時に、その人は必ず、愛の実践に喜んで従う心が与えられるのです。それが、隣人愛で互いに愛する秘訣です。しかし、十字架で示された父なる神と御子なる御子なる神であるキリストの愛を信じるだけでは、隣人愛の実践は不十分に留まります。
②キリストを信じた者は、罪を犯さない人つまり愛の人にされています。
より、正しく愛の実践に導かれる秘訣は、キリストを信じたキリスト者は罪が永遠に赦されただけでなく、罪を犯すことが無い神の永遠の命と、神の聖なる性質(種)に永遠に与っている事を信じる事です。それによってキリスト者「神の子」として新生の恵みに与っているのです。新生したキリスト者の実態は、罪を犯さない者、神の無条件の愛で満ち満ちて神と人を愛する者と既にされているのです。その福音の恵み聖霊によって目が開かれて、しっかりと信じましょう。新生して神の子とされたという事は、人を妬んだり、恨んだり、人を見下したり、自己卑下したり、劣等感を持ったり、人を邪推で裁いたり、物事を否定的に見たりしないで、全ての人をキリストのように愛するもの、自分と他のキリスト者をいつも神が高価な宝石のように尊びに喜ばれ愛されていると、自分を他のキリスト者積極意的肯定し喜ぶ者、いつも神を喜びながら万事を神に感謝して、自分が体験する万事をいつも肯定的に希望的観測をもって肯定する者とされているという事を意味しています。その事を信じて、認め続ける安んじておく事が神の愛で心が満たされ、愛の実践へと導かれる秘訣なのです。人を妬んだり、恨んだり、人を見下したり、自己卑下したり、劣等感を持ったり、人を邪推で裁いたり、物事を否定的に見たりするのは、十字架で過ぎ去った「古い人」から出てくる邪悪な感情ですので、それに捕らわれず否定し、十字架にいつもつけ続け、殺し続けましょう。
◆「Ⅰヨハ 3:9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」
◆「コロ 2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」
③キリストを信じた者の心には、聖霊が内住されている
更に、愛の実践に導かれる秘訣は、キリストを信じたキリスト者の心には、御霊が内住されている事を信じる事です。その御霊の事をヨハネは「油」に例えて教えています。
◆「Ⅰヨハ4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
◆「Ⅰヨハ 2:27 あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」
油で例えられている「御霊」は、キリスト者の生活の全般にかかわって、日々、家事いついて、仕事について、教会の奉仕についてどうすれば良いのか教えています。その事に関しては誰からも教えられる必要が無いほど、御霊は、確実に一人一人を教え導かれているとヨハネは教えています。その御霊である油の教えに日々聞き従う事が、「キリストの内に留まっている事」だともヨハネは教えています。
私たちが、日々愛の実践を行う秘訣は、心に内住されている御霊の力を与えて頂く事です。その為には、自分が罪を犯さない、愛に満ち溢れた神の子とされているというキリストにあっての霊的事実にいつも目を留めて安んじておくことです。その上で、油である御霊の導きに日々の生活において従う事です。是非、創造主である天の父と、神の御子キリストの愛に愛されている喜びで心が満腹になる秘訣を会得して下さって、愛の実践者になって下さい。
