「神を愛し隣人愛に生きる秘訣」
聖書:マタイによる福音書 22章35節~40節
牧師:佐藤勝徳

「マタ22:37 そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 22:38 これがたいせつな第一の戒めです。 22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

【はじめに】
先日、星が美しく輝く夜空をみて、地球は私の「故郷」だなあとつくづく思わされ慰められました。美しい星が、宇宙全体に地球の海辺の砂のように多く存在し、その星たちが、規則正しく運行しているはなぜでしょうか。何故、多くの星は宇宙空間に留まる事が出来ているのでしょうか。それらは、進化論が教えるように「目的意識が無い」、「知恵を働かせない」、「設計をしない」、無い無いずくしの偶然によるのでしょうか。そのような偶然の積み重ねによって多くの天体が規則正しく運行をするようになったと教える進化論を、聖書は否定し、愛と知恵と力に満ちた全知全能の創造主の知恵と力による創造の御業だと教えています。非常に緻密に大きな力で規則正しく運行する多くの天体が存在する宇宙は偶然によって出現したと考える「進化論」と、全知全能の創造主の知恵と力によるという聖書の教える「創造論」と比較すれば、どちらが理にかなっているでしょうか。私は、両者の考え方を比較して、幾度も幾度も考え、瞑想をした結果ですが、少し時間がかかりましたが、聖書の教え通り、天地万物は創造主の愛と知恵と力による創造だと考える事が理に適っていると分かってきました。是非、皆さんも両者の考え方を比較していただいて、聖書の創造論に立つ科学者の見解を参考にして頂ければ感謝です。「創造の疑問に答える」をお勧めします。

「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」(旧約聖書イザヤ40章26節)

 

 

 

先週は、創造主の神さまを愛する為には、創造主を誤解しないように、聖書から正しく認識し理解をしておく必要性を共に学びました。又、創造主を愛するとは、創造主を創造主としていつも喜び感謝し賛美する事だと学びました。更に、その賛美の具体的仕方について学びました。①跪いて ②叫んで ③両手を上げて ④手を叩いて ⑤楽器をもって 賛美する事を学びました。

神さまを愛するという事は、先ず、神さまを神さまとしてお喜び申し上げている心をいつも抱き続ける事を意味しています。その日々の神さまへの愛が、日曜日ごとの礼拝に反映されて行きます。創造主への愛は、創造主をお喜び申し上げている心をいつも抱き続けている人が、集まって集団で礼拝を捧げる事です。その事を、神さまは大変お喜びなります。その集団の数が増えるほど神さまはお喜びなります。キリストの福音を宣教する事は創造主を否定している人々が、創造主を信じて創造主との愛の交わりに導かれ、その人格が神の似姿へと回復される為です。神のビジョンは、神の似姿を回復した人物が罪に堕落したこの世界に満ちる事です。そのビジョン達成に向けて教会は福音宣教によって、礼拝によって神さまにお仕えしています。

1、神さまへの愛と隣人への愛はセットで実践されなければならない。
  神さまを愛していると言いながら、自分の隣びとに対して自分を愛するように愛していなければ、その神さまへの愛は偽物だとヨハネは教えています。
「Ⅰヨハ 4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」
ヨハネは、目に見えない神さまへの愛と、目に見える隣人への愛はセットで実践しなければならない愛だと教えています。何故そうなのかを最初に学びたいと思います。
①神の平等の愛
 その理由の第1は、創造主の愛は、全ての人に平等に注がれている平等の愛であるという事です。自分が神さまから愛されている事を喜ぶ事は大変良い事ですが、隣人が神さまから愛されいてることも、実は自分にとっても大変良い事だという真理を真理と認める事を神さまは大変喜ばれます。神さまのなさる事は、いつも万人にとって最善だという真理を認めるならば、隣人が神さまから愛されている事は、自分にとって最善の喜ばしき事として受け入れなければなりません。
②全ての人は神の愛の傑作品
 第2の理由は、創造主は、一人一人をそれぞれの母の胎内に御手を伸べて直接に創造されましたので、一人一人は神の愛の最高傑作品として最大限に尊重されている事です。神さまに失敗作は無いのです。障害を生まれた人も、そうでない人も、全て神さまの愛の最高傑作品として神は深く尊重をされているのです。その事実を認める時に、私達は自分が神の最高傑作品として神から深く尊重されている事を喜び、同時にどのような隣人も神からご自身の最高傑作品として尊重されている事を喜ぶ事が、目に見えない創造主を愛する事になるのです。
しかし、実生活においては、アダムの堕落によって世界に入り込んで来た罪の法則によって古い人が貪欲になって、隣人への愛を失い、結果として神への愛をも失ってしまっているのが現状だと思います。神を愛し、人を愛するというセットの愛を妨げているのが、人の心に働くアマルティアと言う罪の法則によって貪欲にさせられている古い人です。多くの人はその貪欲な自分(自我)を何とか意志によって心の憶測にしまい込んで、押さえ込んで、隣人を傷つけないように言動に注意をして生活しています。それが、世の中では「道徳的に立派な人格者」として尊敬されているわけです。しかし、時に自分の意思で古い人と言う自我のコントロールができなくて、盗んだり、殺したり、姦淫したり、陰口悪口を言ったり、様々な罪を犯してしまっているのもまた事実です。古い人である自我によって湧いて来る「妬み」「恨み」「憎しみ」「怒り」等の邪悪な感情を持たないようにできる人は一人もいません。それを上手に隠す事は出来ても、湧いて来る自然な邪悪な感情を湧いて来ないように自己コントロールできる人は一人もいません。それ故に、真に神を愛する人は一人もいないのです。しかし、キリスト者には、神を神として愛する事と、隣人を自分の様に愛するというセットの愛を持つ道が、キリストによって与えられました。それが「聖めの福音」です。
神を愛し隣人を自分の様に互いに愛する道として、今朝は改めて「聖めの福音」を共に学びたいと思います。自分を愛するように隣人を自分のように愛するという事を、キリストは「自分が愛するように互いに自分の隣人を愛せよ」と言う新しい戒めとして高められました。その相互愛の実践の為には、キリスト者はキリストが自分をどのように愛して下さってるかしっかりとわきまえておく必要があります。そうでないと、キリストが人を愛するように隣人を愛する事は出来ません。

2、キリストの愛
①キリストは隣人の心身の幸せを願っている
キリストは、多くの人々の病を癒され、悪霊に着かれた人から悪霊を追い出されました。また、聖書の御言葉を適切に語り、聞いている人々の心を癒し励ましを与えられました。また、弟子達や多くの人々に喜びと平安を与えられました。 そのように、キリストは私達の心身が幸せであるように願って深く愛されています。そのように、私達も、隣人の心身の幸せを願って深く愛する事が必要です。
②キリストは祈りをもって隣人を愛されている
キリストは地上において祈りを捧げ、復活をされて天においても祈りを捧げ父なる神によってすべての人の心身の幸せが実現するように愛されている。そのように、私達も隣人の心身の幸せを願って祈りを捧げて愛を示す必要があります。
③キリストは全ての隣人を自分より優る尊い人として尊重し尊ばれた
キリストは弟子達の足を洗い、十字架でご自分の全てを全人類の罪びとの僕としてご自分を捧げられました。キリストは謙遜の限りを尽くして、全ての隣人の僕としてご自分の命を十字架に捧げました。 キリストはご自身の事を「わたしは柔和でへりくだっている・・」と言われました。キリストのように、私達も、謙遜の限りを尽くし、全ての隣人が自分より優る尊い存在だと認めながら、隣人の心身の幸せの為に命を捧げる愛で隣人を愛する事が求められています。
④キリストの愛は赦しの愛です
キリストは、ご自分を十字架につけた人々の為に、十字架で赦しを求めるとりなしを捧げ、赦しの愛を表明されました。ご自身を銀貨30枚で売り飛ばした裏切者のユダに対しては「友よ」と呼びかけられました。また、ご自身を裏切った弟子達を赦されました。キリストの愛は赦しの愛でした。今も、天において赦しの愛をもってすべての人を愛されています。それ故に、私達も、隣人を赦す事によって隣人愛を表明する事が求められています。
⑤キリストの愛は聖なる愛です
キリストは、人を妬んだり、憎んだり、見下したりする、傲慢な邪悪な思いを一度も持つ事がなく、全ての隣人を愛されました。キリストの愛は今も完全に聖なる愛です。私達も、キリストの如く聖なる愛をもって愛することが必要です。
キリストの愛はもっと多くの形で表現されていますが、今日は以上の5つを学ぶ事で良しとしておきたいと思います。
2、キリスト者の愛
では、私達キリスト者は以上のように5つの愛でキリストが愛されたように、隣人を愛する事が出来るでしょうか。多くのキリスト者はある程度の愛を表す事が出来ていると思います。しかし、隣人の心身をいつも願い祈り、隣人を自分より尊い存在として尊び、隣人から傷つけられたり損害を受けても全て赦し、いつも邪悪な感情を持たずに、聖なる愛をもって隣人に愛を表明できているでしょうか。いや出来ていないと、叫びたくりますね。どうすれば、キリストのように隣人を愛する事が出来るのでしょうか。その秘訣を以下に学びたいと思います。

3、隣人愛実践の秘訣
 ①私(佐藤)の体験(キリスト者の標準)との出会い
私は21歳で神学校に入らせていただきましたが、神学校では聖書を学ぶ時間や祈りの時間や瞑想する時間が多く与えられました。しかし、神学生には色々個性豊かな人たちがいましたので、そうした神学生との人間関係に苦しみました。ある時、自由主義神学を愛する神学生と同じ部屋になりました。私は、彼とそりが合わず一回も一緒に祈る事が出来ませんでした。また、ある時は、後輩が、私の玄関での靴の脱ぎ方が悪いと厳しく指摘しました。私は、それに腹が立ちました。しかし、彼の指摘は当たっていましたので、その怒りを彼にぶちまけて喧嘩するわけにはいきません。私は神学校の裏にあった山に登って、そこで、神さまにむかって「腹が立ちますわあ!」と叫んで何とか気を静めました。そうした色々な事があって、私は自分の心に湧いて来る邪悪な思いを何とかしなければと必死になっていました。そんな時、神さまが私に与えて下さった本が中国の牧師「ウオッチマン・ニー」の書いた「キリスト者の標準」でした。その本によれば、キリスト者の標準は、結論から言えば「キリストのように聖く正しく生きる」という事でした。私は、それはとても無理だと思いながらも、その本を何度も読み返し、一人瞑想の時間を持ち続けました。そこで、初めて、キリストの十字架の血による赦しの意味が以前より深く学ぶ事が出来、罪深い自分がキリストの十字架の血によって赦され愛されている事を知ったのです。それによって、やっと牧師になる決心が出来ました。しかし、キリストのように聖く正しく生きるという「聖化の道」を歩む事は、一部は分かっても、なかなか全てが理解できなくて苦しみました。そのような時に、他教団の牧師で神学校の教師であった堺福音教会の我喜屋光雄先生がローマ書から「聖化論」を説いて下さいました。ウオッチマン・ニーの聖化論を一人で学んでいましたので、我喜屋光雄先生の説く「聖化論」が少しわかりました。神学校を卒業し牧師になってからもウオッチマン・ニーの聖化論を更に学び続けました。私は、説教でもその聖化論を語るようになりました。自分では、聖霊によって諭されている信じていました。
②聖化論を聖霊によって諭された体験
しかし、今から18年ほど前、60歳ごろですが、教団に暴言を吐く若い先生が入ってきました。私は実行委員長として、その暴言を何とか対処しなければと思いましたが、その私に厳しい暴言を吐きましたので、私は怒り心頭で彼を怒鳴りつけました。その後、和解をしたものの、その先生をどうしても受け入れる事が出来ず、そのような愛のない私は実行委員長として資格がないと思い、実行委員長を止める事にしました。私の心はもやもやとして、何か心が満たされない日々が続きました。そんなもやもやした心でリビングのソファーに座っていましたが、その時、聖霊が細い声で、あなたは「誰をも愛する人に既になっていますよ」と語って下さったのです。その御声によって思い出したのが「その体験を通して、私は、ウオッチマン・ニーが説く「聖化論」をまだ」聖霊によって諭されていなかった事に気づきました。私は、キリストと共に十字架で死に、共に甦って、キリストのように誰をも愛せる人になっているという事を、単なる知識ではなく、初めて聖霊に諭されて知る事が出来たのです。その体験は、私のクリスチャン生活をガラっと変えたのです。それから、更に「聖化の道」に生きる事がどういう事か更に追及が始まりました。45歳の時に万事を感謝するように導かれた主は、60歳の私に「聖化の道」を歩むように導かれたのです。もし、その体験が無ければ私は「聖化の道」を単なる教理として宣べるにとどまっていただろうと思います。私は、その時から、自分で普段実行している「聖化の道」を説くようになりました。
4、パウロの説く聖化論
以上の私の体験踏まえて、キリスト者がキリストのように隣人を愛する為のパウロの説く「聖化論」を改めてお伝えをします。
①最後のアダムであるキリストととは一つにされた
キリストは、最後のアダムと呼ばれています。その意味は、キリストは最後の人類を代表する人としてベツレヘムの村でお生まれになったという事です。最初の人類の代表者はエデンの園で土の塵から創造されたあのアダムです。人類の代表者となったのは、最初のアダムと、最後のアダムであるイエス・キリストの二人だけです。人類の代表者と言う事は、その人に全人類が含まれている事、包含されている事を意味しています。ですから最初のアダムが罪に堕落した時に、全人類も同時に罪に堕落し有罪となり、父なる神の裁きの対象となりました。しかし、父なる神は誰もご自身によって裁かれて滅びる事を願われない愛に満ちたお方です。そこで父なる神様は、アダムの罪を初め全人類が犯した全て罪が赦される為に、最後のアダムとしてイエス・キリストをこの世界に遣わされました。キリストは人類の最後の代表者として遣わされましたので、キリストは全人類の代表者として一人でアダムの罪エバの罪、全人類の罪を全部背負う事が出来ました。父なる神は、人類の最後の代表者であるイエス・キリストに十字架で全人類の罪を負わせられたのです。聖なる罪なき人類の最後の代表者アダムであるキリストの十字架の身代わりの死によって、あなたの過去、現在、未来の全ての罪が完全の取り除かれなくなりました。その事を信じた人は、その十字架の救いが適用され、実際に全て罪はて永遠に取り除かれ神さまによって永遠に赦され、永遠の義人と認められた自由に神さまとの交わりに生きる資格が与えられたのです。
キリストの十字架の救いの御業は、私達の罪を取り除くだけではありませんでした。私たちが、イエス・キリストを模範として、イエス・キリストのように歩む人となる為の「聖化に道」を備えたのです。
キリストが人類を代表する最後のアダムとして2000年昔にユダヤのベツレヘムにお生まれになった時、人類は最初のアダムから切り離されて、最後のアダムであるイエス・キリストに移され結ばれたのです。それは神の一方的な恵みの御業です。人が願ったからそうなったのではありません。罪をキリストが背負って下さったのも、人がそう願ったからではありません。父なる神の一方的な恵みの御業です。そのように、罪の性質もった全人類が最初のアダムから最後のアダムであるキリストに移されて結ばれた事も父なる神の一方的な恵みの御業です。

②神が全人類を最後のアダムであるキリストに移された目的
 父なる神が、2000年昔。ユダヤのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった最後のアダムであるキリストに全人類を移され結ばれ、キリストと一体化させられた目的は、パウロがロマ書で教えている「アルマティア」と言う罪の原理によってすぐに身も心も貪欲になってしまう「古き人間」をキリストと共に十字架で殺し、キリスト共に甦らせて神の聖なる性質持ち、キリストのように全ての人を愛する新しい人にする為でした。古き人間は罪の生産工場です。罪の生産工場から出された多くの罪が赦される為に、キリストが身代わりの刑罰をお受けになりました。しかし、キリストの十字架の死は、罪の生産工場から出される多くの罪を処分しただけでなく、罪の生産工場そのものである古き人間を十字架で処分したのです。
③古き人とアマルティヤ(罪の法則)との関係
 アダムが罪に堕落した事で、世界に入ってきたのは「死」と「罪(単数形のマルティア)」でした。死が全人類に及んでいるように、「罪(単数形アマルティア)も全人類に及んでいます。この「アマルティア」は、罪の法則となって罪の性質をもって生まれた全人類に働きかけ、肉体と心に貪欲を持たせています。生まれながらの人間の「罪の性質」と言うのは、その罪の法則に打ち勝てない性質のことを言います。その罪の法則に勝てない、罪の性質をもっている人間をパウロは「古い人」と呼んでいます。「罪の法則」は、罪の性質を持つ古い人が「貪欲にならないぞ」と、決心するとすぐに働いて貪欲にさせ、その結果様々な邪悪な感情を持たせ、言葉と行いにおいて数々の恐ろしい罪を犯させているのです。その為に、全人類が恐ろしい罪を犯している事をパウロは教えています。以下の通りです。
◆「ロマ3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪(アマルティア)の下にあると責めたのです。 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。』 3:13 『彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。』『彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、』 3:14『彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。』」 3:15 『彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。』」3:18『「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。』」
④キリストのように隣人を愛する道
人間は、空を飛ぶ命と性質がありませんので、いくら鳥のように空を飛ぼうとジャンプしてもすぐに引力の法則によって地に落ちてしまいます。古い人と「悪の法則」は、空を飛ぶ命と性質を持っていない人間と引力の法則の関係に似ています。罪の性質を持った生まれながらの人間である「古い人」は、貪欲にならないぞと決心したとたんに「罪の法則」によって「貪欲」を持たされてしまうのです。また、誰かが称賛されると「アマルティア」が働きすぐに心が騒ぎ称賛欲と言う貪欲の心を持たされて邪悪な感情である「妬み」が自然と生じるのです。私たちが、キリストのように貪欲にならず聖なる心をもって隣人を愛するには、古い人がキリストと共に一度死んでキリスト共に甦り「罪の法則」に決して影響を受けないキリストのような新しい人になる必要があるのです。
キリストは、私達の罪が取り除かれる為に、地獄の苦しみを味わいながら十字架で身代りの刑罰をお受け下さいました。また、アマルティアの罪の法則によって自分の意志とは関係なしすぐに貪欲なってしまう生まれながら古い人である私たちが死ぬ為にも、キリストは十字架で地獄の苦しみを受けながら死なれたのです。キリストの十字架の死は私達の罪の赦しの為であり、又、私たちが共に死ぬ為でもあったのです。キリストの十字架の死はキリストと私達の共同の死であったのです。
⑤全ての罪は2000年昔にキリストの十字架の死によって取り除かれた
私達の生涯の全ての罪が、まだそれらの罪を犯さない2000年前にキリストの十字架で取り除かれました。キリストの十字架で2000年前に全部取り除かれた私たちの罪は、2000年後の私達の歴史に実際に顕れてきます。ですから、2000年前にまだ知らない、まだ犯していない罪も含めて自分の一生涯の罪が全部取り除かれた事で、永遠に赦され永遠に義人となったという福音の事実に立ちながらも、2000年前に取り除かれた罪を今実際に犯している者として、その罪を日々神様に告白して赦しを乞う事は正しい事ですので、その罪を告白して日々の赦しを得て神さまとの交わりの回復の中に生きる事を聖書は教えています。
◆「Ⅰヨハ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」
⑥古き人は2000年昔キリスト共に十字架で死んで、共に甦った
私達の一生涯において犯す罪が、2000年昔、エルサレムのゴルゴダの丘に立てられたあのキリストの十字架でその一点において全部取り除かれたように、アンルティアの罪の原理によってすぐに貪欲になって、邪悪な思いを持ち、様々な恐ろしい罪を犯す古き人である一人一人がキリストと共に死んだのです。歴史的に実際に古き人が死んだのは、エルサレムのゴルゴダの丘に立てられたあのキリストの十字架というその一点においてです。
古き人はそこで死んだのです。あなたが古き人を体験する前に、あなたが全く知らない時に、父なる神は十字架のキリストによって吹き人を殺し処分されたのです。私たちが日々体験している古き人の死はいつ起きましたか。それは、私たちが生まれる遥か昔2000年前に起きたのです。古き人はキリスト共に死んだだけではありません。キリスト共に甦り、罪を決して犯すことが無い、全ての人を尊び愛するという神の聖なる性質に与り新しい人となったのです。それはいつですか、それも2000年昔に起きたのです。
古き人と言うのは、心身に起きる貪欲により、人を妬んだり、恨んだり、憎んだり、邪推で裁いたり、否定的な思いに支配されたりするその自分です。その古い自分を、2000年昔に神さまに殺されたものとして否定し、十字架に委ね、同時に、キリストと共に甦り、人を妬まない者、憎まない者、恨まない者、邪推で裁かない者、否定的にならない者、万事を喜び感謝する者、全ての人を愛し、自分より尊い存在として、神さまの尊い愛の傑作品として尊ぶ者とされているという、「聖めの福音」に立って安んじる事です。その上で、日々御霊に聞き従う事です。その安んじるという信仰と御霊に日々聞き従う時に、聖霊が働き、聖霊によって実際に古き人は退けられ、我ならぬ我と言う新しい御霊の実を結んでいる自分を日々体験してくのです。その体験の繰り返しにより、古い人の性質が少しずつ減少し、新しい人の性質が少しずつ増し加わり、少しずつキリストの人格に私たちが実際に似せられていくのです。それが「漸進的聖化の道」なのです。私達がキリストのように隣人を愛するという「非常に高いレベルの隣人愛」の実践は、2000年昔キリストと共に十字架で古き自分が死に、キリストと共に新しい人として甦ったという、「聖めの福音」を聖霊によって諭され、日々、その「聖めの福音」にキリストの十字架の苦難と犠牲に励まされて、勇気をもって立ち続ける事です。キリストは、私たちが「聖化の道」を喜んで意欲をもって歩めることを激しい情熱をもって願いつつ、地獄の苦しみを受けながら十字架で古き私たちを負って死んで下さったのです。あなたは、キリストと共に十字架で死んで甦ったのです。
【終わりに】
古き自分が、約2000年昔キリストと共に十字架で死んで、キリスト共に甦って新しい人となったと言う「聖めの福音」に立って、御霊の力により、キリストのように隣人を愛する事が出来るように祈りましょう!